第15話 水族館デート

 7月最後の水曜日、二人は水族館へと出かけた。

『ペンギンが見たい』

 と、美咲が希望を伝えてくれたからだ。

「お待たせ……」

 待ち合わせ場所で声をかけられた幸太は、少々、面食らった。

 私服姿の美咲は、白地にオレンジや緑のとびきり大柄なボタニカル柄をあしらったノースリーブのミニワンピースが目の覚めるほどに似合っており、つばの広い麦わら帽もあいまって、いつものセーラー姿よりもはるかに大人っぽく、違った魅力にあふれている。もともと細身で背が高い方で、肌が抜けるほどに白いから、まるでファッションモデルのようだ。

 だが意外にも、こういう服や着こなしには慣れていないらしい。自信のない表情をしている。

「おはよう。似合ってるね、すごくきれい」

「変じゃないかな……?」

「どこも変じゃないし、世界で一番きれいだよ」

「ィヒヒっ」

 思わず妙な笑い声を上げて、美咲は両手で顔をおおった。幸太の言葉があまりにも大げさで、突拍子とっぴょうしもなく聞こえたのだろう。

 が、幸太は大真面目だった。誇張こちょうしているわけではないし、おだてようとしているわけでもない。初恋の人というのは、世界で一番美しい存在だ。少なくとも、そう見えるものじゃないか?

 ランチのあと、駅から無料のシャトルバスで水族館へと向かう。

 美咲はよほど水族館が好きらしく、表情をくるくると変えている。

 意外に怖いもの知らずなところがあって、ふれあいコーナーでは水槽のなかに両手を突っ込んで、ヒトデを水面から持ち上げてみせた。

 (ずいぶんとまぁ、思い切ったことをするな。俺には絶対できない……)

 と思っていたら、美咲は幸太の引きつった笑顔から気持ちを読み取ったのか、

「はい」

 と、促した。

 幸太は愕然がくぜんとした。

「はい、とは……?」

「早川君の番。持ってあげて」

「あ、ちょっと、それはほんとに」

「見た目より重いの。外だと息できないみたいだし、早く持ってあげてー」

「はい、分かりました。持ちます!」

 空中で受け取ると、ヒトデの体表は思っていたより固くてゴワゴワしている。だがそれがウネウネと動くものだから、だいぶ気味が悪い。

「ぅわぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 幸太の断末魔のような声と、ムンクの叫びのような表情がそれほどまで面白いのか、美咲は涙を流し、しゃがみ込んで笑った。

 あまり気持ちのいい体験ではなかったが、美咲が笑ってくれたなら、それでいい。

 カワウソのエサやりでは、水槽のパイプごしに、カワウソと握手をすることができる。

 一生懸命に手を伸ばしておやつをとろうとするカワウソと、美咲は何度も握手をした。

「はい」

 と、ここでも美咲は幸太に促した。

「早川君もやってみて」

「はい、やります」

 おやつを持って水槽に近づくと、カワウソがパイプから手を伸ばす。

 幸太がカワウソと握手する反対側から、美咲も手を添えた。

「三人で握手」

 ふふふ、と美咲は麦わら帽をおさえながら幸太に笑みを向けた。

 美咲はほかにもクラゲやマンボウ、カクレクマノミなどが気に入ったらしく、こういった展示エリアでは、時間をたっぷり使って見入った。

 一番好きなのは、ペンギンらしい。

 水辺でじっとしていたり、よちよちと歩いたり、水中を気持ちよさそうに泳ぐペンギンを、ベンチに座ってきもせずながめた。

「あのペンギン、早川君みたい」

「え、どれ?」

「ほら、あの真ん中にいるの」

「どうして俺みたい?」

「さっきから、あの子のことずっと見てる。きっと好きなんだよ。だから早川君みたい」

「……ほんとだ、ずっと見てる」

「でしょ、そっくり。かわいいね」

 美咲は最後にグッズショップに入って、ペンギンの小さなぬいぐるみを二つ買った。

 なぜ二つなのだろう、と幸太は不思議だったが、さして気に留めなかった。

 が、帰りのバスを待ちながら美咲はそのうちの一つを幸太によこした。

「これ、あげる」

「え、いいの?」

「うん、おそろい」

 幸太は、ペンギンの向きをくる、と変えた。美咲にはすぐ、その意味が分かったようだ。

「わ、見てる見てる」

「好きだから、ずっと見てるんだよ」

「私のこと、ずっと見てる……」

 幸太は自分のペンギンを、美咲のペンギンの横に、ぴたりとくっつけた。

 手をつないでいるように見える。

「仲良しになったの?」

「うん、仲良しになった」

「ドキがムネムネするね」

 と言いつつ、美咲はバスに入るとすぐ、うとうととまぶたを重そうにした。

「着いたら起こすから、少し休んでていいよ」

 こくり、とうなずいて、美咲は目を閉じた。

 その端整で無垢むくな寝顔から、幸太は一度も視線を外すことができなかった。

 幸太によく似た、ペンギンのように。

 愛情がまるで、無限にく泉のように大きくなっていく。

 彼はTake1で、それなりに女性経験を積んだ。恋もしたし、結婚もした。

 だが、その人生でさえ、美咲ほどに愛した女性はいなかった。

 思ったことがある。初恋だからだろう、と。

 初恋だから、いつまでも後悔が残り、いつまでも美しく、いつまでもいとおしく、いつまでも忘れられないのだろう、と。

 だがTake2が始まり、同じ時間を過ごせば過ごすほど、美咲を知れば知るほど、以前とはさらに比較にならないくらい、彼女がいとおしい。

 美咲が笑顔を向けてくれるごとに、彼の思いはふくらんだ。

 彼自身、戸惑いたじろぐほどの、強さと激しさで、美咲を愛し始めている。

 バスを降りたあと、駅の改札口に着くまで、二人はまたも一言も交わさなかった。

 今の幸太には、美咲の気持ちが分かった。別れのさびしさを、ふたりは沈黙とともに共有している。

 改札口前で、この日は美咲が先に口を開いた。

「早川君、今日もありがとう」

「こちらこそありがとう。楽しかったよ。それに」

「それに?」

「それに、君のことがもっと好きになった」

 面と向かってこうもはっきり言われると、恥ずかしいのだろう。美咲は思わず吹き出し、それからゆっくりとうなずいた。

「早川君に、私も伝えておきたいことがあるの」

「なに?」

「私もね、好きなひとが、できたみたい……」

 言ってすぐ、美咲は黒く豊かなまつ毛を伏せた。

「ドキがムネムネする理由が、はっきり分かったの。私、好きなひとができたからなんだって」

「それは」

 幸太は脳細胞がぐつぐつと沸騰するような音を聞いた気がした。喉がカラカラにかわいて、口から心臓が飛び出しそうだ。

 美咲も、同じほどに緊張しているのだろうか。

「どんなひと?」

「うん……もう少し、もう少し、自分の気持ち整理してもいい?」

「もちろん」

「ありがとう。ごめんね。ゆっくりでもいいかな?」

「謝ることじゃないし、ゆっくりでいいよ。君の本当の気持ちを、一番、大切にしよう」

「……ありがとう!」

 美咲は、どんな表情よりもやはり、笑顔が似合う。

「来週、会える?」

「来週は、吹奏楽部の合宿があるの」

「そう……再来週は?」

「再来週は、家族で温泉旅行」

「……その次の週は?」

「うーん、予備校の集中講習があるから、忙しいかな」

「…………」

 幸太が絶望的な表情をすると、美咲はけらけらと笑った。嘘ではないのだろうが、幸太をからかいたかったらしい。

「水曜日はダメだけど、合間で会えるよ。スケジュール見て、連絡していい?」

「ありがとうございます、お願いします!」

 幸太は、何度も振返って手を振る美咲を、その姿が見えなくなるまで目に焼きつけた。

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