参-3

 楓真は夢を見た。悪い夢だった。

 真白の砂利の上に、兄がひざまずいている。逃げられないよう足を折られ、術を使えないよう目を隠され腕を縛られ指を潰されて。

 兄の前に立ち、楓真はつるぎを構えていた。

 兄の首をねるために。

「楓真」

 兄が呼びかけ、伏せていた顔を、ゆっくりと上げる。

 目を隠されていてもうかがえる、美しい微笑をたたえて。

「楓真、お前は――」



 はっと目覚めると、辺りは暗かった。兄と一緒に桂花茶を飲んでいて……いつの間に眠ってしまったのだろう。

 兄が寝台まで運んでくれたのだろうか。ぼんやりと瞬きをして、楓真は気づく。

 ここは、自分の部屋でも、兄の部屋でもない。知らない天井。知らない匂い。今、自分が横たわっているのも、身に馴染んだ寝台ではない。薄く硬い布団だ。

 飛び起きて、周りを見る。ふすまで仕切られた狭い部屋だった。隣にも布団が敷かれていたが、誰もいない。

 楓真は、そっと布団を抜け、襖を開けた。

 縁側に、子どもが一人、こちらに背を向けて立っている。兄と同い年くらいだけれど、兄ではない。

「……起きたのか」

 子どもが振り返る。見覚えのない顔。誰……? 楓真が警戒の瞳を向けると、彼は居心地が悪そうに視線をらした。

「俺は蓮太。お前の兄貴に頼まれて、お前を預かったんだ。ここは乾宮けんきゅうにある俺の家だよ」

「……兄上に……?」

 楓真の瞳が瞬きを打つ。蓮太はうなずいた。

「お前を夜明けまで預かってくれって……っ、おい!」

 蓮太が言い終える前に、楓真は裸足で縁側から庭に飛び出していた。

「待てよ!」

 蓮太が慌てて楓真の腕を掴む。

「お前、何か事情を知っているのか?」

「知りません! 私は何も……! だから戻るのです!」

 胸騒ぎがした。焦燥感が、全身を駆け巡る。

「今、兄上は独りです。兄上を、独りにしてはいけないのです……!」

 蓮太の腕を振り払い、楓真は転びかけながら駆け出した。

 いやな予感に、胸が一杯で、息が上手くできない。

 駆り立てられるように、楓真は走った。

 止めなければ、と思った。

 理由などない。理屈などない。ただ直感だった。

 兄を、止めなければ。





 篝火かがりびが揺らめく。まきぜる音が、静寂を際立きわだたせる。

 柊哉の前に、一族の人間たちが、折り重なるように倒れている。皆、苦悶の表情は欠片もなく、眠るように安らかだ。

 月読つくよみは、標的となった者の意識を一瞬で奪う。柊哉が術を解かない限り、彼らが目覚めることはない。


――焼き払え、火之加具土ひのかぐつち


 柊哉が右手を彼らに向ける。瞬間、彼らの体が燃え盛る炎に包まれた。

 眠ったまま焼かれ、死んでいく。柊哉に、殺されていく。

 燃え殻となった彼らを、柊哉は静かに見下ろした。


――つらぬけ、天槍てんそう


 刹那せつな、柊哉の背後に、閃光がせまった。身をひるがえし、柊哉はける。

 光に触れた髪の先が、ぱっと夜闇の中に散る。

「……流石さすが、母上です」

 いだ面持ちで、柊哉は振り返る。

「この宮にいる一族全員に術をかけたのに、母上だけは、私の術を破られた」

 けれど、その御様子では、二度目はしのげないでしょう。

 二丈ほど離れた場所、石燈籠に手をつき体を支えながら、母が立っていた。やしきを背に、鋭い光をたたえた瞳で、柊哉をにらみつけて。

「楓真は、どうしたのです……其方そなたは、楓真まで、その手にかけたのですか」

「いいえ」

 柊哉は軽く目を伏せ、首を横に振った。

「楓真は無事です。安全な場所に預けてあります」

 柊哉の言葉に、母の瞳から焦燥のさざなみが消える。しかしくらい敵意はいよいよ強く、大きなうねりとなっていた。

「……やはり、其方そなたは、まがつ者だった……」

 母が、苦しげな息とともに言葉を吐く。力を多く使えば、それだけ体への負荷も大きくなる。柊哉の月読つくよみの術を破るだけでも、かなり消耗するはずで、さらに柊哉に向けて放った天槍てんそうの術には、確実に柊哉の命を奪わんとする力が込められていた。

 死体を焼き尽くした炎が、這い上がるように邸に燃え移る。さらに隣の邸からも、瞬く間に火の手が上がった。まるで意志を持つように、炎は広がり、宮を呑み込んでいく。

 焼け落ちていく天蓬の宮の中で、柊哉と母だけが立っていた。向かい合い、視線を合わせて。

「……其方は……生まれてくるべきではなかった……」

 いつか障子越しに聞こえたものとは違う。今、この言葉は、明確に柊哉に向けて放たれていた。柊哉の存在、その全てを否定し、砕く、強弓こわゆみのように。

 だが、柊哉の面持ちは変わらなかった。砕かれるべき心が、もうなかったからだ。

 破片さえ、洗い流されてしまった後だからだ。

 いだ面持ちで、柊哉は母の言葉を聴く。悲しみと憎しみに染め上げられた母の顔は、心なしか、幼い少女のように、あどけなく見えた。

「……十三年前……其方そなたを生めと言って……よわい十二の私を無理やり犯したのが其方そなたの父だ。私の兄だ。……其方に流れている血の半分は、あの男の血……到底、ゆるすことなどできない、おぞましい血……」

 せきを切ったように、母の言葉はあふれた。母を見つめる、硝子のようだった柊哉の瞳に、憐憫のような、慈愛のような、微かな色が浮かぶ。

「……其方をはらんで……あれだけ呪ったのに……十月十日とつきとおか、呪い続けたのに……それでも其方は生まれてきた……何故なぜ、生まれた……何故、生まれてきたのだ……」


「生まれてこなければ、憎まずに済んだのに……愛さずに済んだのに……」


 母の手が、印を結ぶ。

 柊哉は静かに、地面を蹴った。

 母の術が発動する前に、その胸に飛び込む。

 腰のつるぎを、静かに抜いて。

「……母上」

 じわり、と、柊哉の胸に、母の温もりが滲む。鮮烈な赤い色とともに。

「母上の腕の中の温かさを……胸の温もりを、私は今、初めて知りました」

 貴女に抱きしめられたことなど、今まで一度もありませんでしたから。

「確かに……私は、生まれるべきではなかった……生まれたくもなかった……でも、生まれてしまった……今このときまで、生きてしまった……貴女を苦しめた償いに、私の命は足りるでしょうか。これから私は、私の意志で、私の力を、楓真のために使います。貴女の愛した子どものために、私の命を使います……生まれてくるべきでなかった私に、生きるべき理由など、到底、ゆるされることではないでしょう……それでも、私は願ってしまった……この願いを叶えるまでは、私は死ねなくなってしまった……願いの果てに、この命を使い切るまで」

 たとえ、それが、償いきれない罪だとしても。

「たとえ、貴女が私を愛せずとも、貴女は私の母でした」

 貴女に愛されなくても、私は貴女を愛していた。

 母として愛していたから、子として愛されたかった。

「貴女のことを、母上と呼べて、良かった」

 母上は、私の名を、とうとう呼んでくださらなかったけれど。

「さよならです、母上」

 母の胸から、つるぎを抜く。柊哉の頬に、母の血が散る。

 くずおれる母に、柊哉の言葉は、どこまで届いていただろう。

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