第30話 愛を届けるとき

 家のなかは、静かだ。彼ら以外に、人の気配もない。

 階段を上るリズムが、心臓の高鳴りとシンクロしている。

 鼓動が二度鳴るごとに、一歩。

 美咲の部屋は、階段を上りきった廊下を、まっすぐ右に進んだ先にある。

 気のせいだろうか、美咲の手で部屋のドアが開けられる瞬間、フローラルの優美で上品な香りが、鼻腔びこうを刺激した。

 美咲は、インテリアに関してはお義母かあさんのセンスを濃厚に受け継いでいるらしい。

 室内の色調はおおむね白やグレー、木目もくめを基本にしており、シックで落ち着いた印象だ。きれいさっぱり整頓せいとんされているせいか、想像していたよりもよほど広い。

 部屋を入ってすぐ右には勉強用のデスク、中央にはそれとは別に背の低い丸テーブルが置かれており、黄色い可憐かれんな花束が白い花瓶にけられて、これが先ほどの香気の源であったらしい。機能的で洗練されている分、ともすれば無機質に感じられがちな部屋の色彩に、大きな存在感をもって女性的な華やかさを与えている。

 部屋の左側には等身大の姿見が、そして奥にはシングルサイズのベッドに羽毛仕立てのいかにもあたたかくやわらかそうな布団が折り目正しくかけられている。

「めったにお客さん呼ばないから、なんだか殺風景でしょ。ここ座って」

 と、美咲は手をつないだまま、中央のローテーブルへと誘導した。

 座布団がふたつ、並んでいる。

 幸太は、目の前の花について、尋ねた。

「これ、ママが今日に合わせてカラーブーケを買ってきてくれたの。これがバラで、これがフリージア、こっちがミモザ」

 これがミモザか、と思った。何かと縁のある花だ。

「かわいい花だね」

「そうでしょ。お花があると部屋が明るくなって、うれしくなる」

 花をながめて微笑む美咲の横顔に思わず見惚みとれていると、彼女は気配に気づき、あわてたように立ち上がって、デスクの方へ歩いた。

「ね、これ見て!」

「あ、それ」

 彼女が手にとったのは、小さなペンギンのぬいぐるみだ。

「俺も大切にしてるよ。美咲からのプレゼントだからね」

「私も大切にしてる。コータとお揃いだもん!」

 美咲の手元のペンギンから、幸太の目線は自然にその奥、デスクの上の棚まで動いて、そこで止まった。

 幸太の視線に気づいた美咲は、そのアクセサリーラックへと手を伸ばした。

「これも、宝物だよ」

 そう言うと、美咲は姿見の前で髪をくるくるとアップにし、幸太のプレゼントしたト音記号のペンダントを身につける仕草を見せた。

 幸太が立ち上がり、美咲に代わってつける。

 よく整えられたうなじが、美しい。

 鏡の向こうでは、美咲がじっと、幸太のことを見つめている。

 ネイビーのブラウスに、キャメルのフレアシルエットのスカート。シンプルでしかもフェミニンなよそおいではあるが、胸元にシルバーゴールドのペンダントがきりりと輝いて、全体の雰囲気をぐっと大人っぽくしている。

「似合ってる、きれいだよ」

 うん、とだけ、美咲は答えた。

 反応が小さく薄い理由が、幸太には分かる。

 分かるから、幸太もあえて言葉を多用しようとはしなかった。

 肩に手を置き、そのまま美咲を包むように後ろから抱きしめる。美咲は黙ったまま、鏡の向こうへとまっすぐに視線を向け、指をからめるようにして手を握った。

 しばらく、互いのぬくもりとにおいを感じ、やがて美咲が体ごと振り向いて、ごく自然と、キスを求めた。

 美咲は、幸太の愛情を感じたいのだろう。

 幸太も、そうだ。

 長い口づけと、長い抱擁ほうよう

 そのとき。

 幸太は考え続けた。

 彼は、選択を迫られている気がした。

 このキスを終えたあと、ブラウスのボタンに手をかけるべきか、どうか。

 仮に幸太がそうしたとして、美咲は拒否しない。

 その点、彼には確信があった。

 美咲が、彼を部屋に招いてくれたからではない。幸太と美咲とは、いつも同じ気持ちでいるからだ。

 幸太が手を動かせば、美咲は、あとは彼の望み、振舞うままにすべてをゆだねてくれるだろう。

 それを想像すると、無意識のうち、美咲の背中や腰に回した腕に力が入った。

 美咲を、愛したい。

 幸太は狂おしいほどにそれを思った。美咲に愛を伝えたい。

 が、一方で愛を伝え、愛を確認し合うだけが真実の愛情ではないとも、幸太には分かっている。

 今、美咲を抱くことが、本当に彼女のためになるのだろうか。

 と考えると、幸太には違うように思われた。

 幸太は、彼の決意を美咲に伝えることにした。彼女の体をぎゅっと抱きしめながら、

「美咲」

「うん」

「続き、また今度にしよう?」

 少し表現が露骨だったか、と思うと、幸太はにわかにうろたえてしまった。

「俺、美咲のことが大切なんだ。傷つけたくないし、後悔のないように精一杯、愛したいと思ってる。だから、お互いに不安を残さないように、ゆっくり進んでいきたいんだ。それに、美咲の進路も、俺にとっては大事なことだよ。受験が終わったら、ふたりのこと、一緒に考えていこう」

 美咲の顔を見ると、それまでずっと緊張していたせいだろう、表情にこわばりがあるが、瞳には穏やかな信頼が宿っているように感じられる。

 もしかすると、かえって美咲を傷つけ、さびしい思いをさせてしまうかもしれない。

 幸太は、Take1最後の日を思い出した。あのときは、美咲が彼の手を握り、彼の存在を求めてくれた。恐らく、美咲はあのとき、ひとりでいるさびしさを抱えていたのだろう。幸太がさとすと、彼女は微笑んで、手を離した。

 あの夜の、美咲の表情が忘れられない。

 もう二度と、彼女にあんな顔はさせない。

 そのためにも、幸太は美咲をどこまでも愛し、そしてその想いを言葉と行動で示そうと思う。

 幸太の、その想いが、通じたのだろうか。

「コータ、ありがとう」

「美咲」

「私、おんなじ気持ちよ。私も、ほんとは今じゃない気がしてた。なんていうか、準備ができてない気がして。けど、コータが求めてくれるなら、応えた方がいいかなって、迷ってた。どうすればいいのか、どうしたいのかも、よく分からなかった。でも、そんな中途半端な気持ちじゃダメだよね」

 語尾が震え、はら、と美咲の濡れた瞳から涙のしずくがこぼれ落ちていった。

 いとおしい涙だ。

「受験が終わって、私の迷いがなくなって、ふたりでしっかり話し合って、それからでもいい?」

「もちろんだよ」

「ごめんね、めんどくさいよね」

「そんなことないよ。美咲の気持ちを教えてくれてありがとう。俺は、美咲の気持ちを一番、大切にする。前にも約束したでしょ?」

「うん……覚えてるよ」

「だから、美咲も自分の気持ちを正直に、俺に伝えてほしい。隠したり、嘘ついたりしたら、俺も悲しいよ」

「うん、怖がらないで、ちゃんと伝えるようにする」

「ありがとう。美咲、大好きだよ」

「私も、大好き」

 幸太は再び、美咲を抱き、胸のなかで彼女の髪を撫でた。互いに迷いながらも、結果として美咲を守ることにつながったという安堵あんど感がある。美咲もきっと同じ気持ちで、ゆったりと静かな呼吸を繰り返している。

 いつか、ふたりの迷いが消えたときは、自分もありったけの誠実さとひたむきさで、彼女に愛を届けよう。

 どれくらいの時間、ふたりで抱きしめ合っていたのか。

 だしぬけに、美咲が顔を上げた。

 なにか、面白いことでも思いついたのか、表情がきらきらとした光にあふれている。

「ね、ふたりきりになったら、お願いしたいことがあったの!」

「ん、なに?」

「いずみにしたこと、覚えてる?」

 いずみ、とはクラスメイトの大野のことだ。

 (俺が大野にしたこと……?)

 幸太は脳裏で、大野との接点について、ぱらぱらと記憶のなかの映像をめくった。

 思い当たらない。

 すると美咲は幸太が答えられそうにないと知って、

「うふふ、忘れちゃった? ケガしたいずみのこと、抱っこしたでしょ」

「あぁ、そんなこともあったね。忘れてた」

「あれ、私にもしてほしい。いずみより重いはずだけど。いい……?」

 確かに大野は小柄でしかもせぎすだから、美咲よりは軽かっただろう。

「プリンセスのご用命なら、いつでもお抱えしますよ」

「えっ、いいの? 重いよ……」

「美咲だって痩せてるし、軽い軽い。それに愛情補正があるからね」

「愛情補正って、そんなにすごいの?」

「そりゃあね。俺の首に両手を回して、できるだけくっついて」

「こう?」

「じゃあ、いくよ」

 ひょい、と美咲の膝と背中、幸太の首を支点に持ち上げる。

「えっ、すごぉい!」

 あっはは、と美咲は初めてのお姫様抱っこに、瞳を輝かせて笑った。

 ずいぶん安定して抱えられてはいる。

 (ほどほどに鍛えておいてよかったな)

 そのまま何度かくるくると回ってみせるたび、美咲は怖いような、うれしいような、はしゃぐような、小さい悲鳴を発した。

「私、重いでしょ」

「いや、全然重くないよ」

 そんなわけはない。

 確かに美咲はプロポーションにも恵まれているが、それでも身長を考慮すればどんなに少なく見積もっても40kgはあるだろう。

 ただ、愛情補正というやつは、すべてをぶち抜くほどに偉大なのだ。

「コータ、ありがとう。私うれしいよ」

「今度、学校でもやってみよう」

「恥ずかしいよ」

 ふふ、とやわらかい笑みをこぼしたあと、美咲は幸太の首に回した腕に力を込め、顔を近づけ、まぶたを閉じた。

 この日、幸太はお義母さんの帰宅前に、松永邸を辞した。

 そして12月も、いよいよ後半に入る。

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