21 雪の夜
胸の奥がツキン、と痛んだ。先ほど先生は家庭環境が良くなかったと言っていた。それがどの程度かなんて、僕にはわからない。けれど、崇浩さんと交わしていたようなたわいもない会話すらない家庭だったのだろう。先生はそんな家庭で幼少期を過ごしていたのだと想像することくらいはできる。
そうだとしたら、崇浩さんがそばにいてくれる生活は、先生にとってどれだけ大切なものだったんだろう。そんなことを考えていると、スニーカーにコツンと石が当たった。道が土と砂利混じりの山道になってきた。先生はときおりすこしバランスを崩しながら歩き続ける。
そこから先生は口をつぐんでいた。先生の目は夏の太陽の光を反射せず、地面ばかりをとらえている。なぜ彼女が黙っているのか、さすがの僕でもわかった。先生と、まだ生きている頃の崇浩さんとの生活。僕はその生活がどうやって終わってしまったのか、少なくとも結果は知っている。
「先生、」
尋ねるのもためらわれたけど、僕は先生自身の口から聞かなければ。だって、僕は今夜、崇浩さんの骨を盗まなければならないのだから。先生に殺してもらうために、罪を犯すのだから。先生のそばに、居続けたいのだから。
「崇浩さんは、どうして亡くなったんですか」
先生はついに歩みを止めた。いつも僕の顔を見て話をしてくれた先生が、いっこうに僕のほうを向かない。僕は先生の横に立って、彼女が話しはじめるのを待ち続けた。先生にとっては思い出したくもない過去だろう。それに、昨日の昼間の墓地で、崇浩さんの母親が叫んでいた言葉がずっと気になっていた。 『あんたのせいで、崇浩さんは死んだんや』と、あの婦人は先生に対して怒りをあらわにしていた。崇浩さんは、本当に先生のせいで死んだのか? 先生の口から聞かねばならない。
先生は、ゆっくりと口を開く。
「交通事故です。私の、せいだったんです」
先生の唇は震えていた。夏なのに、厳しく吹雪く夜のなかにいるような青い顔色をしていた。
「交通事故って……」
「めずらしく雪が降った日の夜でした。私たちは仕事終わりに食事に行こうと外で待ち合わせしてたんです」
先生の声はかぼそく、拳はぎゅっと握りしめられていて白くなっている。先生はいま、その日の夜を彷徨っている。僕はそばで見守ることしかできない。
「私の仕事が長引いてしまって、待ち合わせに遅れてしまったんです。彼は先に待ち合わせ場所に着いていました。『先に店に行っておいて』と連絡しましたが、彼は『待ってるよ』と返事をくれました」
先生の言葉はたまに詰まった。蝉の鳴き声がシャワシャワとこだましている。こめかみから顎に伝う汗もそのままに、肌を陽光に焼かれながら、僕はただしずかに次の言葉を待つ。
「私は仕事を終えて走りました。雪が降るなか、パンプスで滑りそうになりながら。その途中、救急車のサイレンが聞こえました」
暑いはずなのに、背筋が凍りついたように冷たくなった。先生も同じなのか、先生は腕を組んで肩をすくめる。
「サイレンなんて、そのときはなんとも思っていませんでした。でも彼との待ち合わせ場所に近づくにつれ、不安が大きくなっていきました。人が増えて、救急車のサイレンの音がもっと大きく聞こえるようになったからです。やっと待ち合わせ場所の近くまでたどり着くと、そこには救急車が停まっていました。人混みでなかなか近づけずにいたのですが、人混みの隙間から地面に落ちているマフラーが見えました。そのマフラーは私が彼にプレゼントしたもので、血まみれでした」
先生の表情は前髪で隠れて見えなかった。悲しんでいるのだろうか。悔しんでいるのだろうか。ただ不規則に吐かれる熱のこもった吐息と、丸まった肩が震えているのを見ているしかなかった。肩の骨が浮き出て、先生のTシャツは歪にゆがんでいる。
「救急車のなかで私は彼に声をかけ続けました。彼の手が氷のように冷たかったことを覚えています。彼が病院で亡くなったあと、雪で滑った車が、待ち合わせ場所に立っていた彼に突っこんだのだと聞きました。翌日、この島からお母様がやっと到着されてベッドにすがりついてひとしきり泣かれたあと、頬を打たれて言われました。『あなたのせいで崇浩は死んだのだ』、と」
はあ、はあ、と、先生の息があがっていき、彼女は勢いよく顔を上げた。その両目から、大粒の涙がぼろぼろとあふれた。まるで泉が湧きあがるようにあふれては、頬を伝っていった。僕はその涙で溺れてしまったんじゃないかと思うほど、息が苦しくなった。心臓が締めつけられるようだった。先生は眉をひそめて笑い出す。空っぽの笑いだった。
「本当にそうだと思いました。私があの日、待ち合わせの時間に間に合っていれば、彼に車が突っこんでくることもなかった。彼といっしょにレストランで食事をして、寒いねなんて言いながら、いっしょに家に帰れたはずなのに。私のせいで、私のせいで彼は――」
僕はとっさに、先生に手を伸ばして先生を抱き締めた。先生の華奢なからだは僕の両腕にすっぽりとおさまる。先生のからだは熱く、湿っぽかった。もうそれ以上、先生が先生自身を傷つけるは必要ないと思ったら、無意識にからだが動いていた。そうでもしなければ、先生が消えてしまいそうだった。
先生は拒否することなく、ただ肩を震わせてしずかにしていた。涙を流す先生はガラスのように壊れてしまいそうだったが、僕はおそるおそる、すこしだけ両腕に力をこめて先生を抱き寄せる。
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