第17話 美しく咲くひと

 六本木デートの次の日、美咲からメールが入った。

『ね、昨日、一番話したいことあったのに忘れちゃってた!』

『どしたどした? 電話で話す?』

『ううん、まだ内緒にしとく!』

『次会ったとき話す? いつ会えるかな』

『学校がいい。今週、旅行に行くのと、千尋ちひろたちと約束あったりするから、18日の水曜日、学校に来られる?』

『学校だね、何時でもいいよ!』

『じゃあ、12時に学校で!』

 なぜ学校なのか、と幸太は当然、思った。美咲にとって、何か、学校でなければならない理由があるのだろう。

 それならそれで、知らずにいるのもいい。美咲が何をしたいのか、何を話したいのか、想像しながら、答えを待つのも楽しい。

 自室でニヤニヤしていると、いつの間にか真横に姉の幸美ゆきみの顔がある。

「げっ、なんだよ! 勝手に入ってくんなって!」

「家族なんだから、いいじゃなーい。思春期の童貞クンだから恥ずかしいの?」

「童貞かどうかは関係ねぇ。心臓止まるかと思ったわ」

「なぁんか、ニタニタしててキモかったよ」

「悪かったな」

「マシュマロちゃんと、いいことあった?」

「ほっとけって」

「ニヤニヤしちゃって。分かりやすいなぁ」

「てかいつまでうちにいんだよ。早く帰れよ!」

「だって実家にいたら料理も洗濯も掃除もしなくていいし。近くでだらだらしてるだけで、親は喜んでくれるんだから、一石二鳥ってもんよ」

「ったくこっちはいい迷惑だぜ」

「で、どうなのよ。マシュマロちゃんのこと、教えてよ。お姉ちゃん、かわいい弟が心配だわ」

「うるせぇな。心配してもらわなくても、うまくいってんだよ!」

「などと言いつつ、未だに童貞のコータくんであった、と」

 (……黒くなれ)

 幸太は壁を殴り、怒りをわずかに晴らした。

 8月も半ばになり、夏も盛りだ。学校の雑草はぐんぐん伸び、セミの鳴き声も実ににぎやかに聞こえる。

 グラウンドではサッカー部や野球部、テニス部といった運動部の生徒連中が、短い青春を謳歌おうかしている。

 クラスメイトでサッカー部員の木村が、幸太の姿に気づいて走り寄った。

「どうしたコータ、もしかして復帰願いか?」

「まさか」

 と言って、幸太は笑った。

 サッカーは今でも好きだ。部は都内で強豪でも弱小でもなかったが、彼は右サイドミッドフィルダーとして、部内でもレギュラーを張り、主力選手として期待されていたという自負がある。

 だが、2年かぎりで退部した。

 高校運動部の、勝利至上主義に嫌気が差したからだ。

 楽しくサッカーができない場所には、戻る気はない。戻ったところで、サッカーが嫌いになるだけだ。

 美咲からの連絡によると、音楽室の前で待ち合わせ、ということだった。

「お待たせ!」

 久しぶりに見る美咲のセーラー服姿は、相変わらずまぶしかった。

 白いシャツに、肩をおおうくらいに大きなダークグレーのえり、赤いスカーフ、襟と同じダークグレーのスカート、黒のハイソックスに、黒のローファー。

 一分いちぶの隙もなく美しい。

 あごにしたたるほどに流れ出た汗さえも。

「あつはなついねー」

 美咲はときどき、さらりと意味不明のことを言う。

 音楽室のカギを開けると、すさまじい熱気が熱風のように吹き出した。

 ハンカチで汗をきながら、美咲がエアコンの電源を入れる。

「松永さ」

「うん、なぁに?」

「きれいだよ」

「えっ……?」

「世界で一番、きれい」

 美咲は一瞬、呆然とし、すぐに音響機器の方へ走って、顔を隠した。

 幸太は、別に冗談で言っているつもりはない。スマートで褒め上手だから調子のいいことを言っているわけでもない。ただ、本気も本気で思っていることだった。

 前も同じことを言って、美咲には笑われてしまった。だが、幸太が美咲をどう思っているか、どれだけの愛情を持っているのか、彼女が確信を持ってくれるまで、幸太はどれだけ笑われても同じことを伝え続けようと思っていた。

「で、今日はどうして音楽室?」

「前に、私が一番やってみたい曲があるって話をしたの、覚えてる?」

「覚えてるよ。内緒だって」

「そう。でね、その曲が文化祭のプログラムに選ばれたの!」

「えっ、すごいね! どんな曲か、すごく気になるよ!」

「文化祭の日まで秘密にしようかなと思ったけど、我慢できなくて。今日、早川君と一緒に聞きたいの」

「俺と一緒に」

 幸太は、胸の奥にあたたかいシミが落ちて、それが少しずつ広がっていくような気がした。

 美咲が一番、大切にしている曲。

 それを、自分と一緒に聞きたいと言ってくれている。

 曲が始まり、美咲は幸太の隣に座って、じっと彼の顔を見つめた。

 優しい歌声、優しい言葉だ。

 幸太は聞いているうちに、涙が流れた。

 あぁ、これほど優しい愛情に満ちた、美しい曲があるのか。

「……どうだった?」

「……うん、優しい曲だね」

「もしかして、泣いちゃうくらい、感動した?」

「……うん、そうかも」

「優しいね、早川君」

 美しい曲を聴いて涙を流すのが優しいことなら、そういうことかもしれない。

「変かもしれないけど、歌詞を聴いてたら、君のことで胸がいっぱいになった」

「私はこの曲の歌詞を聴くと、あなたのことで胸がいっぱいになる」

 幸太が驚いた表情をすると、美咲はこの上ないほどに優しい微笑を浮かべた。

 瞳が、れている。

「これ、なんて曲?」

「『あなたのすべて』。原曲はずっと昔のなんだけど、何年か前にレコーディングし直したバージョンだよ」

「ありがとう、教えてくれて」

 幸太は涙をぬぐいながら、泣いている場合じゃない、美咲のことを自分が支えなければと思った。

「うまくいくといいね。君が、後悔のないように」

「ありがとう、そう言ってくれると思った」

 ふたりは互いの顔を見つめ、笑顔を交換した。

 美咲は一度、恥ずかしげに目線を落とし、それから幸太の目に戻して、

「ね、お願いがあるんだけど、笑わないで聞いてくれる? もし嫌だったら、断っていいから」

「なんでも言って」

「私のこと、呼んでほしいの。その、名前で」

 言っておいてから、美咲は体ごと、幸太から目をそむけた。

 恐らく、これを言うのに、彼女はよほどの勇気を振りしぼったに違いなかった。

「……美咲」

「……うん」

「美咲」

「……うん!」

 横顔がほんのり赤く、ぱっと笑顔が咲き誇った。うれしいのだろうか。

「美咲」

 これほどに短く、それでいてなんと詩的で、可憐かれんで、気高けだく、美しい名前なのだろう。

 美しく咲くひと。美咲。

「美咲、俺のことも、コータって呼んでくれる?」

「うん、コータくん」

「コータ」

「……コータ」

 これから何度、幸太は美咲と呼び、美咲は何度、幸太と呼んでくれるだろう。

 何百回か、それとも何万回だろうか。

 幸太はできればその一回一回を数え、思い出に刻みつけたいと思った。

 その一回ごとが、彼にとって幸せな瞬間を約束するものであったから。

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