第18話 消失

 瑠璃乃が普段通りの調子で言った。永遠に向き合いながらも彼だけでなく、中根に向けてもの言葉だ。


「ね?」


 瑠璃乃が永遠に朗らかに問う。それは質問というより、確定している事を確認する報告を待っているような口ぶりだった。


 疑いは微塵も無い。底の底まで信じてくれている。それが嬉しくて、有り難くて、永遠はせり上がる鼻の奥の痛みを堪え、俯きながらもゆっくり頷いた。


「ほ~ん。この期に及んでウソだったことにするか。とことんまでクズだな、ヒッキーは」


「永遠はクズじゃないよ。人のことクズなんて呼ばないもん」


 限りなく無邪気に瑠璃乃が反論してしまう。相手を逆撫でするとは全く思っていない。


「いいから、こんなクズに媚び売ってないでこっち来いっつってんだよ!」


 苛立ちが爆発し、中根が声を荒げて瑠璃乃の手首を乱暴に握り込んだ。永遠の手に重ねられた両手の一方が引き離される。


 この状況は永遠にとって身も凍る恐怖。それ以外のなにものでもない。心臓がきちんとポンプの役割を果たしているかどうかも自分でも怪しく思う。


 だがしかし、永遠は意識するより速く、脊髄反射のように立ち上がっていた。

 

 そして、すぐに中根に掴まれていない方の瑠璃乃の手首を両手でしっかりと握る。


 掴まれた瑠璃乃に永遠の震えが伝わる。それは、すがって握り閉めるでもなく、単に全力で爪を立てるでもなく、握られた相手に配慮するような謙虚で慎ましい、温もりを重ねるような触れ合いに似ていた。


「……テメェは離せよ」


 中根が恫喝する。が、永遠は耐え抜き、一拍置いて大きく息を吸い込むと、自分の中の勇気の全てを絞り出すように声を上げた。


「……こぉっ! ……これから……ぼ、僕はこの、この子に用事が……あるんだ……です」


 荒い呼吸。酷い滑舌。乱高下する不快で適切ではない声量。はっきり言ってみっともない。


「……だから……またね?」


 しかし、永遠は精一杯に中根を拒絶してみせた。


「テメェ……」


 下の者からの反抗。永遠の勇気を中根が許すわけが無かった。


 永遠の勇気。頑張りを受け取った瑠璃乃は二人に掴まれたまま、永遠に満面の笑顔を見せる。そして中根の手だけをいとも容易たやすく解き取った。


 全力で握った指が、すり抜けるように解かれた事に中根が目を剥く。


「ほら。君の言ってることは、きっと間違いだよ」


「あ?」


「だって、こんなふうに優しく手を握る子が、誰かに悪いことできるわけないもん。ね?」


 どこまでも無邪気に他意は無く、瑠璃乃が首を傾げて中根に同意を求める。


 瑠璃乃の手首に残るは永遠の手だけ。自分が否定された気が更に増し、中根の腹底が熱くなる。怒りが込み上げてくる。


 だが、中根の怒りは瑠璃乃ではなく、永遠に向かう。永遠を追い詰めるために食ってかかろうとした時、今まで後ろで待機していた友人が中根の肩を掴んだ。


「もう、止めとこう……」


 中根の行き過ぎた言動を止めると同時に、彼のことを周囲の人々が疎ましげに見ていることを自分も辺りを見回すことによって中根にそれとなく気付かせた。


 中根は鼻をひくつかせ、永遠を睨み付けている。だが少しして舌打ちをすると、踵を返す。そして僅かに進んでから、やはり気が済まないのか振り向くと、


「俺のフォロワーは多いんだ! お前んとこトツって刺されないように震えて暮らせ! このクズがッ!」


 捨て台詞を放って去って行った。


 彼等の背中が小さくなり、とりあえずは安全圏に達したはず。そうしてやっと緊張が解ける。


 永遠は腰が抜けて、崩れ落ちるように椅子に座り込み、肩から上をテーブルの上に突っ伏した。しかし、瑠璃乃にお礼を言わなければと何とか顔だけ瑠璃乃に向ける。


「……ははっ……情けなくてごめんね。それに、助けてくれて、ありがとう……」


「ううん。それより永遠、よくがんばったね! えらいと思うよ! 金メダルあげるよっ‼」


 瑠璃乃は永遠の向かいに座り直すと真正面から目を合わせ、褒め称え、気持ちの上でメダルの授与を行った。


 その顔に気兼ねや遠慮は含まれていない。手を小さく打ち鳴らして、本気で永遠を賞賛していた。瑠璃乃の拍手に気恥ずかしくなって少し赤くなっても、永遠は彼女の支えと気遣いに感謝して、今は目を逸らさずに瑠璃乃に笑って応えている。


 そのまましばらく笑って向き合い、永遠の気分が落ち着いたのを確認した瑠璃乃が、


「……ありがとね、永遠」


 お礼を言うのは自分の方だけなのに。永遠は瑠璃乃の感謝に対して目を丸くする。


「わたしね、よく夢を見てたんだ」


「……夢?」


「うん。あんまりうれしくない夢……。外に出て行きたくても、わたしがお出かけするには、一人じゃダメみたいでね。体がぜんぜん動かせないままね、夢の中のわたしは見えないオリみたいな狭いところに閉じ込められてるの……」


 怖い夢だとなと永遠は思った。ただ夢占いや夢分析でも披露できれば格好付けられるのに、あいにくそんな知識はなかったので、せめて瑠璃乃の話に真剣に耳を傾けようと姿勢を正す。


「でもね、今日ね、永遠がわたしを呼んでくれたらね、パーって目の前が広がっていってね、気がついたら永遠の家のずっと上にいたんだよ! わたしもよく分からないけど、狭いところから抜け出せたんだ! うれしかったな~。体中からボーーン! って力が爆発するみたいになって、永遠のところへ行きたいって思ったらホントに行けたの!」


「うっ、うん……?」


 瑠璃乃の話しぶりから彼女がとても喜んでいるのは理解できる。が、内容の方がいまいち掴めない永遠はとりあえずの相槌しか打てないでいる。それでも瑠璃乃は、永遠が自分の話を聴いてくれているが嬉しくて笑顔を絶やさない。


「……だからね、だからね永遠、わたしのパートナーになってくれて、すごーく、すごーーっく! ありがとうっ‼」


 弾けんばかりのとびきりの笑顔が永遠に向けられる。一目見て分かる、ただただ純粋な感謝の証。そんな笑顔を見せられた永遠は、今まで過ごした苦しみの日々が報われた気がした。


 目の前の味方になってくれる女の子の役に立てたことは、それほどまでに永遠の心を救った。 


 こんな普通から、かけ離れた自分でも、瑠璃乃のパートナーという役割をこなせているという事実も永遠を癒やしている。


 鼻の奥に痛みを感じながらも、ぬるま湯が頭部から全身に勢い良く染み渡っていくような多幸感に包まれて、永遠は心地よい充足感に満たされていた。


 この時の瑠璃乃を凝視して間の抜けた表情を晒す永遠を前に、瑠璃乃は首を傾げる。


 そうなって初めて自分が瑠璃乃をまじまじと見つめていたことに気付いて、永遠は心地良さに浸っているたを自覚し、照れくさくなり、


「こっ、こちらこそ……」


 俯き様にそれだけを絞り出した。瑠璃乃は、そんなパートナーに満面の笑みを送った。


 しかし、急に数秒だけ彼女の顔から表情が消えて、動かないパントマイムのように体全体が一時停止した後、急にハッとなって顔を真っ赤にしながら怒り出す。


「ちっ、違うんだからね⁉ い、いい今のは瑠璃乃2号の代わりに言っただけなんだからね⁉」


 永遠が瑠璃乃の形式上の義務に頬笑みを浮かべる。すると彼女は一通りご立腹する振りに気が済んだのか頬の赤さと膨らみが少しずつ元に戻っていく。


 だが突然、真顔になると、永遠を瞬き一つせずに穴でも空くような勢いで凝視しだした。


 瑠璃乃の唐突な熟視に自分に至らないところがあったのではないかと永遠は焦る。


 どうしようかと狼狽えていると、何の前触れも無く瑠璃乃の顔が迫ってきた。


 このままだと顔が触れる?


 予期せぬ瑠璃乃の行いは、永遠に軽度のフラッシュバックを誘発させた。


 異性への重度なアンビバレンツを持つようになってしまったきっかけの一つ。それにどう対応すればいいのか。


 資格があるのか? 

 自分にはもったいない。

 できない。

 早すぎる。

 嫌われたらどうしよう? 


 たくさんの迷いが瞬時に頭を駆け巡る。


 結局決められる訳もなく、瑠璃乃がテーブルに額を打ち付ける鈍い音を伴って、短すぎる猶予は終わりを告げた。


 予想外の事態に永遠が呆然となっていると、


「……あ、あれれ?」


 瑠璃乃自身の口から疑問符が出た。


 まるで自分の身に何が起こったのか分かっていないように。細く長い金髪はテーブルの上に流れるように半円状に広がり、テーブルに頭突きをしたそのままの状態で困惑の声を漏らす。


 永遠の方も何が何だか混乱して、とりあえず瑠璃乃を起こさなければと急いで立ち上がって彼女の肩を持とうとする。


 だが、触れることができない。


 彼女の体に触れようとしても、何度掴もうとしても空気を掻くだけで、その手に彼女の感触が伝わってこない。瑠璃乃の姿はそこにあるのに接触することができないもどかしさに永遠の中に動揺と焦りが積み重なっていく。


「な、なんで⁉ どうして⁉」


 幽体離脱の類いとかオカルトめいた想像が永遠の頭を過る。が、思うだけで瑠璃乃を疑う暇は無かった。永遠はとにかく焦って慌てふためき、瑠璃乃の肩を何度も掴もうと試みる。


「……そっか。もう時間……なのかな。……永遠?」


「え⁉ あっ、大丈夫⁉ なに――」


――ごめんね――


 そう謝ってすぐ、身に付けていたものごと、瑠璃乃の体が桃色の光の霧となって消失した。


 訳が分からない永遠は認識が追いつかず、口を半開きのまま、茫然と立ち尽くす。


 あそこに居た女の子がいきなり消えたような気がする。フードコートの何人かがザワつきだす。そのザワつきを耳が拾っても、永遠の表情は変わらない。変えられない。瞬きの仕方を忘れたように見開かれたままの瞳は動かない。


 しかし、憩いの場に発生した先ほどまでと今からの違和感。周囲の人々が不審げに永遠を見るまでにそう時間は掛からなかった。


 その奇異の目が針となって永遠に突き刺さる。


 視線を認識できてくると、永遠の額から冷や汗が幾筋も伝い落ちる。鼓動も早鳴り、息も苦しくなってくる。今まで抑えられていた不安と恐怖が一挙に押し寄せる感覚だった。


 家を出てからこんなにも苦しくなることは無かったのに、何故急にこうなるのか? 永遠は苦しみのなか、答えを探していると、すぐに心当たりにたどり着いた。


「……るっ……瑠璃……乃……」


 瑠璃乃がいた席を見下ろし、震える体で、すがるように瑠璃乃の名前を呼ぶ。


 俯き、上擦った声を絞り出すと、まるで瑠璃乃に助けを求めるように無意識のうちに永遠は虚空に向かって手を伸ばした。


 すると、その手を温もりが包み込む。


 だが、その温もりは瑠璃乃のものではない。すぐにそれを認識した永遠は温もりのもとに焦点を合わせる。


 そこには何故か、服屋の女性店員が永遠を心底気遣うような表情で立っていた。


「永遠くん。よく頑張ってくれたわね。ありがとう。それにごめんなさい。私は、あなたを迎えにきました」

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