第5話 全てが終わった話

『ここはねー…』

『っ!』


[暗くなったな…]


『灯が…』


〈…………………〉


〔そうね、死んだわ…〕


[原因は、多分あれだ

 灯が見えなかった

 最後のミサイル…]


『あー…、そうか…

 すっかり忘れてた…』


〔そうは言っても、

 伝える手段なんて

 ないのだけどね…〕


『え?どうゆう事?って…

 あー、そうか

 ここが何処かが分からなかったら

 取り乱すのも訳ないね…』


ーパチンーー


『でも、心配ないよ…

 ほら?明るくなってきた』


[……今度は……誰だ?

 赤子か、少年少女か、老人か

 はたまた男か女か…]


〔幸か不幸か、説明が、

 少しだけ省けたわね…〕


『そうだね…、さっきの音もそうだし

 何より、しおりんの言葉が核心だったね

 ん?そうだよ

 そのまさか、だよ…』


『ここはー…』




灯は再び

ゆっくりと瞼を開ける


数度の瞬きの度

徐々に視界がクリアになってゆく


取り戻した視界の凡そ半分に

床が映っている事


「……え?」


何事か分からず

暫しの困惑


自らが置かれた状況を理解するまで

数秒を要した


気付けば、私は

浴室から出たすぐの場所、脱衣所

そこの床に倒れ伏していたらしい


力の入らない身体を

無理に起こそうとした


次の瞬間、


忘れていた呼吸の結果からか

はたまた、他の要因からか


止められない咳

その直後には

抗えぬ猛烈な吐き気に襲われ

堪らず、その場で

盛大に嘔吐してしまう


食道を物凄い勢いで胃液が逆流し

激痛を伴う程の

横隔膜の収縮の繰り返しから

あり得ない量を吐き戻す


耐えられない


込み上げる胃液

何とも言えない苦味が

口一杯に広がり、不快感が堪らない


そうして、

どれだけ時間が過ぎたか


漸く落ち着く事が出来て

疲れ果てた私は、一人

浴室の扉を正面に

少しだけ傾いた洗濯機に

身体を預けて、乱れた息を整える


トワを浴室に残して

正解だったな

と、それだけを

ぼんやりした頭で考えながら



彼には、私が戻るまで

何があっても隠れている事を厳命した


私以外の

誰が呼んでも、

誰が現れても、ね



それが今回、

奇跡的ではあるが

ある意味では功を奏した



もしも、彼がこの場にいたなら

間違いなく死なせてしまっていたからー…



反射で溢れた涙で

滲んだ視界の先

床と私の制服を汚した吐瀉物の匂いに

もう一度、えづきそうになりながら


そんな中で、

床に他の吐瀉物とは

明らかに違う


コールタールのような、

真っ黒い色をした塊に

目に止まる


そして、それが何であるか、

私は正確に理解していた



これは、紛れもなく

【一人の命】である



私の代わりに死んだ

誰かの【命】



つまりー…

私は、たった今

この場で一度



【死んだ】



これは比喩の表現などではない

言葉通りの意味

私は



【死んだのだ】



「ごめんなさい…」



思わず口から溢れた

誰に向けられたか謝罪の言葉


“また、守れなかった”


目の前の床に堕ちた

真っ黒い塊は

それが元は誰なのか

判別することはおろか


それどころか

最早、男か女か

赤子か老人か、或いは青年か少女か


全くもって

見当もつかない


ただ、

何か言いたげで


しかし、当然

何かの言葉を発する筈もなく

間も無く砂のように崩れ

あるはずのない風に吹かれるように


跡形もなく消えていった


灯の頬を

一筋の涙が伝う



先程の身体的苦しみから出た涙とは

全く違う



心の痛みを伴う


そんな涙



いっその事

口汚く罵倒された方が

幾分かマシに思えてならない



「…っ」



灯は涙を乱暴に拭う


今は感傷的になっている場合ではないのだ



私の代わりに死んでくれた

誰かのため

その尊い犠牲を無駄にしないためにも


私には

立ち止まっていい時間など

一秒としてない



私は再び瞳を閉じて

意識を思考へと落とし込む



そして、

まず考えるべきは


自分が死んだ原因だ


そこがはっきりしなければ

動くにも迂闊に動けない


ただ、深く思考すれば

つまり身の回りの状況から辿れば

おおよその原因は絞られる


まず一つ、前提条件として


自然死

だが


これは、絶対に

あり得ない


私は内的要因

つまり、病死や寿命といった概念


私は、そんな物からは

一番遠い場所にいる



そうなれば考えられるのは

一つ


外的要因である


落下物などの事故

或いは、撃たれるや刺される等の

殺人的な物だ



私は、辺りを見回す

一見して血の付いた物はない


何かが当たっていれば

そして、それが命を奪うような物なら

すぐに見つけられる上、

自らの血が付着したままになっているはずだ


しかし、そんな物も

それどころか血液の一滴すら

私が今いる脱衣所には

見当たらなかった



だとすればー



私は姿勢を低くしたまま

すぐ側にあったタオルを手に取り

口と鼻を覆う


ガスの類い

それも、致死性の極めて高い物

その可能性が否定できなかったからだ


しかし、

自らが倒れていた場所を考えれば

浴室を出てから、ほんの数秒で

死に至った事となる


勿論、

ガスマスクなんて物は手元にはなく

今、私が手にした

市販の、どこにでもあるような

タオルなどでは完全に防ぐ事は出来ず

それどころか、気休めにすらならない


ならば、どうするか


ガスマスク、防護服

このどちらも、

私には必ずしもで必要がないが

少なくともトワには絶対に必要である


浴室は湯気を脱衣所に漏らさない

つまり、構造上

ある程度の気密は保たれる


最悪、私が浴室を出た時

多少のガスが入ったかもしれないが

ごく微量のはず、

希釈率からして、極めて薄くなる


死ぬ事は、

多分ない


……そう、信じたい



こうなるなら、

学校での理科の授業

それと、あの場所での科学の講義を

もう少し真面目に受けとくべきだった…


そんな事をぼんやりと考えながら

ともあれ、

「急がないと、だね」


灯はゆっくりと、

動き出す



とは言っても

通常、ガスマスクや防護服など

ただの一般人が

易々と手に入れられるはずもない


そう、“平時なら”



灯は溜め息を一つ

それから体勢を低くとり、

ゆっくりと

だが、明確な目的を持ち

脱衣場を後にした


目の前の廊下は相変わらず暗い


そして、

ガスか爆煙か埃か分からない霞が

充満し、ただでさえ悪い視界を

余計に狭める


灯はどれにしても

出来るだけ吸わないよう努めながら

廊下を玄関へ向かい這うように進む


玄関へ向かう途中

脇にあった自分の部屋の扉を開ける

先程、脱衣場から廊下へ出た時

脱衣場の扉を確実に閉めたのとは

対照的に、である


私室の扉を開けた瞬間、

冷たい風が一気に吹き込み

一瞬怯む


何事かと自室の中に視線を向け

私は思わず言葉を失った


そこにあった筈の

まだ比較的綺麗だった部屋


自分の好きだったキャラクターの

ぬいぐるみの数々

壁紙に貼ったポスター、

ベッド、カーテン


かろうじて形が残っている物もあるが

部屋の凡そ三分の一、窓の辺りを中心にして

床や壁ごと、ごっそりと崩落していたのだ


その無惨な光景に

私の心は、怒りなどを

遥かに通り越して

逆に呆れにも似た感情が支配する


仕方のない事だという事は

既に理解はしている



理解はしているが

なんともやるせないものだ


命があるだけマシだ

という言葉はある



現に、先程、

私はトワだけを連れて

つまり、私室の何も持ち出さずに

トワの命が助かる可能性の行動を選んだ



仕方のない事だ…



わかってる…



わかってはいる……



けれどー……




『………………』


〔…………〕


[…許せねぇ……]


『あんなの…

 あんまり…、だよね…』


〔そう、ね…

 でも、偶然、ではあるわよ…

 詩織も、その事は

 わかっているでしょう?〕


[………あぁ……]


〔そう、あれはクラスター弾

 どこに着弾するか、撃った本人ですら

 分からない…〕


[……わかっては、いるさ…

 だけど……]


〔それに、本当に大事なのは

 ここからよ…?〕


[あぁ…そう、だな…]


〔足音…、先発隊が二、いや三人

 場所は…まだ遠い

 恐らくは町の入口辺り…

 あとは…サイレントヘリが二機

 後に続いて十数人…〕


[町の入口…

 所属と編成

 装備は?]


〔まだ分からないわ…

 けれど…、時間からして

 まだガスが少し残量している中でも

 動ける事を考えると…〕


『味方…、じゃないよね…』


[はぁ…そんな訳ねぇだろ…

 甘い事言ってんなよな…]


『あー…、ははは…

 言ってみただけだよー』


〔もしもの時は

 詩織、行ける?〕


[…あぁ…、わかってるさ…]


〔……ごめんなさいね……

 灯を…、お願い…〕


『……………………』

〈……………………〉


『しおりん!』

[あ?]


『気を、つけてね…

 無理はしないで…』


[…わかってる……]




それから私は

呼吸の急激な閉塞感に襲われ

呼吸困難に陥っては意識を失い

暫くして意識を取り戻して

黒い塊を嘔吐する


そのサイクルを数度か繰り返した


やはり、市販のタオルなどでは

辺りに撒かれた何らかのガスに対しては

気休めを通り越して、

無意味だったらしい


つまりは、私は

あれから追加で数度

死んだ事になる


必要な死


そう割り切れれば

幾分か気も楽になるが


実際何度味わっても

罪悪感は消えない


「ごめんなさい…」


誰にー…、いや、

誰等らか向けてか

そんな言葉が絶え絶えの呼吸ながら

私の口をつく



そんな時だったー…


私の耳に

微かな音が届く


それは恐らくは、

いや、

聞き違える事のない警鐘


それはエレベーターの

到着音だった



続いて、

一つ一つは重たいが

しっかりとした足音

人数にして、恐らく三人


「来た、ね…」


私は壁を背にして

だらりと座る


ぱっと見たら

いかにも弱っている女の子を装う


まぁ、“装う”って言うより

実際そうではあるんだけど…


そう思えば

少し笑ってしまいそうになる

だけど、ここは

笑いを堪えて、ちゃんとしないと…ね



足音の一団はまず

エレベーターを降りて

一番手前の部屋、

つまりはここから二つ向こうの部屋に入る


そこは、以前は

妊婦さんがいた、新婚夫婦の部屋

気が早いのか、まだ六ヶ月だというのに

早々とベビー用品を揃え、

赤ちゃんの誕生を心待にしていた


まさに幸せの絶頂の最中にあった


そんな夫婦の部屋


「結局、赤ちゃん

 産まれてこられなかった

 けどね…」


三人の足音は

そんな室内を素早く探索し終えて

外廊下へと出て来た


そして、続いて

足音はフロアの真ん中

つまりは、隣の部屋へと入る


そこは、以前

私と同じくらいの男の子

それに、その子の両親と祖父母が暮らす

所謂、二世帯同居とでも言えばいいのか

そんな家族が住んでいた


同居、と聞けば

何かと問題がありそうなものだし

それ以前に、このマンションの間取りだと

少し手狭な気がしないでもないけど

家族全員が仲がいいのか

そこまで問題があるようには見えなかった


むしろー…


「皆、とっても幸せそうだったな…」


確か、

隣は物が多く残ってたから

探索には、少し手間取るかな…



その私の予想通り


一団の隣の部屋探索は

それなりに時間を要した



さて、次は

ここである



一団の足音は、確実に

ここを目指して近付いてくる


私は髪で顔を隠すように垂れさせ

腕はだらりと床に投げ出し

けれど、タオルだけは強く握り

息を荒く、出来るだけ苦しく見えるよう

けれど、

わざとらしくならないような

絶妙な加減の息遣いで




“装う”




貴方なら、

そんな姿の女の子を見かけたら


一体、どうする?



良心から

助ける?


欲望剥き出しで

襲う?


それとも、


いっそのこと

これ以上、苦しませないように

殺す?





次の瞬間、足音が近づき


玄関のドアは


ゆっくりと開いた



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