夜23時頃
だっちゃん
夜23時頃
夜23時頃、Facebookを見ると綾子から連絡が来ていた。
「家に行っていい?」という。もう最寄りの駅まで来ている、と。
綾子とはFacebook上では友だちになってない。ただ申請していなかっただけのことで、大した理由はない。歳は7つも下だけど数年来の友人で、もう1年以上会っていなかった。最期に会った日は映画の感想で言い争いになって、それ以来だ。何であんなに言い争いになったのか、もう思い出すことはできない。それからLINEを送っても既読がつかなくなった。多分ブロックされたんだろうし、もう連絡することもないだろう、と思い私もラインを消した。
考えてみれば、もはや友人と呼んで良いのかも微妙なのだった。そんな綾子から連絡が来たことに尋常でないことを察し、駅まで走った。
駅に辿り着くと腹を抑えた綾子がいて、その手には血が付いていた。腹部に怪我をしている様子だった。
「ごめん、泊まらせて。。」
綾子を肩で支えて家まで連れて行った。紆余曲折あり金欠の私には、タクシーに乗る余裕はない。
「悪いね、カネがないんだわ。。」
と言うと、
「ほんと最悪。。」
と言って笑っていた。 私の部屋に何とか辿り着き、簡単な手当をした。幸い傷は深くなかった。
綾子は元々どうしようもない家庭で虐待されて育った。精神的に安定せず、一度高校を中退している。定時制に入り直し、認定試験を受けて短大に進んだ。しかし経済的に厳しく、結局中退することになった。 働こうと思ったけれど就職先が見付からず、知り合いの紹介で何とかある編集部の仕事にありついた。
しかしそこは当然のようにブラックで、残業代も出なければボーナスが出ることもなく、パワハラもセクハラも受けていた。 給料は月12万円、生活保護にも満たない。東京で一人の人間が自立して暮らしていくには到底足りない金額だ。
しかし時間の融通だけは利く仕事だった。精神が安定せず通常の出勤に不安のあった綾子は、どうしても辞められなかった。
以前、彼女が私の部屋に遊びに来たとき、その辺に放り投げていた給与明細を拾い上げた。彼女はそれをみて、卒倒して吐き気を催していた。余りの格差に愕然とした、と彼女は言った。しかしそのリアクションも恐らく健常なものとは思えなかった。
「生活保護、受けたほうがいいよ。。」
と言うと、
「立派な生き方をしてきた人には分からないです。社会のお荷物にならないから生きていけるんですよ。。」
と彼女は答えた。
彼女は奨学金債務も抱えていた。月の返済は2万7千円。返済が苦しく、通信制の大学に入学した。学生の身分があれば、その間返済が猶予されるからだ。年間の学費は5万程。奨学金の返済よりは遥かに軽い。しかし通信制の大学の卒業要件は相応に厳しいもので、在学が許される期間中に卒業できる見込みも、現状を脱する目途もありはしない。 自立できず閉塞する人生に、彼女の中で希死念慮が日に日に大きくなるのを感じていた。
彼女の妹は知的障害の1級で、それを介護する親も病んでいる。親からは月5万の家賃を取られている。収入の少ない彼女には厳しい支出だ。そしてこの日、「もう5万円なんて払えない。。」 と彼女が母親に告げると、「なら出て行けばいい。。」と物を投げつけられた。咄嗟にその場にあった包丁を掴むと、自分の腹に突き立てた。 しかし余りにも痛くて、深く刺さすことはできなかった。勢いそのまま財布を掴むと、混乱する頭で咄嗟に私の家に向かった。
「私ね、AV出ちゃったの。。」
ソファで寝ている私に、綾子が告げた。
「そうか。。」
と口にするのが精一杯だった。
「私、何で生きてるんですか?。」
と問われ、
「私も訊きたいくらいだよ。」
と答えた。
「私のこと、殺してくれますか?。」
と問われて、
「気が乗ったらね。」
と返した。どう応えるのが正解だったのか、私には今も判らない。翌朝、
「好きなだけうちに居ていいから。。」
と告げてから出勤した。けれどその日、部屋に帰ると彼女の姿はなく、Facebookのページも消えていた。
*
以来、綾子とは音信不通になっていた。
数か月ぶりに連絡が来たのは昨年の末頃で、私は家から外へ出ることさえ容易なことではなくなっていた。
もうここまででいい。ここから先の未来を見たいと思わない。
ずっと抱いていた希死念慮を実行に移すには、良い頃合いだと思っていた。
そんな折、綾子から電話がかかって来た。
「急にいなくなってごめんね。」
「別に気にしてない。元気そうでよかった。」
「元気じゃないよ。」
「私も、もう良いと思ってる。もう死にたいんだ。何か、私の持ち物で欲しい物ない?あげるよ。」
「要らない。私も死にたい。死にたくなったから、あなたの顔が浮かんじゃった。」
「死ぬ?一緒に。先に死んでていいよ。見ておくから。」
電話越しに綾子が生唾を飲み込む音が聞こえて、一息おいて彼女は言った。
「死のっか、もう、一緒に。」
*
余程人生を捨ててるように見えるようで、「殺して欲しい。」と頼まれたことは一度や二度ではない。
大体女だけど、中には男もいた。こちらから「そんなに死にたいなら、どうですか?。」と提案したこともある。
大抵、具体的な話をすると相手が話をそらして終わる。それを日和ったなんて言うつもりはないし、希死念慮の告白に対して「その気もないのにそんなこと言わないでくれ。」なんて言うつもりも勿論ない。
どんな苦悩だって、当人にとっては今まさに確かにそこにあるものだ。
人生に絶望した人間にとって、「いつでも死ねる。」ということがどれだけ救いとなるのか知っている。
次の電柱まで辿り着くのに、そういう言葉が必要な日もある。
ただ正直なところ、自分自身の「殺してあげる。」という言葉が冗談なのか本気なのか、見当をつけられずにいた。ただそういう、誰かの望みを叶え予後の面倒を嫌って自分も死ぬという結末は、想定されるものの中ではまあ、マシな方だと思った。
年末に死のうと思っていたとき、綾子から連絡が来たのは渡りに船だった。本当は、私も一人は心細かった。
ネットで知り合った人から車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂。」という小説を教えて貰った。まるで自分かと見まごう精神性の主人公が、ドヤで知り合った女と死のうとするにいたるまでの日々を描いた話だった。
女の名前が綾子と同じであることにも、運命的なものを感じた。
この世界に独自のものなんて残ってない。同じような精神性を獲得した男女が出会えば、自然の成り行きとしてこうなるのだろうと思った。
*
昼頃、当時住んでいた部屋に綾子が滑車のついた大きめのカバンをひきずりやって来た。
練炭だった。
貧乏な彼女にとって、練炭や七輪を揃えるのは大変な出費だったはずだ。それを言うと、
「昔、一人でやろうと思って買ってたんだ。そのときは勇気がなくて、でも、とっておいて良かったな。」
はにかんで、照れたように笑う彼女の顔を見て力が抜けた。
この少女と言って良いほど若い女が、死を願うまでに至った道のりを思う。
さぞ長かっただろう。私なんかより、ずっと。
狭い部屋に二人でこもり、練炭を焚いた隣で愛し合った。暖房はつけなかったけれど、擦りガラスから差し込む陽光と練炭と、綾子の体温で頭がおかしくなるように暑かった。
途中から綾子は睡眠薬が効いたのか、眠ってしまった。綾子の髪を撫でて整えている内に、私の意識も遠くなっていった。
ああついにこの日に辿りついたのだ。そういう感慨というか、満足感に包まれて、暗闇の中に吸い込まれていった。
*
次に起きたときには日が落ちていて、練炭は殆ど消し炭となってしまった。
頭が痛い。身体が重い。
死に損なってしまったのだ。しばらく虚ろに天井を見上げていた。
部屋から出て、水とバファリンを飲んで一息ついた。頭痛で吐き気がする。
その場で床に倒れ込み、目だけ瞑った。
でも、色んな練炭自殺を失敗した話で聞くような「体験したことのない痛み。」というほどでもないな、と思った。
土台、計画倒れだったのだ。
どれだけ経ったかわからないが、綾子が起き出してきたので頭痛薬と水を渡した。
再び床に転がると、隣に綾子が寝て顔を寄せた。
何も話さなかった。
「もう行くね。」
しばらくして、綾子は荷物をまとめて出て行った。翌日、練炭を近所の茂みに棄てた。
*
その後、私は一人で死ぬこともできなかった。
そうこうして休んでいた会社に再び出社することが決まり、暗い気持ちになった。
綾子とは沿線が同じなので、つい最近電車で見かけて話しかけた。
途中の駅で降り、コーヒーを奢った。「まだ死にたい?。」と訊くと、「まだいい。」、と応えた。
「それはよかった。」
と言うと、綾子は申し訳なさそうな顔をした。
「彼氏が、できたから。」
「いいね。いいことじゃん。」
心の中でうまく返せた自分を褒めた。少しほっとした顔をして綾子は言った。
「あとね、お金貸して欲しいんだ。」
そのとき、手元に20万円もっていた。
「いいよ、当面使う予定ないからこれ持ってきな。こんだけあればじゅうぶんだろ。」
封筒のまま渡した。そこから2時間くらいかけて、家まで歩いた。
夜23時頃 だっちゃん @datchang
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