第5話 記憶の光を辿れ

 裕星の心配は当然のことだった。見ず知らずの名前も知らない男に親切にしている美羽に、もし万が一何か良からぬことでも起きたらと考えたのだ。



「分かってるわ。大丈夫よ。親切と言っても、その人の身元が分かるお手伝いしているだけだから。それにここの寮は女子寮だし男性は入れないわ」


 <だけど、そいつ、教会の事務室までやってきたわけだろ? そこが怪しいんだよ! 道で会っただけの女性の居場所をわざわざ調べてやって来るか?

ストーカーかもしれないぞ >


「……でも、そんな悪い人には見えないよ」


 <──分かった。俺がそっちに行くよ!>


「――裕くん? だって今とっても忙しい時期なんじゃ……」


 <忙しくても、大事なことを無視していいってわけじゃないよ! 俺だってどうにかすれば時間くらい作れる。ここのところ美羽と逢えなかったからちょうどいいや。一緒にそいつの身元を調べよう!>


 裕星は少し興奮気味に電話の向こうで叫んでいる。


「裕くん……それじゃ、お言葉に甘えて……。一緒に調べてくれるなら私も助かるわ。で、私はどうしたらいいかな?」

 美羽は裕星の言葉を待った。裕星は美羽にこれからすぐ自分がそちらに向かうことを告げると電話を切った。




 裕星は10分と掛からずにベンツを飛ばして美羽の寮の前に付けた。


 美羽が窓から顔を出して裕星の車を確認すると、急いで階下に降りて行った。今日は美羽も午後のボランティアの仕事がなく、突然のハプニングのお陰で会うことが出来たので、裕星は久しぶりの天使の笑顔を見てついつい頬がほころんだ。


「裕くん?」

 名前を呼ばれて我に返った。

「と、ところで、そいつの写真か何かはないのか?」と冷静を装って訊いた。


「ないの。あ、でもたぶん近くの教会に行くと言ってたから、今もうそこにいるかも」


 二人が美羽の案内で隣町の教会を訪ねると、豊田神父が早速外まで出てきてくれた。

「先日は本当にすみませんでした。あの……もしかして、お話した方は訪ねて来ていませんか?」美羽が訊ねると、「いいえ、今日もまだ来ていませんよ」と豊田神父は不思議そうな顔をした。


「まだ……なんですか?」


「まだ、って?」

 裕星が美羽に訊いた。


「ここに案内して、ご本人もいらっしゃると仰ったのに、まだ来てないなんて……。一体毎日どこで過ごしているのか心配だわ」と美羽が首を捻った。


「益々変な奴だな。そいつ本当に大丈夫な奴なのか?」

 裕星も眉をしかめた。


 すると豊田神父が「その方はなぜいつも天音さんのところにだけいらっしゃるのでしょうか? 何か心当たりはありますか?」


「いいえ、私は何も……知り合いの方でもないですし」


「美羽、今度そいつに会ったらすぐ俺に連絡をくれ。神父様もそいつがここに来たら、ここに連絡してください。どうもその男、胡散臭うさんくさいな」

 裕星が神父に名刺を渡して少しいきどおったように言った。



「分かりました。そうですね、天音さんもくれぐれもお気をつけて下さいね。親切にしてあげることはとてもいいことですが、それが度を過ぎてしまうと、とうとう自分を無くしてしまいかねません。現にあなたは彼を心配してこうして心を乱していらっしゃいますから」


「そうだよ、美羽。今度そいつに会ったら、このケータイでそっと俺を呼び出したままにしておくんだ。俺が電話で二人のやり取りを聞いているから。

 それで、もしそいつが美羽に対しておかしな真似をしたら、俺がすぐ駆けつけるからね」


「――わかったわ」

 美羽は、悪い人には到底見えなかったあの青年のことを周りがこれほど警戒するのが分からなかったが、ずっとりつかれたようにあの青年の心配をしている自分には冷静な周りの人間が必要だと感じたのだった。





 裕星はその日の夜、またレコーディングのため事務所に戻る事になっていた。後ろ髪を引かれる思いで教会の少し手前で美羽を降ろした。美羽が寮へ戻ろうと足早に歩いていると、またあの場所を通りかかった。交差点から少し離れた場所だった。すでに何台かの車が道路端の駐車スペースに停まっており、道を行き交う仕事帰りの人々で歩道は一杯だった。

 今日はあの青年の姿はないな、とホッとして前を振り向いた美羽の目の前にその青年はいた。


「キャッ!」

 美羽は不意を突かれて驚いて声を上げた。


「すみません。また驚かせてしまいました……」


 美羽はこのつかみどころのない青年に徐々に恐怖すら感じていた。


「あの、実は、少しだけ思い出したことがあって……。それで、あなたがここを通るのを待っていたのです」


「思い出したこと?」

 美羽は人々がせわしなく行き交う歩道の端で、突然の事で裕星との約束、ケータイを繋げておくことも忘れ、立ったまま青年と話し始めた。



「はい。実は僕、何だかこの近くに住んでいた気がするんですよ」


「ここの近くですか? どうしてそれが分かったんですか?」


「それは……どうしてもここに来てしまうからです」


「はぁ……それだけですか? でももう今日で一週間ですよ。ご家族からの捜索願が出されているかもしれませんから、それなら警察で訊かれた方が……」

 美羽はこの青年のおかしな行動が飲み込めずにいた。


「僕もそう思います。でも、どうしても行けないんです」


「交番に行けない事情でもあるんですか?」

 美羽は思い切って訊いてみたが、訊いてしまったことをすぐ後悔していた。以前青年が言ったように、もし本当に記憶喪失の凶悪犯だったり逃亡犯だったらどうしようという不安がぎったのだ。



「交番だけでなく、ここから離れると記憶を失う気がして……どうしてか僕はここで誰かを待たないといけない気がしてるんです」


「誰かを待っているんですか? それならきっとその指輪の人かもしれませんね。でも、今までここにいてもまだその方に会えなかったんですよね?」


 二人が歩道の真ん中で真剣に話しているのを不審に思ったのか、行き交う人々が怪訝けげんそうに美羽の顔をジロジロ見ながら通り過ぎていく。


「やだ、ここに居たら私たち二人とも不審者みたいに思われますね。向こうのカフェでお話しませんか?」

 美羽が近くの店を指さした。


 カフェに入ると、店員は窓側の席に二人を案内してくれた。

 そして、一人分の水を美羽の前に差し出して、そのまま去って行こうとするので、美羽が慌てて声をかけた。


「あの、すみません。もう一人分お願いします」とテーブルの向かい側の席を手で示した。


 すると店員は一瞬不思議そうな顔をしたが、「あ、お連れ様がいらっしゃるんですか?」と笑顔でもう一つ水を置いたのだった。


 狐につままれたような気持ちに陥ったのは美羽の方だった。――あの店員さんはぼんやりしてて、彼に気付かなかったのかしら?

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