第8話 二人の一歩目
瑠璃乃に請われ、デートに出かけるために永遠は玄関の戸に指を掛けた。
このまま当たり前のように外に出て行ける。困難を抱えているということさえ勢いで忘れていた。
順風満帆。何事も無く、自然に外出できる。そんな雰囲気だった。
自分の脆さを忘れていたと言ってもいい。
しかし、三年というひきこもり生活の代償は軽くはなかった。
出かけるために玄関の戸を開こうと力を入れたその時、慌ただしくも心地良い時間のおかげで忘れたふりをすることが出来ていた逃れようの無い事実が否応なく、激しい感情として永遠の心をかき乱す。
戸を開けたら外。否応のない現実。それを自覚したとき、心に押し寄せてくる自分ではどうしようもない感情。激しい恐怖と止めどない不安。一つのことだけで思考が押し潰されてしまう感覚。選択権も何も無く、それしか考えられない状態が訪れる。
永遠の脳裏に、ひきこもりのきっかけとなった出来事が呼び起こされていた。
同年代の他人が自分をおもしろ可笑しく嘲笑い、馬鹿にするような目つきで見下してくる。
気色悪く異質なものでも見ているような、刺すような視線を同年代の全ての人間から向けられている感覚。自分にとっては妄想ではない。耐えがたい事実だ。
押し寄せる様々な感情が入り交じった激流に呑み込まれ、永遠から血の気が引いていく。
心の負荷がキャパシティーを超え、脈は衰え、景色が歪む。
過去が手加減なく横っ腹を蹴ってくる。鮮明な痛みが走り、胃の不快感を覚えた直後、吐き気が容赦なくせり上がってきて、永遠は口を覆った。
変化を望み、社会に与えられる自分の役割を求め、覚悟を決めて誘いを受けた。今もこうして自分の味方だと言ってくれる女の子と一緒に外出するため、戸に指を掛けている。
それなのに、この無様を曝している。
永遠は不安と恐怖に曝されて嘔吐しそうになる自分が情けなくて、悲しくて、悔しくて、どうしようもない現実に涙を浮かべて震えてしまう。
その時、永遠は手の平と甲に温もりを覚えた。柔らかく、とても心地の良い温もりだった。
温もりのもとを辿り、俯いて泣いていた顔を上げると、瑠璃乃が心配そうに覗き込んでいた。
しかし、目が合うと直ぐに表情を変え、慈しみを湛えた瞳で永遠を見据える。
「わたしが隣にいるからね。永遠のお願い、叶えよう?」
優しく、それでいて心強い声音で瑠璃乃が問いかける。
瑠璃乃には分かっていた。永遠の願いの強度を。外に出たいという願いがどれほどまで強いのかを。
その証に永遠の指は、まだ戸から離れていない。口を覆うほど苦しみながらも、永遠は諦めていない。諦めたくないと望んでいる。
背負ってしまった自分ではどうしようもできない重荷のせいで自由に動けなくなっている永遠を助けたい。支えたい。重荷を一緒に背負っていきたい。瑠璃乃は強くそう願う。
「わたしは永遠の一番したいことを叶えるために来たんだよ? だから遠慮しないで。わたしを頼って。ね?」
瑠璃乃は穏やかに目を細め、弱々しく眉を寄せている永遠に、しっかりと伝える。
彼女に触れられた途端、底なし沼で足掻いていたのがフッと宙に引き上げられ、文字通り浮遊感を錯覚するほどの心地良さを覚えた。
気がつけば吐き気も治っている。さっきまでの苦痛が嘘のように心身が楽でいられる。
そのおかげで客観視も手にできた途端に、永遠のなかに
心を委ねてしまってもいいのだろうか?
甘えてしまってもいいのか?
迷いが生まれて、永遠は目を伏せて逡巡してしまう。そこに過ってきたのはチャットでの遣り取りだった。
――弱者であることを受け容れますか?――
思い出すと、あぁ、これかと、永遠は腑に落ちた気がした。
さんざん
弱い自分を認め、気負いを外し、少しでも身軽になって外へ。それを選ぶべきだ。永遠は瑠璃乃の力を借りて自分への回答を選択した。
永遠の体に力が戻る。心も平穏を取り戻しかけている。
頑張る永遠を前に、なんだか瑠璃乃は自分も頑張りたくなって、恥ずかしさに耐え、本音を口にしてみることにした。
「……デート……しよ?」
頬を赤らめ、瞳が揺れている。その様子だけで意を決して言ってくれた事が分かる態度。
永遠の方も照れ臭くなってくる。しかし、背中を押してくれた瑠璃乃に応えたくて、永遠は時間をかけて返事を返す。
「………………うん」
背中を押された永遠の指は、迷わなかった。一歩目を踏み出すため、一世一代の覚悟のつもりで一気に、それでも彼らしく丁寧に玄関の戸を開け放った。
三年ぶり、最初に受け取った外界の情報はウグイスからの挨拶だった。
続いて自分が小さい頃遊び回った記憶を想起させる匂い。庭の土と緑の匂い。それを受け取っただけで、永遠の中にあった堪らなく大きくて、堪らなく小さなわだかまりがスッと消えていく。心が軽くなった感覚に自然と足が踏み出される。
敷居を跨ぐと、春の日差しの暖かさをその身に感じた。永遠にとってひどく久しぶりの感覚だった。上を見上げると、クラッとするほど眩しい。
(そうだ。庭だ。僕んちの庭だ。土とお茶みたいな匂いがする庭だ。太陽も眩しいな。……あれ? 泣けてくる……)
懐かしさ。懐かしいと思ってしまう程、久しぶりの五感の情報に永遠は目の奥に熱さを、鼻の奥に痛みを感じた。それを瑠璃乃に見られるのが恥ずかしくて、誤魔化すように門まで一気に、しかし、ゆっくりと歩いていく。
古い家を囲う古めかしいブロック塀を越えると、家の前に伸びる道路を挟んだ向こう側、長い緑の生い茂った
昔は当たり前の日常風景だったのに、久しくその目に窓越しからでしか写すことができなかった美しい山々や田園……のどかな故郷の光景が目にも心にも染みてくる。
「きれいだね~~」
永遠の後ろについていた瑠璃乃は、遠くをぼんやりと見つめて歩くのを止めた彼の横で言う。
「……あっ、うん……あっ、はい……」
ドギマギしながら返事を返し、それを誤魔化すように振り返ると自分の部屋がある場所が見えた。目を凝らしても、部屋の中は見えない。誰かの視線に怯えていたのが取り越し苦労だと思えると自嘲も零れる。
永遠はガードレールに両手をついて、長い間の思い込みの重荷を下ろすように息を一つ大きく吐き出すと、また景色を見下ろす。
このまま眺めてもいたいが、今日の目的は別にある。目的地まで歩けば30分は掛かる。
いきなりの事で母の用意した昼食は夕食に回し、デートへ赴くこととなった。もしかしたらこの子もお腹を空かせているかもしれない。永遠は横目でチラチラと瑠璃乃の顔を見て様子を窺う。
「そうだね。これからはいつでも見れるもんね。行こっか♪」
永遠は驚いた。行こうという要求が伝わればいい。それだけだったのに、彼女はまるで考えていることに対して返答するかのように返してきた。相手の心理を読むとか汲み取るとか、従業員として何か特別な訓練でもしたんだろうと永遠は勝手に納得して歩み出す。
その隣には瑠璃乃が居る。喜ばしさが過ぎるから、押し止めきれない光を漏らして歩く彼女が。
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