第9話 呪縛の苦しみ

 佐々木は話をしている内に声が涙で詰まって来て、美羽がもうこれ以上は彼女から聞き出すことは出来ないだろうと思えるほどだった。

 隣を見ると、裕星ももうこれ以上は無理だというように首を横に振って合図をしている。

 佐々木の事務所を出た帰りの車の中で、裕星が、うつむいたまま何も話さないでいる美羽に声をかけた。


「美羽、結構厄介な事を引き受けたな。あのひき逃げ事故は相当奥が深そうだぞ。ただの事故だったならいいが、坂口の周りにいる人物の絡み方が複雑そうだ。

 もし、殺人事件だったとしたら、あの彼女も容疑者の一人かもしれないからな……」


 美羽は驚いて顔を上げた。

「そんな、裕くん、容疑者だなんて! 彼女は違うわよ。だって……ああ、でも、やっぱり分からない。私は同じ女性なのに彼女の気持ちが分からないわ」


「佐々木澪の気持ちが分からない?」


「うん。だって、どうして不安になっただけですぐ他の人とお付き合いできるの? そんなこと私には出来ない。彼女が悪いという訳ではないけど、でも、私なら好きな人のことは最後まで信じていたいもの」


 へえ、と裕星は美羽の言葉に鼻の下を擦りながら笑みが零れた。信号待ちで止まった車内で美羽の方を向いて言った。

「俺も美羽のことをずっと信じているよ。どんな時も疑ったりしない。だけど、俺の場合は、これからもきっと芸能紙が何かに付けて色んな偏見を持って書き立てるだろう。

 ドラマや映画をやる度に、相手役の女優と噂されるのにももう慣れたけど、美羽には本当の俺の方を信じていて欲しいんだ」


「裕くん、私はちゃんと裕くんの人となりを知っているから信じられるのよ。どんな綺麗な女優さんと一緒に居ても、私は安心してるわよ」


 その言葉に思わずまたニヤけてしまった裕星だったが、信号が変わり後ろの車にクラクションを鳴らされてやっと我に返り慌ててアクセルを踏んだ。




 美羽は教会の近くで裕星の車から降りると、帰る途中にあの交差点をまた渡らざるを得なかった。


 すると、遠目でも分かるほど背の高い美しい容姿をした青年が向こうに見えた。どう見ても坂口は生きているとしか思えない。

 美羽は足が止まってしまった。そこからもう一歩も進めなかった。このままあそこを通ったら、坂口はまた美羽を見つけて声を掛けるだろう。美羽は坂口が幽霊だと分かってから掛ける言葉が見つからなかった。


 ――どうしよう、他に道はないし。それにこの指輪も澪さんに突き返されちゃったし……。


 その時、養父の天音神父に言われた言葉が頭を過った。

 <わたしたちの仕事は、多くの方が天国へと行けるように祈ることです>


 ――そうよ、私は神父の娘よ! お父様は神に仕える者なのに、死者が神様の審判を受けて天国に行けるように祈るのが仕事なのに、娘の私が迷える死者から逃げるなんてあってはいけない事だわ!


 美羽は心の中で自分の意気地なさをいましめた。そして、いつも胸に付けている十字架をギュッと握りしめると、意を決して自ら坂口の方へと歩き出したのだった。



「坂口さん」

 美羽が、交通量の多い道路を呆然と眺めている青年に声を掛けた。

 坂口と呼ばれ、ヤリガサキが振り向いた。

「あれ、美羽さん。こんにちは」

 笑顔を返す姿はまるで生きている人間と全く変わりなく見える。


 色白だが若い男性らしく少し吹き出物のある肌や、青いセーターの毛糸の毛羽立ちすら触れれば実態があるようだった。美羽はそっと手を伸ばして、坂口の腕に触れようとした。


「どうかしたんですか?」

 坂口に訊かれてハッとして手を引っ込めたが、こんなに近くで見ても、坂口の潤んだ瞳や高い鼻、めくり上げたセーターの袖から見えた腕の隆起した血管も実際にはないものだとは思えないほどリアルだった。


 美羽はじっと坂口の目を見ながら大きく深呼吸をしてから口を開いた。

「あなたはヤリガサキさんではなくて、坂口さんと言うのですね」



「さかぐち? それが僕の名前なんですか?」


「はい、そして、あなたは俳優さんでした。――それから、この近くにあなたのマンション兼事務所があるんです。そして……」


 澄んだ目で驚いたようにじっと美羽を見ていた坂口が慌てて美羽を制止した。


「ちょ、ちょっと待ってください! いきなりそんなにたくさんの情報を言われても混乱してしまいます。一体どうしてそんなに僕のことがたくさん分かったんですか?」



「この指輪です」

 そう言って美羽は坂口から預かっていた指輪をバッグから出した。


「指輪、誰への贈り物か分かったんですか?」



「はい――でも、もっとたくさんのことが分かってしまいました」


「――やはり僕はフラれていたんですね?」

 坂口は悲しそうな目で美羽を見た。


「いいえ、フラれた訳ではないと思います。ただ誤解があったというか……」咄嗟に美羽は嘘を言った。


 坂口の恋人だった佐々木澪は、もうすでに坂口の親友、柳田の恋人になっている。しかし、そんなことまで言えるはずがなかった。





「――そうですか。誤解で僕はフラれたのか――」

 何を言っても、自分はフラれていると思っているようだった。




「大丈夫ですよ! きっと誤解は解けます。だから、坂口さん、私に付いて来てくださいませんか? 一緒に教会の礼拝堂で祈りませんか?」


 美羽は既に亡くなっているはずの坂口がいつまでもこの場所で彷徨さまよっていることが可哀そうに思えた。本当は結婚を申し込むはずだった恋人には裏切られ、死んでも尚未練を残して成仏できず、このひき逃げされたこの場所で呪縛霊じゅばくれいとなってしまったのだろうと。


「一緒に? 礼拝堂で何を祈るのですか?」


「魂が浄化されるように、そしてちゃんと行くべきところへ行けるようにと」

 美羽は坂口の純粋な目を見て言った。



「そうですね。僕は結構心がけがれてしまってますからね。家族や恋人の記憶すらないのはそのせいでしょうか? 早く彼女の元に行きたいです」


 ――そうではないのよ。あなたはもう亡くなっているのよ。


 しかし美羽は言葉を飲み込んだ。坂口が少しでも早く成仏できるように祈りを捧げたかった。



 すると、一緒に教会へ行く道の途中で、目の前のビルの上の大きなスクリーンに映像が流れてきた。


「あなたは愛する人を守れるか? 友情のため愛する人を犠牲にするのか? 男の友情と愛の葛藤の物語、『TRUE LOVE』5月31日公開」


 映画の予告ハイライトが映し出されている。しかし、何気なく観ていたそのスクリーンの前で坂口は足を留めた。


「あれは――俺が出るはずの映画だ」


「――え?」

 美羽は慌ててスクリーンに目をやった。


 すると主人公の男が愛する恋人のために身をていして誰かと戦っている映像が流れていた。

 そして、大写しになるとその主人公の俳優の顔がハッキリと映し出された。


「涼……」

 坂口の口から柳田やなだの名前が出た。



「坂口さん、何か思い出したんですか?」


 しかし坂口は何も言わず黙ってスクリーンを睨みつけている。

 すると今度はヒロインの女優が映された。殴られて倒れた柳田に迫ってくる男から守ろうとして、立ちはだかっている勇敢な女性を演じているのは――「佐々木さん?」今度は美羽が声を上げた。


「澪――」

 坂口はそうつぶやくと、頭をブルルと振っていきなり走り去ったのだった。


「坂口さん、どこに行くんですか?」


 黙ったまま去ろうとしている坂口を追って美羽も走った。どこに行くのかも分からなかったが、坂口は確かあの場所に呪縛されて動けないはずでは?

 美羽がそう思った途端、坂口の姿がスっと一瞬で消えたのだった。

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