第3話 一歩目

 少しの間迷った末、永遠はトレーラーについてあえて無視をすることに決めた。新しい癒えない傷になるのも困りものだし……と。


 カーテンを腕だけ伸ばしてゆっくりと閉めると、スマホをポケットから取り出し、ベッドに腰掛けて画面を見つめる。代わりに、ここ最近の迷いへ向き合うことにしたのだった。


『ハルジオン社・ニュービジョンワーク「乙職」のご案内』


 スマホにそう表示されるリンクを辿れば、確実に一歩進める。それは分かっていた。


 ハルジオンという企業は、永遠にさえそれほどの確信を持たせるほど巨大だった。


 2030年現代、例外を一つ除いて、あらゆる疾患の根絶が達成されている。その偉業は、ハルジオンがなければ成し得なかった。


 しかも、ムーンショットやブレイクスルーは医療だけに留まらない。


 安定稼働する常温超伝導体や量子コンピュータを造り出し、地球全土をネット衛生で結び、超高効率太陽光発電パネルと蓄電池を普及させ、文明を造り変えた唯一無二の巨大企業。


 文明の担い手と称されるのがハルジオンだった。


 そんな企業がこしらえる現代文明の必需品には、“オクミカワ”と呼ばれる鉱石が必要になる。それを自宅で加工する仕事こそが、永遠の目論んだ一歩目の正体だった。


 ハルジオンの国際的で多岐に渡る貢献と利益は凄まじい。一国の社会保障制度を実質肩代わりするのも容易いほどに。


 しかも、築かれた莫大な富は蓄えられることなく、常に社会を下支えするように循環し、還元されている。その循環システムの一部に加わり役割を与えられたい。永遠はそう望んでいた。


 永遠は、ひきこもりであり、学校に通っていない。だが、肩書きは高校生であり、歴とした学生ではある。


 自分の現状を理解してくれる親をこれ以上心配させないため、地元から遠い学校になんとか籍を置いた。


 永遠は授業をリモート授業ではなく、テキスト形式で学んでいる。人が怖いからだ。同級生はもちろん、教師さえ怖かった。だから教室には通えず、授業風景を目にするのさえ拒んだ。


 そのせいで、高い帰属欲求とは裏腹に帰属意識を持ちづらく、立ち位置が曖昧になり、自分が何者なのか常に分からないで彷徨さまよっていた。


 2030年現在、望めば誰でも自由に無料で高等学校のオンライン授業を受けられる。法改正に伴い、単位さえ取得すれば入学から卒業資格取得まで家の中で可能でもある。


 しかし、誰かと共有できる匂いや温度、空気感を伴った学校生活、行事、イベントの思い出を形成するには継続的な登校や出席は必須。それが永遠には無理だった。それが出来ないのだから、彼にとっての今の状況は虚しいだけになっている。


 学校行事の度に、永遠が後付けされた写真などが送られてきた。何の思い出も伴わない虚しいだけの集合写真では、合成にて居ないはずの自分の姿がうまく溶け込むように写っていた。それに合わせたクラスメイトのメッセージには大きな疎外感を覚えて胸が締め付けられた。


『林本くんも学校おいでよ』などと定型的に添えられる言葉に心を抉られたことが何度もある。


 皆も知っている。林本永遠という存在が居るのだが、居ないという事実。


 何故居ないか。何故来られないのか。それも徹底的に接触を断っているのだから自明のようなものだった。


 つまり、永遠は胸を張って高校生と名乗れないでいる。最低限の勉強をしているといっても、結局は孤独なひきこもりなのだ。


 だからこそ、学生とは別の、自分が納得できる、自分を証明できる役割を欲した。強烈に。 


 その望みを叶えられそうなのが、ハルジオンのニュービジョンワークだったのだ。これに申し込めば、ただのひきこもりではなくなる。役割ができる。


 少しでも“下”から“普通”に近付けるのでは? 永遠はそうやって淡い期待を抱いていた。


 ただ、何度も申し込むのを躊躇したのにも理由がある。


 申し込んだが最後、絶対に避けられない意思確認などのためのチャットが始まってしまう。それが難しいのだ。


 電話はもちろん、チャットやメールのやりとりさえ、永遠にとっては大きな困難になる。


 始める前から身がすくみ、失敗した場合を恐れて何も始めることができない。二の足ばかり踏んでいる。


 今回もここで終わってしまうのか。永遠は己の不甲斐無さに涙を滲ませる。


 その涙の温度を目端に感じるのも何度目か。悔しくて情けなくて、永遠は様々な申し訳なさが溢れてきて涙を頬に流してしまった。


 両親への罪悪感、世間への引け目、その他諸々が逆流する胃酸のようにせり上がってくる。やがて、座っているのも辛くなり、ベッドに倒れ込んだ。そして天井を見ながら後ろ向きな事をいつものように呟く。


「……ずっと、このままなのかな?」


 誰にでもなく、永遠が問いかけた。それだけのことだった。それなのに……、



――ダイ……ジョ……ブ…………ダヨ――



誰かが発したかのような声を耳にした永遠の肩が跳ねる。


 すぐに上半身を起こして周囲を見回す。


 聞こえてきた声は異質だった。ノイズまみれで性別も分からず、年も判別できないような声音。だが、何の確信もなく、自然とそれは励ましなのだと永遠は受け取っていた。 


 幻聴に励まされて元気になる。いよいよだなとも自嘲する。だが、セルフサービスでも元気になれるなら、こんなにお得な事もないとも思った。


 鼻から息を一つ吐き出し、永遠は久しぶりに口元を緩める。


 そこで永遠は、今までと自分の様子が違う事に気付く。


 笑えていたのだ。


 永遠の心は、ひきこもってからずっとシケっている。家の中にいても、心中はいつも荒れていた。まるで自分の現状を比喩するように一寸先も見えない嵐が渦巻いていた。


 それが今は曇天。晴れ間こそないが、確実に凪が近づいている。どんより重く暗くモヤモヤした頭の中には、代わりになるように陽の光のような温かさが流れてくる。


 今ならできるかもしれない。


 温かさは、永遠を前向きに、一歩目へと誘う。


 弱々しく握っていたスマホへ力が加えられる。そして永遠が先ほどまでとは違う眼差しでみているのは、ハルジオンからの案内だった。


 これまで散々躊躇って踏み出せなかった一歩目。画面に軽く触れれば、望んでいたドアが開くはず。けれどそれに伴う不安や恐れに気圧されて、いつもなら画面を閉じていた。


 しかし、今回は違う。


 正体の分からない声を聴いてから、どうにも心が軽い。不安が押し止められ、今のうちに先へ進めと、誰かに励まされているような気分だった。


 こんな気分になれるのは何年ぶりか。もう二度とこんなチャンスは訪れないかもしれない。今を逃すのはとてつもなくもったいない。


 後退ではなく、進むための理由が湧いてきてくれる。 


 だから永遠は、恐怖からなのか武者震いなのか判別できない震えを伴いながらリンクをタップする。ようやく踏み出せた価値ある一歩目だった。


『サポートを開始します』


 身構えていた永遠が固くなる。本当に凄まじい速さのリアクションが始まってしまったのだ。


『こんにちは! ようこそ、ニュービジョンワーク・サポート案内へ!』


 相手がAIなのか生身の人間なのか。どちらだどちらだと永遠の心臓は早鐘を打って、呼吸は浅くて速くなる。震えも当然収まらない。歯も自然に打ち合ってしまう。


 けれど、せっかく踏み出した足を止めたくなかった。


 自分を騙せ。永遠は言い聞かせるように心の中で唱えると返事を返す。


『よろしくお願いします』


 画面には、その10文字が新しく表示される。しかし、自分にとっては限りなく重い数だ。ありったけの勇気の数をそのまま数えたような10文字だった。


『よろしくお願いしますね♪』


 相手側が提示した♪マークに、永遠は少しこそばゆさを感じるのだった。





 

「永遠くん応えてくれました♪」


「ああ! がんばってくれたんだなぁっ! よかったなぁ……」


 トレーラーの中は、チャットの相手である永遠からのリアクションに大いに沸いていた。


 弥生は片方の手で球状のブレイン・コンピュータ・インターフェイス《BCI》を握りしめ、もう片方の手で、辛うじて目に収まっている涙を溜めた博士と厚い握手を交わした。二人は喜びの余り踊り出したい気分を抑えて、代わりに握手したまま腕を喜び溢れる犬の尾のように振っている。


「よし! これで壁がひとつ取り除かれた。彼の勇気のおかげだ。行って抱きしめたいのを今は堪えて……うん、うんうんうん! じゃあ、弥生君。これからもお願いできるかな?」


「はい! 任せてください! 永遠くんも頑張ってるんだから、私だって応えてみせちゃいますよ♪」


 喜びと期待の握り拳を作って博士に応じる弥生の頬は紅潮し、唇を巻き込んで閉じ、鼻息も勢いよくチャットに臨む。その背中を頼もしく見下ろし、博士が目を細める。


 博士、弥生、永遠の三人で繰り広げる効率の悪いコミュニケーションが始まった。

  

 そんな中で、車内で一番大きな円筒状の装置カプセルが、桃色に一際大きい輝きをみせていた。

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