参-4

 燃え盛る炎が、め尽くすように広がっていく。

 楓真が坎宮かんきゅうに着いたとき、既に宮は炎に包まれ、焼け落ちた瓦礫がれきが街路を塞いでいた。まだ炎の回りきっていない路地を通って、やしきへと走る。

「……一体、何が……」

 分からない。わからない。焦燥と混乱が、楓真の胸に、潮のように渦巻く。

「……私だけ……何も知らなかった……?」

 頭上から響いた轟音に、楓真は、咄嗟とっさに飛び退すさる。火の粉を飛び散らせながら、屋根の一部が崩れ、楓真のすぐ傍に落下した。噴き上がる黒煙。すくむ足を叱咤しったして、楓真は再び、通りを走る。

 全てが燃えていた。街路に飾られた笹も、楓真の作った笹飾りも。

「っ、兄上……!」

 やっと、邸の門が見えてきた。楓真は、さらに足を速め、門をくぐる。

 邸は既に炎の中だ。

「兄上! 母上! 父上!」

 呼びながら、庭へと走る。

 楓真の背丈よりも高い紫陽花あじさいが、紅い炎に照らされてもなお青々と咲いていた。炎の熱と光を遮る青と白。まるで悪い夢を見ているような心地がした。本当に夢だったら、どんなに良かっただろう。紫陽花の茂みが終わる。咲き添う青と白が途切とぎれ、楓真の足は止まった。

「……兄上……?」

 燃え盛る邸の前にたたずむ、兄の背中。手には抜き身のつるぎ。その刃が、赤く濡れていた。炎を反射して、一層、鮮烈に。楓真の瞳が凍りつく。いやだ。見たくない。そう思うのに、楓真の目は、兄の足もとへ、刃を伝う赤い雫のしたたる先へと、辿たどっていく。

「……母上……?」

 楓真の声が、震えながら落ちていく。

 血溜まりの中に立つ兄が、ゆっくりと振り返る。白藍しらあいの上衣を、母の血に染めて。

「……楓真」

 兄の瞳は、硝子のように透明だった。何の感情も浮かべず、表情も宿さず、楓真を無機質に映していた。

「……嘘です……」

 震える足で、楓真は兄へと歩いていく。

「これは夢です……こんなの、悪い夢です……」

 兄は答えない。表情も変わらない。楓真は必死で、兄を見つめる。

「……嘘ですよね、兄上……夢ですよね……兄上が、こんなこと……するはずないですから……」

 手を伸ばす。兄の袖を、掴もうとして――

「っ、あ……」

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。気づいたときには、楓真は、兄から数歩離れた地面に倒れていた。一拍遅れて鳩尾みぞおちから込み上げた吐き気と広がる痛みに、兄に蹴り飛ばされたのだと知る。

「……兄……上……?」

 苦痛に顔をゆがめて咳き込みながら、楓真は薄く目を開けた。ぱちぱちと、目の前で何かがくすぶっている。焼け焦げた黒いもの。楓真の喉が、ひっ、と呼吸を止める。

 父だった。いや、父だけじゃない。楓真の前に、折り重なるように倒れた人々が、燃えていた。

 ひた、と兄が血溜まりを抜け、近づいてくる。楓真は必死で身を起こし、けれど立つこともできずに、すくんだまま後退あとずさった。

「……い……やだ……」

 かちかちと、歯が音を立てる。兄の影が、楓真にかかる。手足を縮め、楓真は、ぎゅっと目をつむった。

「……っ、殺さないで……!」

「殺さないよ」

 静かな声が、降る。

 楓真は、そっと目を開け、兄を見上げた。

 氷でできた刃のように、兄の瞳は冷たく鋭い。

「力も開花していない、お前など、殺す価値もない」

 そしてつるぎの血を払う。母の血が、ぱっと楓真の頬にねた。

「……どうしてです……兄上……」

 楓真の唇から、問いかけがこぼれる。

「……どうして……?」

 楓真を見下ろす兄の瞳に、ふっと表情が浮かぶ。

 ぞっとするほど透き通った、それは冷笑だった。

「この一族は、私という存在の使い道を誤ったのだ。下らない……実に、下らない……この程度の分際で、私を使おうとするなんて」

 知らない、と楓真は思った。兄は、こんな笑い方をしない。こんなことも、言わない。こんな兄は、知らない。

「……何を……言って……」

 これは、誰だ?

 目の前にいるのは。

 確かに、兄の姿をしているのに。

「……お前は……誰だ……?」

「誰?」

 兄の姿をしたものが、くくっ、と笑う。

「お前の兄だよ、楓真。おぞましい計画で生み出された、大蛇おろちの力の器だ」

 たたえた兄の笑みには、僅かなゆがみも、にごりもなかった。完璧に整えられ、澄みきった冷笑は、おおよそ人が浮かべるものとは思えなかった。……もしかしたら、もう、人ではないのかもしれない。兄の姿をしているだけで、心は、もう、兄ではないのかもしれない。でも、それなら、一体、いつから……?

 楓真の心を見透かしたように、それは笑みを深める。

「私との兄弟ごっこは楽しかったか? 私は退屈で仕方がなかったが……親も親で面倒だったな。従順な子どもを演じるなんて、私は、とっくに飽いていたのに……これで、やっと清々した」

 どくん。楓真の中で、何かが鎌首をもたげた。憤怒、憎悪……今まで抱いたことのない、未知の黒い感情。

 いざなうように、言葉は続く。

「お前には聞こえないか? 身に宿る大蛇おろちささやきが……私には、とてもよく聞こえているよ。私に流れる大蛇の血が……濃すぎる呪いの血が、私に、殺せ、滅ぼせと、囁き続けるのだ。それは至極、甘美な欲……私は、それを解放したまで」

「……黙れ」

 顔を伏せ、楓真は遮った。もう充分だ。もう沢山だ。これ以上、兄の姿でしゃべるな。

 くすぶる父の遺体に、楓真は手を伸ばした。焼け焦げたつるぎを掴む。鞘は燃え落ちていたが、刃は使えた。ぐっと握り込む。まだ炎の熱を残すつかに、てのひらが焼けただれるのも構わずに。

 足に力を込め、楓真は立ち上がった。体の震えは、もう止まり、剣の先は、狂いなく真直ぐに、見据える相手を定めていた。

「私を裁くか、楓真」

 くすくすと、そいつは笑う。息を詰め、楓真は地面を蹴った。

 ゆるせなかった。ただひたすらに、赦せなかった。赦せないという感情が、楓真を突き動かしていた。楓真の心は、今、き出しの刃そのものだった。

 けれど、そんな幼い刃が、かなうはずもなく。

 相手はつるぎを抜くことさえなく、楓真の手から剣を落とし、易々やすやすと地面に転がすと、腕を踏みつけた。

「私が憎いか? 楓真」

 声が降る。兄の声で。……記憶に灯る、優しい兄と、同じ声で。

「私を裁きたいか? 楓真」

 やめろ。やめろ……その声で、名を呼ぶな。

 耳を塞ぎたいのに、封じられた腕では、それは叶わない。

「なぁ? 楓真」

 畳みかけるように、そいつは呼ぶ。

 楓真の中で、星のように瞬く兄の光を、黒く潰していくように。

「私を斬って」


「殺したいか? 楓真」


 ふっ、と、楓真の腕を踏みつけていた足が離れた。身構える間もなく蹴られた、腹と胸。広がる痛みに、楓真は立ち上がることさえできなかった。それでも唯一、動かせる瞳で、相手をにらみつける。兄の顔で、そいつは満足そうに笑った。

「それで良い……楓真。もっと私をうらむと良い。もっと憎むと良い。私を怨むほど、憎むほど、お前は、その身に宿る大蛇おろちの力を引き出せる……強くなれる。そうしていつか、私に並び立つほどに、お前の力が育ったなら、私を裁きに来ると良い……殺しに来ると良い。……待っている」

 言葉の最後は、鳴り響く雷に掻き消され、楓真には聞こえなかった。ぽつり、と雨の雫が、楓真の頬に落ちる。黒雲に覆われた空から、大粒の雨が降り出した。

 さらり、と、白藍の衣が揺れる。静かに返されるきびす。遠ざかる背中。痛みで動けない楓真は追うことができない。待てと呼び止めることも。ただ両手でこぶしを握り、歯を食い縛り、雨に煙る夜の向こうに消えていく白い背中を睨み続けた。





 蓮太が柊哉のやしきに着いたときには、既に周囲の建物のほとんどが焼け落ち、火の手は幾分、弱まっていた。楓真を追いかけて坎宮かんきゅうに飛び込んだものの、炎に包まれた瓦礫がれきが崩れて行く手を塞がれ、楓真の姿を見失っていた。何とか通れる道を探して進んだものの、楓真と違って坎宮の土地勘がない蓮太は、辿り着くまで時間が掛かってしまった。

「っ、おい……!」

 邸の庭に、小さな体を見つけた。血まみれの遺体と、焼け焦げた遺体。その間に、楓真はうつぶせに倒れていた。

「……お前……その髪……眼も……」

 駆け寄った蓮太の足が、思わず止まる。黒かった楓真の髪が、闇夜の底でも輝く、まばゆい銀色に変わっていた。瞳も、内側から光るような、鮮やかに澄んだ金色に。

 雨に打たれ、泥にまみれながら、楓真は顔を上げ、蓮太を越えた虚空を睨んでいた。まるで、その先にいる何者かを、射殺すような鋭さで。

「おい……」

 抱き起こそうと、蓮太が手を伸ばす。楓真の肩に触れた瞬間、ぱしん、と、その手がね退けられた。手負いの獣のような、無意識の反射だった。

「……て……やる……」

 降りしきる雨の向こうを睨みつけながら、楓真はうなるように呟いていた。

 繰り返し、繰り返し……呪いのように。

「……裁いてやる……殺してやる……私が……この手で……」

 ふっ、と、刹那せつな、楓真の体から、糸が切れたように、力がほどけた。瞼が下り、白い頬が泥の中に沈む。

 気を失った楓真の体を、蓮太は、そっと抱き上げた。

 兄と同じ色に変わった弟の体は、まるで最初からそう定めて作られたように、何もかもが等しく似ていた。

 五年という歳の差を、兄の生きた時間を、ひたすらに追いかけていくように。

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