第2話 平穏な日々、終了

 あの後、死に物狂いに脱出し逃げ出した希一だが、安心したのは束の間。それまで平穏だった日常モブ人生は終焉の幕を下ろした。


「東さん……たしか君の席は最前列じゃなかったかね?」

「あら、先生。細かいことは気にせずに、授業をお進め下さい」


 苦渋の表情を浮かべて問いかける生物教科担任の向田 貞一むこうだ ていいち、四十五歳。

 気にするなという方がおかしいと思いつつ、学園一のヤンデレ女子にそれ以上の追求は不可能だった。


 一方、最後尾に座る希一の隣を陣取ってご満悦の悠衣は、授業中とは思えない距離で腕を組んでいた。そう、今は授業中。一人一人が席について黒板に向かっているはずなのに。


「あ、東さん……。一応今は授業中なので、ちゃんと自分の机に着席して───」

「先生。私、少しでも希一さまのお側にいたいと所望しております。少しでも離れてしまったら、どうなってしまうか自分でも分からないです」


 チラッっと包帯が巻かれた手首を見て、脅しを仕掛けた。


 ───って、それよりも希一さま!?


 悠衣の言葉にクラス全体に戦慄が走った。昨日の今日で何が起きた!?


 学年一のヤンデレ美少女の悠衣とモブ人間の希一。同じクラスになって早三ヶ月が経とうとしていたが、二人には微塵の接点も見受けられなかった。是非ともこうなった経緯が知りたい!


 しかし今は平穏に授業を受けるのが最優先。現状維持で平和を手に入れられるのなら、やむ得ない。


「───では授業を再開しよう!」

「え、先生! 俺は? 俺はどうすればいいの!?」


 この混沌とした現状に手を挙げたのは、現在悠衣が着席している席の男子、桃山 風汰ももやま ふうただった。

 命知らずで空気を読めない彼は、無謀にも異議を訴えてしまったのだ。


「桃山……お前、体育座りをして何をしているんだ? 今は生物の授業中だぞ?」

「いやいや、皆おかしいって思っているんだろう? 本来ならここは俺の席なのに、東さんが!」


 そう口にした瞬間、真横から只ならぬ殺気を感じ、すぐに言葉を飲み込んだ。恐る恐る横目で見ると、睨みだけで呪い殺せるほどの鬼の形相が!


「ひ、ひィィ……!」


 それ以上の発言を控えた桃山を見て、皆は安心して授業を再開した。



『って、いやいやいや! 皆、おかしいから! 何でスルーなの? どうして東さんだけ特別扱いが許されてるの? 僕は? 僕の意思は!?』


 恐ろしくて見れなかったが、勇気を出してチラっと見ると、天使の笑みを浮かべた悠衣が幸せそうに微笑んでいた。


「ふふっ、希一さま。とっても幸せです」


 この笑顔が怖い!

 あぁ、この先僕の学園生活はどうなってしまうのでしょうか?


 だが不安とは裏腹に、二の腕に伝わる柔らかなふんわりした感触に口角が緩んで仕方ない。


 これぞ正に、天国と地獄の表裏一体。

 ただ言えるのは、僕の一存でどうこうなる状況ではないということだ。


 そう、前に悠衣が起こしたヤンデレ伝説の一つ……一目惚れした先輩と一緒に授業を受けられないとヒステリーを起こして、屋上を占拠して立て篭もったことがあった。いつ飛び降りるのかヒヤヒヤしながら、全生徒、全教員が見守っていた記憶はまだ新しい。


 結局は、泣きながら土下座で懇願する先輩に気持ちが冷めて、事なく終わりを迎えたのだが……。


『まぁ、所詮モブだ。きっと直ぐに飽きてくれるだろう』


 そんな軽い気持ちで楽観視していた僕に、更なる試練が待ち受けているなんて、この時は知る由もなかった。


 ちなみに余談ではあるが、生物教科担の向田先生と桃山の名前を覚える必要は無い。なぜなら彼らも僕同様、その他大勢モブだから。


▲ ▽ ▲ ▽


 生物の授業が終わり、やっと開放されたと思った矢先、悠衣の腕が更に絡まり、どこにも逃げられない状況に追い込まれてしまった。


「ふふっ、希一さま。やっとゆっくり話せますね。昨日の運命的な出会いから十時間……ずっと希一さまのことを想っておりました」

「お、重いよ、東さん」

「東なんて他人行儀な。悠衣と呼んでくださいませ?」

「いやいや、昨日初会話の他人ですから……」


 だが、希一の腕は豊満なDカップに完全捕獲されて身動きが取れずにいた。


 それよりも、よくよく考えていたら彼女は昨晩、チカンに襲われていたんだよな? 大丈夫だったのか? あまりの態度に希一はすっかり忘れていた。


 希一が通りかかった時は、既に茂みに連れ込まれていて、抵抗できないように抑え込まれた。そんな悠衣を助けようと、叫びながら突っ込んでいったのだが、もしかして腕の包帯はその時に負った傷だろうか? 心配そうに覗き込むと、彼女は頬染めして教えてくれた。


「これは希一さまに会えない寂しさから、ちょっとリストカット切ってしまいまして……」

「チカンの時に出来た傷じゃないのか!」


 って、会えない寂しさで切ったって!

 それも怖ッ!


「だって、念願の白馬の王子様に出逢えたんですもの。もう、好き好き好き好き、大好きです。希一さま、愛してます♡」

「重すぎます、悠衣さん……」


 それとその『様』で呼ぶのはやめてください。


「希一さまが悠衣って呼んでくれた……! 嬉しいです! あぁ、もう好き好き……希一さまを監禁して、一生愛でて過ごしたい♡」

「あの……お願いですから、会話をする努力を見せてください」


 そんな二人の会話に聞き耳を立てていた級友たちは、ますます理解出来ずに苦しんでいた。


 そんな誰も立ち入ることが出来ない二人だけの世界を、嫉ましく見ている女子が一人いた。


 彼女の名前は林田 哀奈はやしだ あいな。自称悠衣のライバルで、そこそこ可愛いと噂の女子生徒だ。悠衣ほどではないが、それなりにファンがいる上の下に嘱する女子だった。


「くっ……、一体アイツは何者なの? あの東悠衣がここまでベタ惚れするなんて、只者ではないわね。ってことは……私があの男をオトせば東悠衣に勝ったってことになるんじゃないかしら?」


 名案だとご満悦の哀奈だが、基本この子は残念系のドジっ子女子として知れ渡っている為、思いつくことも浅はかな上に空回ってばかりだった。


 無論、当事者である悠衣にも全く相手にされていなかった。むしろ認識すら、いや、視界にすら入っていない可哀想な状況に置かれていた。


「ふふふっ、そうと分かれば早速アプローチね! わざと彼の前でハンカチを落として拾わせてみせるわ!」


 あまりにもテンプレな作戦に、周りもツッコミを入れる気力もなくなる始末。

 そんな彼女の大きな独り言よりも、悠衣と希一の経緯いきさつに関心が集まっていた。


「あぁ、ずっと同じクラスで過ごしていたというのに、希一さまのような素敵な男性に気付かなかったなんて一生の不覚……! 出来ることなら四月から……いえ、希一さまが生まれる前から人生をやり直したい!」

「え、あの……」


「でもこれからはずっと、ずーっと希一さまの傍におりますから。私以外の女性に現抜かしたりしたら───(ニッコリ)」

「いや、ニッコリって! ちゃんと言葉にしてください! 沈黙がいちばん怖いから!」

「大丈夫ですよ。希一さまが浮気しなければ何の起きませんから。だからこれからは一生、私のことだけを見て、私の事だけを考えて下さいね」


 そう悠衣が口にした瞬間、目の前でハンカチを落とすはずだった哀奈の足が絡まって、そのままド派手に転んでしまった。


「いたたたたー! う、うぅ……こんなはずじゃなかったのに」


 そんな彼女にクラス中の男子の視線が集まった。不覚にも頭から床にダイブした哀奈のスカートは、思いっきり捲り上げられていたのだ。

 それは同情したくなるほど、バッチリと縞パンがおっぴろげになっていた。


 もちろん、健全な男子高校生希一も例外ではない。

 目の前に突如現れた縞パンに視線は釘付けで、情けない表情をさらけ出していた。


 功を奏して希一の関心を引くことに成功した哀奈だったが、この方法は悪手だったことを直ぐに思い知ることになった。


 背筋が凍りつくほどの殺気───……一瞬で涙目になった哀奈の目に映ったのは、般若の化身といっても過言ではないほど、恐ろしい殺気をまとった悠衣だった。


『誰だ、私の愛しい希一さまの前で、あざとく媚びを売る低俗な女は? 死にたくなければさっさと消えてくださいませ? 消えないなら私の手で、直に〇して差し上げますわ……?』


 そんなテレパシーを0.01秒で受け取った哀奈は、瞬時にスカートを直して立ち去ろうとした。

 ───が、ここにきてまたしても発動されたのはドジっ子スキル、ラッキースケベ。焦った彼女の足は、またしても絡まり縺れ倒れ込んでしまった。


「いたたた……、もうイヤ!」


 今度は派手に膝まで擦りむいてしまった。ツイていないにも程がある。あまりに残念な低落を見せた彼女を、誰も助けようとしなかった。


 だがそんな中、一人の男子生徒が立ち上がり手を差し伸べた。


「大丈夫? 林田さん」

「え、あ……」


 そう、誰もが呆れて見ていた中、希一だけが立ち上がって助けたのだ。


「希一さま、他の女に手を差し出すなんて……! そんなの、本命である私への裏切りです!」


 ヒステリーに怒る悠衣に、その場にいた皆が引き気味に怯えていた。しかしそんな彼女に臆することなく、希一は言い切った。


「困っている人がいるのに、見て見ぬふりなんて出来ないよ」


 腐っても主人公だった希一の気迫に、悠衣をはじめに一帯の人が虚をつかれた。


 だが、そもそも悠衣もそんな希一の優しさのおかげで、チカンから救ってもらったのだ。他の女に手を貸すなんて許し難い行為だが、これこそ自分が惹かれて惚れた希一だった。


「うぅぅー、他の女性に触れるなんていや……っ! でもそんなところも好き!」

「そんな意味のわからない感情で迫ってこないで! 怖い、怖いから悠衣さん!」

「また名前で呼んでくれた……! もう、希一さまったら、私の感情弄び過ぎ!」

「僕は何もしてないし、悠衣さんが一人で暴走してるだけだから!」


 そんなコントみたいなやり取りの横で、一人ドキマギしている哀奈は、初めて味わった感情に戸惑いを隠せずにいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る