イエーガーマイスター・アフター・ダーク

こむらさき

イエーガーマイスター30mlブラックチョコレートリキュール15ml

「ねえ咲斗くん、今年のバレンタイン、どうしよっか」


「ああー、そんな時期か……。そうだなー智花ともかが作ってくれるチョコならなんでもいいかな」

 

 遠距離恋愛六年目の僕たちは一緒に住む気配も、近くに引っ越すつもりもないままだらだらと惰性のような関係性を続けていた。

 本当は手作りのチョコなんてどうでもいい。なんなら遠恋なのだし、既製品を送ってくれるだけでもいい。

 でも、それだとめんどくさいことになることはわかってる。だから、思ってもいない甘い嘘を吐く。


「ええー? どうしよっかなぁ」


 彼女の上機嫌そうな声色が聞こえて、なんとかご機嫌を取れたことに安堵している。

 六年付き合っている一回り以上年上の彼女……智花は幼稚園の先生。僕はというと……第二志望のそれなりに福利厚生も手厚い音響の仕事に就いたはいいが、ストレスで体を壊し、半年で定職を離れた後にだらだだとフリーターをしていた。

 地元を離れて東京で就職したのは……家族と折り合いがよくなかったこともあるけれど、単純に転がり込む先に困らないと思ったからという打算的な目的もある。

 フリーターでものうのうと暮らしていけるのは、都内で作った恋人の家で同棲をしているからだ。

 遠恋なのをいいことに彼女にはシェアハウスで暮らしていると言っているし、もう一人の恋人であるナツキはというと、僕と同じく貞操観念や倫理観がちょっとアレなので他に恋人がいても気にしていないようだった。

 だから、一緒にいて楽だっていうのもある。


「じゃあ、バレンタインには少し早いけど二月の第二週にそっち行って大丈夫?」


「んー。でも来月誕生日じゃん? その時でも」


「……え」


 上の空で話を適当に流していたが、智花の小さな、けれど不満を凝縮したような声にハッと我に返る。


「ほら、ホワイトデーのプレゼントと交換って感じでさ? 何度も東京こっち来て貰うの悪いから」


 声のトーンを少しあげ、慌てて取り繕う。相手を気遣っている風にして、キチンと楽しみだよという期待を込めているように聞こえますようにという祈りに似た気持ちになりながら。


「三月末は幼稚園も春休みだから咲斗くんは大阪こっち来るでしょ?」


 どうやら、誤魔化せたらしい。けれど……半年ぶりのデートで、次回はまたお盆にでも……と思っていた僕の予定が崩れそうになっていることで、動悸がしてくる。


「だから、大丈夫」


 念を押すように、ゆっくりと智花はそういった。

 思わずヒュッと音が聞こえてしまいそうな勢いで息を吸い込む。

 会いたくない。嫌いではない。けど、どうしても腰が重くなる。

 僕が、僕から告白をしたのが六年前。

 十五歳の僕、そして、二十九歳の彼女。今、彼女は三十五歳。

 僕は男だから……だから、責任を取らないといけないというのは薄らわかっている。 

 ナツキは僕と結婚するつもりはなく、体の相性も良くてノリがあるから一緒に暮らしているだけだっていうのはわかりきっているし、僕が結婚すべきなのは、僕が責任を取るべきなのは、智花なのだから。

 グッと胃からせり上がってくる吐き気を耐え、そっと拳を握りながら、僕は目を閉じて、極力柔らかい声で返事をする。


「そっか。じゃあ、少し早いバレンタインにしよう」


「よかった。最近あんまり会えてなかったから、咲斗くんに会えるの本当にうれしい」


「チョコ、楽しみにしてるから。じゃあ、そろそろ仕事に出掛けるから切るね」


「うん、仕事の前なのにごめんね、ありがと。また連絡するね」


 彼女の弾んだような声と反対に、僕の体はまるで鉛でも入れられたように重くなったように感じた。

 仕事っていうのも嘘だ。今日は一日暇で、ナツキの帰りを待ってから出掛けようと思っていた。

 都合の良い嘘を吐いて、彼女の望む言葉を返して、どうしようもなく憂鬱になる。


「ただいまぁ……ってなにしてるの?」


「……懺悔」


 スマホを放り投げて、ソファーでうつ伏せになっていると、仕事を終えたナツキがケタケタ笑いながら俺の横に腰を下ろす。

 頭を撫でられながら、顔も上げずにそれだけ呟いた。


「なにそれ」


 そう笑い飛ばしたナツキの方からはスマホの画面をタップするカツカツという音が響いている。

 こういうところが本当に楽なんだよなと思いながら、ようやく顔を上げるとちょうどこちらを向いたナツキと目が合った。

 ゆっくりと目を細めて、少しぽってりとした唇の両端を持ち上げた彼女の顔が徐々に近付いてくる。

 柑橘系の爽やかさを拭くんだ甘い香りに包まれながら、俺の唇にやわらかい感触が押し付けられる。

 それからナツキはすぐに顔を離して「ふふ」っと悪戯っぽく笑った。


「元気出た?」


「まあ」


 さっきまでの鉛が入ったように重たかった体が、少しだけ軽くなった気がする。

 立ち上がって、俺はキッチンへ向かう。


「急にどうしたの?」


「いや、まあ、今日は仕事もないし、夕飯は俺が作ろうと思って」


「やったー!」


 両手をあげて無邪気に喜ぶナツキを横目に見ながら、俺は冷蔵庫の中を見て適当に料理をはじめる。


――ピピポン


 ポケットの中で鳴ったスマホを取りだして、一瞬だけ見えた【智花】の字。

 僕はスマホをそのままポケットの中へ戻して、夕食の調理へ戻った。


 きっと責任を取らなきゃいけないことは変わらない。それに、バレンタインのデートも、その翌月のホワイトデー&彼女の誕生日デートも予定は変えられない。

 ただ、今は考えたくなくて、何もなかったことにする。


「スマホ鳴ってたけど大丈夫?」


「ああ、メルマガだった」


 料理の皿をテーブルに運びながら「ほんとに?」というナツキに「マジだって」とだけ返して僕はスマホをクッションの下へ追いやった。

 いつかは出さないといけない答えも、取らなければいけない責任も、きっとせざるを得なくなるまでは……放っておいてもいいんじゃないかって自分に言い聞かせる。

 僕が就職して、それから、ナツキと同棲をやめたら、きちんと彼女に責任を取ろう。


「ねえ、これ! 早いけどバレンタイン! おもしろいリキュールがあったから買って来ちゃった」


 食事が終わって食器も洗い終わって、ソファーへ戻ると、テーブルの上に置いたタブレットで動画を見ていたナツキが鞄から掌に収まるほどの小瓶を取りだして見せてきた。


「へえ、ダークチョコレートリキュールなんてあるんだ」


「咲斗、イエガー好きでしょ? それと合わせると美味しいんだって」


「ああー、美味しそう。レシピ調べて見て」


 二人でタブレットを覗きながら、お酒のレシピを調べて見ると、どうやらリキュールもイエガーマイスターもよく冷やしてから作ったほうがいいらしい。


「じゃあ、明日飲むか。僕も仕事遅くない予定だし」


「楽しみー! あ、もちろんバレンタイン当日はチョコも買うからね」


「ナツキが食べたいだけでしょ? いいけどさ」


 そんな何気ないやりとりをしてから、二人でシャワーを浴び、適当に体を重ね、ぐっすりと寝ているナツキの横でようやくスマホを見た。


『愛してるよ咲斗くん♡チョコ美味しく作るからね! 浮気しちゃダメだよ』


 かわいらしいうさぎのスタンプと共に、そんな文面が目にはいってきた。


『僕も愛してる。それにモテないから浮気なんてするわけないってw智花のチョコのために甘いもの絶ちでもしておこっかな! じゃあ、おやすみ』

 

 それだけ打って、僕はスマホの画面をベッドに伏せて枕の下へ押し込んだ。

 これは誰のための甘い嘘なんだろうと思いながら、考えるのがめんどくさくなった僕はそのまま眠ることにした。

 目が醒めたら彼女の気持ちが冷めていきなり別れを決心しますようにと信じてもいない神に祈りながら。

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