17 過去

 そのとき、先生の口から「う」という呻き声が漏れた。僕は急いで先生の元へ向かい、彼女の顔を覗きこむ。目を覚ましてはいないようで、眉をひそめながら身をよじらせた。



「崇浩……」



 先生の口からまた、崇浩さんの名前が漏れた。先生は、自分のせいで崇浩さんは死んだのだと言っていた。自分を責めながらも、それでもまだ崇浩さんのことを想い続けているのだ。僕は先生の右頬にそっと左手を添える。熱い。先生が抱える苦しみが、手のひらから伝わってくるようだ。



 先生はもしかして、骨を手に入れて自分も死のうと思っているのではないだろうか。そう考えれば、僕を殺そうが殺さまいが、何も関係ない。崇浩さんの遺骨を確実に手にいれ、僕を殺したあと、崇浩さんとともに永遠の眠りにつこう。そう考えているのではないか? 手が震えそうになり、先生の頬からそっと手を離した。先生はそのまま眠り続けた。



 先生の額から、氷嚢が力なくずれ落ちる。氷が溶けて水になってしまっているので、僕は相田さんに新しい氷をもらおうと外階段をおり、土間に向かった。土間は綺麗に片付けられており、天井の小さな裸電球だけが灯されていてすこし薄暗い。


 別棟につながる通路に向かって相田さんを呼ぶと、すぐに出てきてくれた。昼間はかならず頭に巻かれているバンダナはなく、前髪がゆるくカールしていた。氷が溶けてしまって、新しい氷をいただけますか、とお願いすると、相田さんはハッとした顔になった。



「そうか、そうですよね。夏だしすぐ溶けちゃいますよね。氷じゃなくておでこに貼る冷たいジェルシート、探してきますね」



 そう言い残して通路の奥に走って行ったかと思いきや、すぐに戻ってきた。その手にはジェルシートの箱と、お茶と氷の入ったグラスが握られていた。



「これ、箱に入っている分、好きに使っていただいて大丈夫です。あと、ちょっとお茶でも飲まれませんか? 弟さんも、疲れた顔されてますよ」



 土間の机に置かれたグラスには、チェックインのときのウェルカムドリンクとは違う、濃い茶色のお茶が入っていた。僕は勧められるがまま、椅子に座ってからそのグラスに口をつける。麦茶だった。薄く淹れられた、けれども香ばしい、喉をするする通っていく麦茶。僕は一気に飲み干して、はあ、と一息ついた。相田さんは僕が座る机とは違う机の椅子に腰かけた。



「お姉さん、疲れが出ちゃったんですかね。遠くからいらっしゃったってうかがったものですから」



 相田さんの笑顔は、昼間の太陽のようなパワフルなものではなく、夜の月のように心穏やかにしてくれるものだった。僕は心のなかに渦巻くもやもやとした感情を抱えきれず、自然と言葉を漏らしてしまっていた。



「なんか、姉……がですね、一人で悩んでるっぽくて。僕はどうしたらいいのか、わかんないんですよね」



 言葉にしてみたものの、先生がやろうとしていることを隠しつつ相談するのはすこし無理があるなと感じた。手のなかのグラスから、カランと氷が溶ける音がする。ごまかすように、「こんなこと言われてもわけわかんないですよね」と僕は笑う。すると、相田さんは椅子の上で足を組んで、微笑みながら「私の話なんですけど」と話し始めた。



「私、ちょっと前まで都会の飲食店で調理スタッフとして働いていたんですよ。創作和食を出す店で、昼間はサラリーマンとかOLさんのランチを出して、夜はお酒も飲める居酒屋のようなお店でした。でもそこで、人間関係がうまくいかなくて、ストレスで心が疲れて、病気になっちゃったんですよね。で、よりにもよって味を感じなくなっちゃったんですよ、料理人なのに。あの頃は何を食べても砂の味しかしなくて、本当に辛くて……」



 相田さんの伏せられた目を見て、左膝がずきんと痛んだ。美味しかった夕食が嘘のような話だった。彼女は続ける。



「味がわからないから、お店も辞めることになって、途方に暮れてたんですよ。一人で部屋で、布団にくるまってたらいつのまにか夜になっていることもしばしばでした。そうしたら、高校から付き合いのあった友だちから連絡があって。私が仕事を辞めたことをどこかで聞いたらしくて、ツテがあるからこの島に移住してみないか、って言ってくれたんですよ。この民宿の、前のオーナーさんが当時もう結構なお年で、後継者を探してらっしゃったんですよね。でも私は食べものの味もわからない状態だったし、そんなの無理だって何度も断ったんですけど、それでもいいから、って言われて。何回も連絡が来るから、最後には『えーい、どうにでもなれ』と思いながら移住したんです。最初はベッドメイキングだとか帳簿だとか、本当にわからなくて」



 よくオーナーに怒られましたよ、シーツの畳み方が雑だとか庭の手入れがなってないとか。そう言いながら、彼女はふふふと笑った。彼女が見つめる先の壁には、民宿の玄関前で満面の笑みを浮かべた相田さんと、高齢の男性のツーショット写真が飾られていた。髭をたくわえた男性は、車椅子に乗ってむすっとした表情で写っている。でも、男性の肩に添えられた相田さんの手から二人の距離の近さが伝わってきた。



「でも、自分のできることが、一つひとつ増えていったんです。料理もまた、すこしずつ、すこしずつ楽しくなっていって。いまでも正直なところ、味覚は完全には元に戻ってないんですけど、都会にいるときよりも自分らしく生きられている気がするんです」



 相田さんは「前置きが長くなっちゃいましたね」と、僕に視線を向ける。優しい眼差しだった。



「たとえどんなに挫けそうになっても、周りに人がいてくれるのって本当にありがたいことだと、私は思いました。友人が私に声をかけてくれたり、前のオーナーがずっとそばで見守ってくれていたり。お姉さんも、誰かがそばにいてくれることで、救われることもあるんじゃないでしょうか。弟さんの、『お姉さんを助けてあげたい』と思う気持ちが、何よりお姉さんの支えになるんじゃないかって、思いますよ」



 すみません、私の話ばっかり、と相田さんは照れくさそうに前髪をかきわけた。僕は首を大きく左右にふる。



「いえ、あの、僕も話を聞いてくださってありがとうございます。僕も姉の……そばで姉のことを見守れたら、と思います。相田さんのお茶も晩ごはんも、美味しかったです」



 そう伝えると、相田さんは顔を真っ赤にして「ありがとうございます」と笑った。僕はジェルシートのお礼も伝えてから、「おやすみなさい」と土間をあとにした。相田さんは土間から顔を出し、頭を下げて見送ってくれた。


 部屋に戻る前、外階段の踊り場から暗い海を眺める。風にのって、遠くから波の打ち寄せる音が響いていた。


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