第29話 聖地巡礼

「コータ、ちょっといい?」

 翌週月曜日の朝、美咲が幸太を教室の外へと連れ出した。

 廊下を過ぎ、階段を下り、さらに進んで、中庭まで達した。

 ベンチに座る。

「ごめんね、急に呼び出して」

「謝らなくていいよ。美咲が呼べば尻尾振ってついてくから。で、どうしたの?」

「うん……」

 美咲は緊張しているのか、言いづらそうにしている。

 (まさか、俺、なにか美咲が傷つくようなことしたか……?)

 不吉きわまる予感とともに、幸太は顔面の筋肉がこわばるのを自覚した。

「みんなの前だとちょっと言いづらくて」

「う、うん……で、なに?」

「今度の創立記念日、コータはなにか予定ある?」

「へ?」

 高校の創立記念日のことらしい。毎年12月13日がその日で、つまり来週の月曜日ということになる。

 無論、学校は休校だ。

「創立記念日は特に。家で勉強してると思うけど」

「そう。よかったら、一緒に勉強しない?」

「なぁんだ。いいよいいよ、もちろん。どこで勉強する?」

「……私の家、来る?」

「えっ……!?」

 幸太は絶句した。今、彼女はなんと言ったのか。

 愕然がくぜんとする幸太に、美咲も不安になったのか、慌てたように補足した。

「あのね、昨日、ママが言ってくれたの。コータのこと、家に招待したらって。ママもちゃんとご挨拶したいって」

「お義母かあさんが……」

「いきなりだし、迷惑かな? ごめんね、やっぱりママには断っとくね」

「いやいや、迷惑じゃないよ、全然!」

「ほんと?」

「ちなみに、ちなみになんだけど、美咲の家には美咲の部屋があると思うんだけど、それって神聖? 立ち入り禁止?」

「……ううん、もしコータが見たいなら、片づけとく」

「神様、あなたの恵みといつくしみに感謝します」

「……え?」

「来週月曜日、伺います。何卒なにとぞよろしくお願い申し上げます!」

「う、うん」

 幸太が壊れたのかと思ったのかもしれない。美咲は戸惑いを多量にふりかけた微笑で応じ、ここに約束が成立した。

 (どうする、どうする俺……)

 美咲の部屋は、すなわち聖地だ。

 聖地巡礼には、ちょっと早すぎないだろうか。

 しかも自分たちは受験生だ。

 このタイミングに聖地を訪れたりしたら、受験に悪影響が出ないだろうか。

 だが、美咲がせっかく誘ってくれたのを、断ることなどできるはずもない。

 (お、俺が美咲の部屋に……これはいったい、どうなっちゃうんだぁぁぁ!?)

 やや呆然として教室に戻った幸太に、中川がへらへらと笑いながら冷やかした。

「どうしたコータ、別れ話か?」

 幸太がぼんやり口を開けたまま無視していると、中川がほかの連中と顔を見合わせる気配がした。

 お前ら、分かっとらんな。人間てのは、うれしすぎても呆然とすることがあるんだ。

 いや、それ以前に、外野の声など、もう耳に入らない。

 当日、朝。

 美咲の家は、都内でも有数の高級住宅街にある。駅前には必要な都市インフラがすべて整い、一方で郊外に出ると自然が豊かで、しかも新宿や渋谷といったターミナル駅にも電車一本でアクセスできる立地の良さ。住みたい街として常に最上位に名前が挙がるのもうなずける。

 駅前で美咲と待ち合わせ、住宅街へと進んでゆくと、ちょっとした邸宅と言っていいような重厚な家屋やモダンクラシックな一軒家が立ち並んでいる。昼間だというのに閑静で、どこからかピアノの音が流れてきては景色にとけてゆく。

 口数の少ない幸太に、美咲は違和感を抱いたようだった。

「コータ、なんだか緊張してる?」

「うん、少しね。ご両親に失礼のないようにしたいなって」

「今日、パパはいないの。ママだけだから、リラックスしてね」

「あ、そうだったんだ」

「ごめん、言ってなかったよね。ママがね、コータに興味あるみたい」

 えへへ、と美咲は子どものように無邪気な笑顔を見せた。

 が、それでも幸太の緊張は消えない。

「義理のお母さんにご挨拶だからな。頑張るぞ、と」

「義理のお母さん?」

「うぅん、まぁ、こっちの話」

「着いたよ!」

 家は、存在感のある2階建てだ。外壁は白を基調としながら、窓枠のサッシや玄関周りの重厚な黒が、全体の印象を整えている。玄関前には小さいが丸い花壇があって、春になれば彩りも豊かに花が咲くのかもしれない。モダンでありながら周囲との調和もとれた、シンプルかつ気配りの行き届いたエクステリアだ。

 壁に汚れや傷がほとんど目立たないところからすると、まだ築5年以内の、新築に近い状態かもしれない。

「この花壇はね、私がどうしてもってお願いしてつくってもらったの」

 美咲はそのように微笑みを浮かべながら、幸太の手を握り、玄関から中へ導いた。

 落ち着いた銀灰色ぎんかいしょくのタイルの上で足元をもぞもぞさせていると、奥から人の気配がする。

「幸太君、いらっしゃい」

「あ、お邪魔いたします。本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」

「そんなにかしこまらないで。どうぞ奥にいらして」

 お義母かあさんは、文化祭でめかし込んでいたときよりももう少し自然でやわらかく、軽やかな雰囲気だ。奥のリビングを指し示す動作が、まるでバレエの一幕を見ているかのように優美で華やかで、こういうところに、なるほど美咲の母親だ、と思わせる確かな面影おもかげがある。

 インテリアも、洗練されている。外壁よりもやや落ち着いたグレーに近い白の壁紙、一転して木目もくめ調のぬくもりある床面、採光の豊かな窓やダイニングテーブルと一体化した広々としたキッチンはあか抜けた印象で、いずれもセンスにあふれている。

 リビングで、幸太はせわしなく室内のあちこちに目線を送りながら、お義母さんに尋ねた。

「失礼ですが、お宅のデザインは、お義母様がご提案をなさったんですか?」

「えぇ、ほとんど私が要望を伝えて、その通りにしてもらったわ」

「ママ、インテリアコーディネーターの資格も持ってるんだよ」

 小声で、美咲がそう教えてくれた。

 幸太は、お世辞抜きに、やや興奮気味にお義母さんのセンスを褒めちぎった。

「なんというか、とても素敵です。理想的なお住まいづくりだと思います。とてもおきれいで、上品で、素晴らしいお母様をお持ちで、お嬢様がうらやましいです!」

「幸太君、褒め上手ね。そんなこと言われたの初めて!」

「コータはほんとに褒め上手なんだよ」

「そう、美咲ちゃんはなんて褒められるの?」

「恥ずかしくて言えないようなこと言われるよ」

 幸太と美咲は、手をつないだまま笑い合った。

 確かに、余人よじんが聞いたら正気とは思えないようなこと、言っているかもしれない。

「落ち着かないかもしれないけど、どうぞ座って。紅茶でいいかしら?」

「ありがとうございます。どうぞお構いなく」

「修学旅行の話、娘から聞いたわ。あちこち連れ回しちゃったみたいで」

「いいえ、連れ回したのは僕の方です。ご心配をおかけしてます」

「心配どころか、感謝してるのよ。幸太君のおかげで、娘は毎日が本当に楽しいって言ってて」

 美咲に目線を戻すと、彼女は頬をほんのりと赤らめて、あごを突き出している。照れ隠しだ。

「僕も、お嬢様と同じ気持ちです。お嬢様とお付き合いできて、僕の人生の一番の幸せだと思っています」

「お嬢様、だって、美咲ちゃん」

 母娘おやこはなぜか、ともに両手で顔をおおってけらけらと笑った。

 (変なこと、言ったかな)

 3人はそれから、尽きることのない談話の数々を楽しんだ。

 幸太は最初こそ緊張があったが、母娘のやわらかくあたたかい雰囲気にすぐにうちとけることができた。お義母さんも、幸太の話をよく聞いてくれる。

 観察するかぎり、美咲とお義母さんは、互いを愛し信頼しつつも、親友に近いような肌感覚をもって付き合っているらしい。美咲がお義母さんの服をシェアしているというのも、それだけ距離が近いという証だろう。

 ただ気になるのは、彼女たちはそれぞれの夫、父親についてはほとんど触れようとしないことだ。話題がそちらに及びそうになると、意図的に引き戻しているようにさえ感じられる。

 (美咲やお義母さんは、お義父とうさんと仲が悪いのかな……)

 せっかくのいい雰囲気をこわすかもしれないことを考えると、正面切って聞くこともはばかられ、結局、分からずじまいだった。

 いずれ、知るときがくるだろう。

 昼食をごちそうになり、リビングのテーブルに並んで美咲と受験勉強をしていると。

「美咲ちゃん、ママ、ちょっとお友達とお茶してくるから」

「えっ、出かけるの?」

 美咲も意外らしい様子だった。お義母さんはすでにメイクのテイストを変え、服装もすっかり整えて、身支度を終えてしまっている。

「パパは夜まで帰ってこないし、ママも3時間は帰ってこないから。幸太君、急でごめんね。自分の家と思ってもらってかまわらないから、いつまでもゆっくりしていってね」

 そう言い残して、やがて玄関の閉まる音がした。

 わざわざ帰る時間を細かく伝えたのは、なにか意味があったのだろうか。

 それだけの時間、彼らがふたりきりになることを、わざわざ伝える意味だ。

 その意味を、幸太と同様、美咲も感じたようだった。

 幸太と美咲とは、今、同じ気持ちでいる。

 ふたりはしばし、無言で問題集と向き合った。

 どちらも、ペンが走ることはなかった。

 (自分から、声をかけるべきだ)

 と、幸太は思った。

 ふたりが同じ気持ちでいるなら、自分が彼女に手を差し伸べ、リードすべきだと思った。

「美咲」

「うん」

「美咲の部屋、一緒に見に行ってもいい?」

「うん……いいよ」

 美咲が、幸太の手を握る。

 掌が、はっきりと分かるほどに、しっとりと汗ばんでいた。

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