第16話 WOMAN IN ROSE
美咲との初デートの翌々日、幸太の姉である
(うわ、姉ちゃん……まだ若くてきれいだな)
幸美は3歳年上、都心の女子大に通っていて、Take1では卒業後に公認会計士になり、さらにエリート税理士と結婚して2児の母親にもなっている。
「コーちゃん、ひっさしぶりねー!」
職選びは堅実なわりにとにかく陽気であけっぴろげな性格で、年がわりと近い幸太とはよくケンカもしたが、一人暮らしを始めてからはかえって帰省のたびに弟にべったりだ。
なかなか、うっとうしい。
「あんまりベタベタくっつくなよ」
「さびしいこと言うねぇ。たった一人の
「無駄に大きい胸が当たってんだよ。あっち行け!」
「えーいいジャン。まだ童貞だから恥ずかしいのー?」
「ど、ドーテーじゃねーし!」
え、という声とともに、母親が振り向いた。
「コーちゃん、夢のなかでヤッても、現実は童貞のままだよ」
「きったねぇ言葉遣いしやがる」
しかし、確かに幸太の場合は、女性経験があるのかないのか、なんとも言えないところがある。Take1が夢のなかだとするなら、彼は確かに童貞のままだ。
食事のあと、幸美は勉学に励む幸太の部屋へノックもせず入ってきた。
「おいっ、勝手に入るなよ。ここは俺の部屋だ! 神聖だ! 立ち入り禁止だ!」
「そんなかたいこと言わない言わない。げっ、これ誰、彼女?」
幸美は我が物顔でベッドに寝転び、丁寧に
「だから勝手に見たりさわったりすんなよ! あとパンツの上に何か
「この家暑いんだよ。上はTシャツ着てるんだしいいジャン。で、このキュートなマシュマロちゃんは誰?」
「……俺の好きな人だよ」
「え、好きだからって写真撮って飾ってんの。犯罪者ジャン」
「あのさ、頼むから」
「童貞でも、ゴムは絶対にしなさいよ」
「早く出てけって!」
幸太は幸美から写真を奪い返し、部屋から追い出した。
まったく久しぶりに顔を見せたと思ったらとんでもない女だ。あんな女と結婚する男がいるなら、顔が見てみたい。
写真のなかの美咲は、いつもと変わらない、
世界で一番、美しくいとおしいひと。
8月に入ってすぐ、美咲は予告したとおり4日間の部活合宿に出た。
彼女と会えたのは、そのあとの金曜日。
六本木の地下鉄駅で、待ち合わせた。
美咲はこの日もあか抜けたよそおいだ。キャメル地に赤や黒を組み合わせたチェック柄のシャツワンピースに、くるぶし丈の黒いショートブーツをコーディネートしている。
高校生には、まるで見えない。
「おはよう。早川君、いつも待ってくれてるね」
「それは、世界で一番お美しいプリンセスをお迎えするわけですから」
「うふふ、早川君といると、ほんとにプリンセスになったみたい」
この日は軽いランチのあと、展望台に上ることになっている。
2010年ともなると、東京スカイツリーは未だ建築中で、虎ノ門あたりもだいぶ景観が違う。
巨大な窓ガラスに面したベンチに座ると、お台場あたりまでは鮮明に一望できる。
「景色、いーね!」
「天気いいから、遠くまで見えるね。目の前が青山霊園で向こうが代々木公園、あれが新宿
「私の家、見えるかなー?」
「あはは、さすがに遠くて見えないよ」
「見えないかなぁ」
なおも目の上に手をかざし、背筋を伸ばして遠くを見つめる美咲が愛らしい。
「合宿、どうだった?」
「話、長ーくなるよ」
「いいよ、君の話ならずっと聞いてたい」
くすくす、と笑ったあと、美咲は合宿から持ち帰ったさまざまな話をした。
合宿先の軽井沢は、涼しくて過ごしやすかったこと。
みんなで一生懸命、練習を重ねたこと。
宿舎に大きなゴキブリが出て大騒ぎになったこと。
夜は同室の女子部員たちで、恋の話をしたこと。
伊東が吉原と初デートをした話を聞いたこと。
そして、美咲には好きな人がいるか、聞かれたこと。
「なんて答えたの?」
「正直に答えたよ。最近、好きなひとができたって」
「誰か、言ったの?」
「ううん、内緒にした。でもどんなひとかは言ったよ」
「なんて?」
美咲は緊張を覚えたのだろう、唇を震わせ、それでもぽつりぽつりと話した。
幸太は美咲と同じように、眼前の開放的な風景に目線を送りながら、それを聞いた。
私の好きなひと。
心が強くて、優しいひと。
スマートで、褒め上手なひと。
大人で、でも情熱的なひと。
そのひとと一緒にいると、私はいつも、自然に笑顔になれる。
そのひとと一緒にいると、私はいつも、ドキがムネムネする。
いつも、心から私を想ってくれている。
いつも、私を優しい気持ちで守ってくれている。
いつも、私の気持ちを大切にしてくれている。
まっすぐ、私だけを見つめていてくれる。
そのひとに見つめられると、私は幸せな気持ちになれる。
ずっとずっと、一緒にいたい。
ふたりで、いつまでも一緒にいたい。
美咲が言葉を区切り、幸太は何かを言わねばと思った。
彼女のために、何か応えなければ。
だがそう思うほど、幸太は胸に広がるいとおしさのために、声が出なかった。
声を出すと、泣き出してしまいそうだった。
彼が初恋の人として想いをかけ続けてきたひとが、彼女自身の言葉で、彼にその
それが、うれしいというよりは、ただただけなげに感じられて、いとおしかった。
美咲はワンピースの
(男はこういう時、大切な人になんて言えばいいのだろう)
幸太は分からなかった。ただ、
「ありがとう」
と、それだけをようやく言った。
「どんな気持ち?」
と、美咲は問いかけた。
幸太は、時間をかけて、自分の心情を整理し、言葉にした。
「うれしいし、幸せな気持ちだと思う。君のことが、いとおしい」
美咲は彼を振り向いた。
目には涙がにじみ、薄くメイクを施した唇はやはり小刻みに震え、それでも笑顔をつくろうと、口元に控えめな笑みが浮かんでいる。
「それ、みんなに言ったの?」
「うん、言った」
「どんな感じだった?」
「なんか……みんな悲鳴上げてた」
(まぁ、そうだろうな)
幸太は女子だけで恋愛の話をしている合宿部屋を想像して、ちょっと笑った。
美咲も、つられて笑った。
二人は展望台に併設されている美術館と、商業施設内を見て回った。
美咲は香水が好きだ。
「これ、すっごくいい香り!」
「うん、俺も好きなにおい」
「ね、いいよね!」
値段を見て、美咲はそっとボトルを戻した。
幸太は美咲を、地下鉄の改札口まで送った。彼女と過ごす時間は、あっという間だ。大切な時間ほど、早すぎるくらいに早く過ぎる。
「これ」
と、幸太はバッグから、紙袋を取り出す。
「なに?」
「君に、プレゼント」
「えっ……」
美咲は驚きの声とともに、袋をのぞき込んだ。
「これ、さっきの香水……?」
「そう。君がトイレに行ってる隙に」
「ありがとう、高かったのに」
「いいんだよ、俺がそうしたいと思ったから」
「デートも、全部払ってくれたし……」
「それも、そうしたいからそうしただけだよ」
「ありがとう……」
美咲は、ピンクのバラとともに『WOMAN IN ROSE』の文字が書かれたそのボトルを、胸に抱くようにした。
「私、最近、うれしいことばかり。不安になるくらい、幸せな気持ち」
「君が幸せなら、俺も幸せだよ」
「うん……」
「今日、ヒール高かったし、歩き疲れたでしょ。まっすぐ帰って、ゆっくり休んで」
「そんなことも、言わなくても分かるの?」
「もちろん分かるよ」
「スマートだから?」
「ううん、好きだから、分かるよ」
美咲はこの日も、改札に入ってから何度も立ち止まり、振り返っては手を振った。
この日、幸太にとって生涯、これはもちろんTake1も含めてだが、最も幸せな一日であったことは言うまでもない。
それは、彼が美咲を幸せな気持ちにできたという自信が最も強かったからでもある。
これからも、もっと美咲を幸せにしたい。
幸せな時間で、ふたりの人生を埋め尽くしていきたいと、そう幸太は思った。
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