第14話 ドキがムネムネ

 7月は中旬に期末試験がある。

 幸太と美咲は、ともに5月の中間試験より成績を上げた。特に幸太は、前年までと比較して英語、社会系科目で大きく点数を伸ばし、学年13位だった。

 美咲は28位で、一学年が240人だから、上位15%には入っている計算になる。まず、優秀と言っていい。

 1学期最後の登校日である終業日は、水曜だった。

 が、あいにくこの日は雨である。

 終業式のあと、ホームルームまでのあいだにメールが入った。

『今日、雨だね』

 幸太は美咲のすぐ隣に座りながら、無言で返事を打った。

『雨だね、今日』

『逆にしただけ(笑)』

『野外練習は中止?』

『うん、中止。でも早川君さびしいでしょ?』

『え、僕っすか?』

『そう。私、おなかすいちゃったな……』

 ちら、と左に視線を向けると、横顔がにこにこしている。

 幸太も思わずにやけつつ、少し考えた。

『立川でいい?』

『うん、いいよ』

『じゃあ、あとで』

 場所について確認を求めたのは、学校に近すぎる場合、同級生に見つかる可能性が高いからである。

 二人はそれぞれ、帰り道を急ぐていで、下り電車に乗った。

 立川駅の改札で待ち合わせる。

「あれー早川君、偶然だね!」

「おなかすいてさ、なんか食べてこうかと思って」

「偶然、私も。立川なら色々あるかなって。オススメのお店ある?」

「えぇ、ありますよプリンセス。ご案内します」

「苦しゅうない」

 駅ビルの中にあるイタリアンレストランの前に、二人は立った。

 世界で一番好きな食べ物はピザで、モッツァレラチーズと生ハムも好物、ジャンルはやはりイタリアンが好き、と美咲がいつか話していたのを、幸太は覚えていた。

 好きな人に関することで、リサーチしすぎる、ということはないのだ。

「ここでいい?」

「イタリアン? 私、ファストフードとかかなって思ってた」

「マッ〇とかの方がよかったかな」

「ううん、なんか、大人のデートみたいでちょっとびっくり」

 それはそうかもしれない。経済力などの問題から、高校生はファストフード、大学生はファミレスにたむろすることが多い。カップルでもそうは変わらないだろう。社会人の感覚だとどうということはないが、高校生だけでイタリアンレストランに入るのは少しハードルが高く感じるのかもしれない。

 しかし、かねてからこういう機会に備えて、学校からの移動圏内にある店は調べてある。評判のいい店だし、せっかく初恋の人をエスコートするなら、それなりの店がいい。

「あなたはプリンセスですから、大人のお店にお連れしますよ」

「うん……苦しゅうない」

 席に座っても、美咲は緊張している様子だ。話では家族と外食することは珍しいことではないそうだが、制服を着て、同級生の男子と二人、こういう小洒落こじゃれた店に入ったのは初めてなのだろう。

「どれもおいしそう。早川君、来たことあるの?」

「ううん、俺も初めてだよ。松永がイタリアン好きだって言ってたから、調べといたんだ」

「え、わざわざ調べてくれたの?」

「もちろん。男はスマートじゃないと」

 あははっ、と美咲は明るく笑った。

 まったく無意識にカクテルメニューの方へ目線をなぞらせてゆくと、幸太にとって印象深いネーミングでぴたりと意識が止まった。

「松永は、ミモザ好きだったよね」

「え、お花の話?」

 (しまった、あれはTake1の方だったな……!)

 美咲は未成年で、カクテルのミモザなど飲んだことはないはずだ。幸太が思い出したのは、12年後、Take1の美咲の方である。

 同一人物といえば同一人物だが、今の美咲にとってはまったくの別人でもあって。

 とにかくこの場はごまかすしかない。

「そうそう、お花の話。ほら、ミモザってカクテルがある」

「ほんとだぁ。どんなお酒だろう?」

「オレンジジュースとシャンパンのカクテルだよ」

「え、早川君カクテル詳しいの? 怪しいなぁ、私たち未成年だよー」

「いやほら、スマートな男は未成年でもカクテルに詳しいんだよ」

「なんだか動揺してるー?」

 テーブルを挟んで向かい合い、メニューのパンフレットを片手に頬づえをつく美咲は、上目遣いで微笑んでいる。

 注文を終えると、美咲はふぅっ、と小さな息を漏らした。

「お店の雰囲気、慣れた?」

「うん、とっても素敵なお店。でも、緊張してる」

「どうして?」

「早川君とこうやって向かい合うの、いつもと違う感じ。二人きりだし、私のこと、ずっと見てるし」

「君があんまり素敵だから、ただ素直に好きと言えないで、こうやって見つめるしかないんだよ」

『ラブ・ストーリーは突然に』の一節を混ぜてそのように言うと、美咲は肩をすくめ、息を細め、耳まで真っ赤にして、氷水のグラスをぎゅっと両手で握りしめた。

 幸太の声が聞こえたのだろう、近くに座っていたスーツ姿の若い女性たちが、優しく見守るようにふたりの姿に視線を送ってきた。

「うれしいけど、恥ずかしい」

「うれしいと恥ずかしい、どっちが強い?」

「……うれしい」

「そう、なら言ってよかった」

「うれしいけど、やっぱり恥ずかしい! ……でもうれしい」

 グラスを触った手で頬を冷やしながら、美咲はようやくそれだけを言った。

 美咲が彼の示す言葉や態度にうれしい、と言ってくれるのが、幸太にとってはたまらなく幸せだった。

 美咲といる時間は、彼にとって無条件の幸せを約束してくれる。

 そして幸太は、自分の幸せ以上の幸せを、美咲にささげたいと思っていた。

 それこそ、幸太の12年越しの願いだった。

「早川君、ほんとにスマートだね」

 サラダを取り分けると、ただそれだけで、美咲は感動したように手を叩いた。

「男はスマートじゃないと。それにあなたはお美しいプリンセスですから」

「スマートで、褒め上手だね」

 (あのときと、同じだ……)

 と、幸太は「男はスマートで褒め上手じゃないと」と言おうとして、胸がいっぱいになった。12年後の美咲も、同じように微笑んで、幸太を見てくれていた。

 今も、あのやわらかい眼差まなざしで彼を見てくれている。

 美咲は、店の食事が気に入ったようだった。特にモッツァレラチーズをふんだんに使ったピザは、人生で一番おいしいピザ、と感想を教えてくれた。

 店を出るとき、彼女は少し戸惑った。トイレに立ったとき、幸太が会計を済ませていたことに最後まで気づかなかったらしい。

「高かったでしょ、半分払うよ。いくら?」

「スマートな男は、好きな人に財布を出させたりはしないよ」

「えっ、ダメだよ!」

「ほんとにいいんだ。君が喜んでくれたら、それだけでいい」

 前半ではスマート、ということにしてはいるが、それは半ば、口実であり、もっと言えば照れ隠しであった。後半こそ、彼の本心である。

 Take2が始まって、彼は美咲の心をつかむため、いかにも商社マンらしい戦略家的な思考を武器にしていたように思える。だが、特に幸太のあの告白以来、彼の心中ではむしろそうした打算的な部分が希薄きはくになり、ひたすら真心で、彼女に接するようになっていた。ただ彼女を笑顔にしたい、その笑顔を自分に向けてほしいと、心から願っている。

 情熱が、打算の入り込む余地もないほどに、大きくなっているのだ。

「ありがとう」とだけ言って、美咲は不意に黙り込んだ。

 駅の改札口まで、ずっと黙っていた。

 幸太はそのわけを聞こうとはしなかった。

 美咲の方から、伝えてくれる気がした。

 改札の前で、向かい合った。別れは、さびしい。

「松永、今日もありがとう。君がたくさん笑ってくれて、うれしかった」

「……早川君、私おかしいの」

「どうしたの?」

「ずっと、胸がドキドキするの……」

「えっ、ドキがムネムネするの?」

「そう、ドキがムネムネするの。早川君と一緒にいるからかな?」

「……俺と一緒にいるから、ドキドキする?」

「そうなのかも。確かめたいから、来週もまた、会える?」

「会えるよ。ふたりで、確かめてみよう」

「うん、ありがとう。今日はごちそうさま、またね!」

 美咲の顔にふわふわとした笑顔が戻り、小走りで改札口を抜けていった。

 長い長い夏休みが、始まる。

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