第21話 アザレアージュ 〜彼女の真実〜

「げほっ、げほっ! ずっ、ずみまぜんっ!」


「いや、いい。気にするな」


 本当に気にしていないようで、博士は微動だにせず座ったままだ。

 弥生も慣れた手つきで永遠に頬笑みかけてからハンカチを手渡す。


「あっ……どうも……」


 良い匂いのする年上の美人のお姉さん。自分の好みにがっちり一致する女性からハンカチを手渡されるシチュエーションに永遠の胸は高鳴った。


「ごめんなさい。ちょっと甘すぎたかしら?」


 博士には替えの白衣を用意して、ササッと羽織りなおさせ終えると、永遠のもとに再度やってきて弥生が尋ねる。


「あっ、いや……。ちょっと変なところに……入っちゃって……」


 永遠は申し訳なさと気恥ずかしさで、屈んで顔を覗き込んでくる弥生から下に視線を逸らし、ハンカチで口元を覆う。そんな永遠の頬に口のものとは違うハンカチの感触が触れる。汚れた頬を弥生が優しげに拭きだしたのだった。あまりの事象に永遠は言葉を失った。


「優しいのね、永遠くんは。えらいえらい♪」


 永遠は一瞬で天にも昇る気分に、有頂天まで上り詰めた。


 しかし、異常なまで胸の高まりと心地よさとの板挟みの中、改めて自分のチョロさに自己嫌悪を抱く。


「あ、ひゃい……ありがとうございます……」


 だから自分の中の誠意を再び掴もうと、噛みながらも、あえて冷静に返す事を努めた。


「ふふっ、どういたしまして♪ 博士もちゃんと拭いてくださいね」


 続いて、まるで世話の掛かる子供の世話を焼く母親のように中腰になって博士の顔をハンカチで拭う。その姿を見ていた永遠の目が大きく見開かれ、弥生の後ろ姿に釘付けになっていた。ついさっき掴み直した誠意が、いとも容易く離れていった。


 スマートでありながら女性としてのしなやかさを讃えるヒップラインが、臀部を突き出すように腰を曲げる姿勢のせいでタイトスカート越しにくっきりと浮き彫りになっていたのだ。


 それを直視した永遠の眼は若さ故に血走ってしまう。


 永遠の血走った眼を見逃さなかった博士は、彼は意気消沈の底には居ない、これから伝えねばならない事を受け止めるだけの意気込みを持ち合わせていると前向きに勘違いする。


 踊り出したいほど喜ばしいのを悟られないために、自分の作ったキャラクターに沿って抑揚を抑えながら再び永遠に語りかける。


「永遠よ。話を続けてもいいか?」


「えっ⁉ あ、はっ……はいっ」


 正直、後にしてくれと言いたい気持ちが多いにある。が、博士の問いかけで手放していた誠意が帰ってきてくれた。しかも、失礼を働いていたにも関わらず気分が和らいでいるのも感じた。永遠は渡されたハンカチを丁寧に膝の上に乗せると、同じように丁寧に応えた。


 承諾を受けた博士は、再び立体モニターの中に輪状の弦を表示する。輪状の弦は博士の操作により輪を解き、弦になったり再び輪になったりと変化を繰り返している。


「このどんな役にも成りきれる……自由自在に己の振動数を変化させることで、どんな物質にもなれる万能の弦を、我々は《エルイオン》と呼んでいる」


 エルイオンと聞くと永遠は瑠璃乃が言っていた言葉を思い出す。


 瑠璃乃の体から出ていた薄桃色のもやかすみ、光の粒。目を凝らさないと視えない不思議なもの。彼女は怖いものではないと言っていた。だから、こだわることを止めた例のあれだと思い出す。


「君にも視えるはずだ。瑠璃乃の体から浮き出て飛んだ光のかすみ。それが視える者だからこそ、君は瑠璃乃のパートナーになったのだ」


「……あ、ありがとう……ございます?」


 自分のような人間が選ばれる。それ自体はとても有り難く、喜ばしいことだった。だが、エルイオンというものが視えるだけで何故ハルジオンの仕事が貰えるのか。永遠は理解に苦しむ。


「誇ってくれるとこちらも嬉しい。さて、エルイオンがこの世界を訪れてから辿る道はいくつかあるが、そのひとつに脳を持つ生物の感情や情動……脳内物質に反応して人間の姿になることが挙げられる」


「……人間に?」


「ああ。エルイオンは生物というものを知りたがっているように振る舞う。したがって反応元の生物が異性愛者のヒトの男性なら、男性が求める理想の女性像の姿を形作る。自分に関心を持ってもらうために……」


 その説明を耳にした永遠は、ある答えを自分の中で組み上げた。


「…………まさか?」


「君の想像通りだ。瑠璃乃は正確にはヒトではない。男性が求めた理想の女性像にエルイオンが反応して生まれた、いわばエルイオンの集合体なんだ」


 チャットでのやり取りは、つまりここに繋がったんだと永遠が得心する。


 そして、瑠璃乃が人間ではないという事実に驚くほど驚いていない自分に驚いていた。


 ゲームやアニメで育ってきた永遠。こういったケースはフィクションの中で何度も遭遇したことがある。それらにサイボーグが実在する科学万能の時代だという事実をあわせれば、全裸だったのはともかく、部屋の前に急に現れたのも、カプセルの中に実体が無いのも充分に納得できる範疇になる。だから、永遠は驚きを最低限に抑えられていた。


「……君も驚かないでいてくれるのだな?」


 動揺するでも呆然とするでもなく、第三者には自然体に写る様子で聞き入れている永遠に博士が訊いた。博士の方も永遠が瑠璃乃のことをすんなり受け入れている様子を慣れたものを見るように眺めている。

 弥生も永遠に礼でも言うかのように頬笑みを向けている。


「えっと……慣れ……ですかね?」


「話が早い。有り難い。ならば更に続けてもいいか?」


 永遠はくすぐったさを感じつつ、軽く頷き促した。


「彼女の役割は二つある。ひとつはパートナーに精神的に健やかな生活を届けること。瑠璃乃の場合は君を楽にすることにあった」


「……楽に?」


「ああ。不安や恐れなどの生きづらさを抑制し、快情動を増やす事が出来るアザレアージュの“調脳力”。君の生きづらさを根本から治すことこそ出来ないが、癒やし、楽にすることの出来るのが瑠璃乃だ。彼女と一緒に居た時間、多幸感で満たされるようなことがなかったか?」


 心当たりならいくらでもあった。


 不安や恐怖を感じる度、消えて無くなりたくなるような心痛が嘘のように消えてゆき、こめかみの辺りから染み出すように全身へ行き渡っていった心地良さ。あれが多幸感というのなら、まさしくそうなんだろうと永遠は思い返す。


 そのおかげなのか。思い返せば瑠璃乃が傍にいた時、元同級生に罵られてトラウマに蹴られる痛みを感じても、その痛みは長引くことなく、すぐに軽くなって、あっと言う間に消えていってくれた。


(あれがそうなのかな?)


「それが、自分を望んでくれた相手を支援する力、現代を生きるために時として邪魔になってしまう快・不快情動を引きおこす脳内物質などを調整し、最適化する力……瑠璃乃の、調脳機序生命、アザレアージュとしての力なんだ」


「……アザレアージュ……まるで魔法使い……みたいですね」


 現代医療がさじを投げる病を癒やせることに驚き、永遠は素直な感想を口にした。


「魔法か。確かにその通りだ。だが確かに存在する有用な力でもある」


「でも、僕もですけど……何でみんな、アザレアージュの力を知らないん……ですか?」


「そうだな……突然だが、私には幽霊が見えるといったら君は信じてくれるか?」


 一抹の淋しさを湛えた瞳で博士が問うた。


「えっ⁉ いやぁ~それは~~……ぼっ、僕に見えないだけで、博士には見えるんですね!」


 相手を不愉快にさせないよう、気遣った答えを永遠が返す。


「ふふっ。やはり君は優しいな。……そうなのだ。いきなりそんなことを言われれば、人は戸惑う。意見を訴え合ううち、排他的な者となら議論は過激化し、もしかしたらアザレアージュそのものへの中傷へと発展するかもしれない。私はそれが怖かった」


 排斥される苦しみを永遠はよく理解できた。


 真実を丁寧に説明しても、きっと極僅かだったとしても、どこかの誰かが否定してくるだろう。気持ちが悪いという本音に、それらしい言い訳をまとわせてから拒まれる。


 それに近いことに瑠璃乃が曝されるかと思うと、博士の判断は間違ってないと永遠は思った。


 永遠は、部屋の中で本気で苦しんでいるとき、助けを求めるように精神のスペシャリストを自称する配信者たちの動画を見たことが何度かあった。


 大概、そんなバカなと思って視聴を終えた。


 なかには励まされたり救われたりする人もいるのだろう。けれど、自分にはまったく響いてこなかった。皆はこの動画に助けられているのに自分は違ってしまう。うさん臭いとまで感じてしまい、置いてけぼり感がことさら増した。


 結局は自分本位でしかないのかもしれない。だが、永遠はそれらの動画を見て、部屋の中でさらに傷付き、いたずらに徒労感を重ねた記憶を思い出していた。


 きっと当事者でなければ、自分も、そんな魔法を使うアザレアージュという存在をウソ吐きと断じていたかも知れない。だからこそ、無駄な傷を増やさないために、正解に最も近い選択は語らないことなのだろう。永遠は自戒するように思った。


「……じゃあ、なんで僕には話してくれたんですか?」


 自戒から先へ。永遠が問う。


「道理だ」


「……道理?」


「例え相手がアザレアージュだとしても、他人に自らの内にあるものを曝け出すのは勇気が要るもの。なのに君は、瑠璃乃を信じて頼ってくれた。だからこそ、こちらも真実を告げることが筋だと思ったのだ。迷惑だったろうか?」 


 そんな格好良いものではない。むしろ情けなくて恥ずかしい。なのに褒められて照れくさい。永遠は頬に熱を感じた。


「いやっ、あのっ…………光栄です」


「ふふっ、有り難い」


 博士の努めて硬く結んでいた口が緩む。弥生も穏やかな笑みを見せていた。


「これも全て、君が瑠璃乃に応えてくれたおかげだな」


 博士の感謝を耳にしてから少し、今までの経緯をよく咀嚼できてきた頃、永遠の胸に納得と同時に落胆まではいかないとしても、一抹の憂いが訪れる。


 それが顔に表れるのを博士と弥生は見逃さなかった。

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