第17話 その一言で充分だった

 いざリスクに直面すると、全身を通う血が凍ったように冷たく感じ、怯え、動けなくなってしまう。


 なのに心臓の鼓動は耳に届くほど激しくなっていき、じっとりとした汗が酷暑の炎天下に晒されている時のように全身から噴き出てくる。


 自分で息をしているのかどうかも判別できない程、呼吸が浅く速くなり、体が逃げ出せと訴える。が、心が混乱の極みに達して正常な連携を失い、固まるしかできない。


「ひきこもりがイッチョマエにイイ女連れで気楽に暮らしてやがる! はっ! どこの上流様だよ⁉」


 そんなつもりはない。けれど、中根の言葉こそが自分へ向けられる現実なのだと受け入れてしまうと、永遠の目から堰を切ったように涙が溢れる。反論ができない。いや、反論する資格さえ無いのかもしれない。そうやって永遠はどんどん自分を追い込んでしまう。 


 中根の振るまいで人目もだいぶ集まっている。しかも瑠璃乃の前。恥をかきたくないと精一杯まで耐えたが無理だった。沢山の視線を感じる中、永遠は顔に幾つもの皺を作って鼻水を垂らし、嗚咽を混じらせ、すすり泣く。


 瑠璃乃もどうしていいか分からない。今までの無意識のケアと同様では追いつかないのは理解できる。が、だからこそ、何をどうしたらいいのかの端緒さえ掴めなかった。


 永遠への申し訳なさから、瑠璃乃が悲痛な面持ちで眉間にしわを寄せながら、それでも支えようと彼の震える手を包む両手に力を込める。永遠の力になりたいと強く望みながら包み込む。


「なに泣いちゃってんの? 何か俺が悪いみたいじゃん。事実言っただけなのに。ダッセーなおいッ!」


「ううっぃっ‼」


 怒鳴りつけられ、永遠の脳裏にトラウマが再現される。大量の瞳に睨み付けられる。追い詰められた永遠が痛みの走った腹側部を片手で押さえ、悲鳴を漏らした。


 その無様を前に中根は間を置いてわらった。


「何ふざけてんだよ? わざとらしッ! 被害者決め込んでんじゃねえよッ!」


 この時代、精神疾患は根絶されているのも手伝って、表層化したパニック症状に現実で出会うことはほぼない。全て過去の動画やフィクションの中だけにしか存在しないのと同じだった。


 だからこそ、中根にとって永遠の態度は、自分を被害者として仕立て上げ、周囲から同情を集めようと芝居がかった態度を大袈裟に表現しているだけにしか映っていなかった。極端に少ない2b8患者の特性もせいもあって、中根には永遠がオーバーアクションで可哀想な自分を演出しているようにしか見えなかったのだ。

 これが、2b8患者が、ひきこもりとは別の意味で異端視される理由だった。


「こっすい奴だぜ、ハッ! 君もさ、こんなヒッキーと一緒する仕事なんて止めて俺といっしょにきなって」


 おこがましかったんだ。


 弱い者は弱いまま、大人しく家の中だけで一生を終えるべきだった。間違っても外へ出たいなんて思うべきじゃなかった。ひきこもっていればよかった。今日の自分の行動に対し、永遠の中で大きな後悔が生まれそうになったその時、


「……永遠は他の人より弱いよ。ひきこもりだよ」


 永遠の手を包み込んでいた手に更に力が加えられる。瑠璃乃は永遠を守るように彼の手を握って中根を見上げる。


「だろ? じゃあ――」

「――でも、永遠は君より優しいよ?」


 真っ直ぐに真心に何も混じらせることなく瑠璃乃が言った。


 その一言で充分だった。その一言が永遠を満たす。


 灰色以外の侵入を許さなかった思考と景色が、瑠璃乃の言葉により一瞬で鮮明な色を取り戻す。永遠の涙と痛みがピタリと止まった。


 渦巻いていたものが晴れ上がっていく。この子は自分を認めてくれる。普通でないことを許された気がした。救われ、報われたような気分だった。


 気が付けば呆気ないほど簡単に、震えていた手も腹部の痛みも治まっている。嫌悪の睨みに支配された思考も、瑠璃乃にもらった勇気を拠り所にして治めることができていた。


 永遠は、感謝とかお詫びとか、ごちゃ混ぜでも、今の晴れやかな気持ちを瑠璃乃にとにかく伝えたくて、俯いていた顔を上げて瑠璃乃の方を見る。


 彼女は全て汲んだように、穏やかで優しい笑みを浮かべていた。


 中根は瑠璃乃に言い放たれ、状況が飲み込めずに茫然と立ち尽くしている。


 が、永遠の心底安堵したように目を細めている様子を、ゆっくり噛み砕くように認識した直後、強烈な苛立ちが彼の中でとぐろを巻いた。


 お前はそんな顔をしてイイ奴じゃない。中根は永遠が持ち直したことを察すると、納得いかないと眉間を引き上げ、尖った形相で永遠を睨み付ける。


 その害意に満ちた視線に気付くと、永遠はやはり目を伏せてしまう。恐怖の大きさは変わらないのだ。しかし、そんな小さな勝利で中根は納得しない。


「何か吹き込まれちゃったのかもしれないけど、こいつを信用しないほうがいいよ?」


 中根が取って付けたような心配そうな顔で瑠璃乃に言う。彼が何を言わんとしているのか予感し、永遠は痛みを先取りしてしてしまい、喉が大きく鳴った。


「こいつさ、中学んとき、好きな子に一方的に迫って、事件になったことあんだよね」


 ニチャリとまとわり付くような笑みを浮かべ、中根が尾ひれの付いた過去を語り出す。


「ハッキリ覚えてるわ。悲鳴上げて助け呼んでた女子の泣き顔。怖かったろうな~。こんなキッッショイのに粘着されたうえ、襲われそうになったんだからな~」


 経緯なんてどうだっていい。鮮明な結果があれば、事実は形作られてしまう。


 可憐な少女が冴えない少年の前で泣きじゃくるという分かり易いシーンを切り取られて見せられたら、どちらが加害者で被害者なのかを判断するのに時間はいらないだろう。


 どんなに否定や釈明をしても、焼け石に水。ウソを吐いていると決めるつけられた。打たれ弱い永遠が、元のポジションに戻ることを諦めるのに時間はいらなかった。


 自分が去ったクラス限定裏チャット。

 そこでは“雑魚w”と嘲笑されていた。

 あの大量のwが焼き付いて離れない。否応なく自覚するしか無かった。自分は、はみ出し者で、クラスから追い出された負け犬なんだと。


 普段は忘れ去られている。自分達の居場所に関係無い人間だから。なのに、名前を出せば事件と関連付けられて思い出される。悪評は三年程度では消えない。どこまでも追いかけてくる。中根を前にして、永遠はハッキリと思い知らされていた。


 永遠は他人が怖くて怖くて仕方ない。だが、人というものを嫌いになった訳ではない。だからこそ、しっかりとした役割を求めた。


 異性が怖い。トラウマ由来の恐怖症といってもいい。けれど人並みに興味もある。

  

 人自体が怖い。なのに人を求めてしまう。


 何かの役割を足掛かりとするしか自分のような人間が外の人と再び交わる事は許されない。そう思い込んだ永遠は、自分だけの免罪符を探して、部屋の中で彷徨い、苦しむ毎日を繰り返した。その末に、やっと踏み出した現在がある。


 永遠は向き合ってくれる瑠璃乃と目を合わせる。が、すぐに逸らしてしまう。


 過去を知られては落胆させてしまうかもしれない。去っていってしまうかもしれないと怖くなくなったからだった。事実じゃない。そう訴えても、また否定されてしまうかもしれない。過去のクラスメイトと瑠璃乃を重ねてしまい、永遠は釈明したいのに、舌が上手く動かなくて、下を向いて悔しそうに拳を握り込んだ。


「永遠は、そんなことしないよ?」

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