16 遺骨


 二人の姿が見えなくなった瞬間、からだじゅうから力が抜け、おおきく息を吐いた。呼吸するのを忘れていたのかと思うほど、心臓がばくばくしている。背後にいる先生に声をかけた。



「先生、大丈夫ですか」



 僕はふりかえって先生の正面に立ち、細い肩をつかんで先生の顔をのぞきこんだが、髪が乱れて垂れ下がっており、表情がわからない。先生は何も言わない。僕はすこしためらったが、「すみません」と謝りながら、先生の顔に垂れる髪を耳にかきあげた。


 先生の左頬は真っ赤に腫れ、涙の跡が痛々しくその上を縦断していた。僕は動かない先生をベンチまで誘導し、ゆっくりと座らせる。自動販売機で適当に缶ジュースを買い、冷たい側面を先生の頬にゆっくりと当てた。その瞬間、先生は顔をしかめたが、僕から缶を受け取ってそのまま頬に当てていた。




 先生が落ち着くまでそうしていようと、僕も隣に座り、ベンチに背中を預けた。蝉は相変わらず輪唱しており、木の葉の隙間から地面に落ちる陽光が万華鏡のように模様をつくり続けている。



 目をつむると、先ほどの女性の針のような言葉が繰り返し思い出された。



 死ね。

 死ね。

 死ね。

 死ね。



 それはこの数ヶ月間、僕が自分自身に言ってきた言葉だった。自分で自分を刺し続けてきた言葉だ。毎朝起きてベッドからおりるとき。制服に着替えるとき。用意された冷たい朝食を一人で食べるとき。通学のバスのなか。体育を見学するとき。昼の購買に行くために走れなかったとき。屋上に続く階段の踊り場で一人、昼食を食べているとき。夕方、陸上部が使っているグラウンドの横を通って下校するとき。制服を着替えるとき。家族バラバラで夕食を食べるとき。風呂に入るとき。たいしておもしろくもないスマホゲームをしているとき。寝ようと部屋のあかりを消して、ベッドの上で天井を見つめているとき。


 毎日毎日、思っていた。走れない僕なんか、死ねばいいと。でも、他人から言われたことはいちどもなかった。いま思えば、誰ひとり、僕に「死んでしまえ」などという人はいなかった。もう走れないのに。多くの人の期待を裏切ったのに。ひとり重圧と怖さに耐えられなくなって、この世から消えてしまいたくなっていたのだ、僕は。足はまだ、軋みながらも動くというのに。



 そんな言葉を他人から言われる先生は、何をしたというのだろう。先生は何をしたくて、ここに来たのだろう。それも、僕を連れて。僕は、彼女に聞かなければならない。すでにぬるくなったであろうジュース缶を握りしめる先生に、僕は問うた。



「先生。大丈夫ですか。僕、まだ、よくわかってないんですけど。そろそろ、いろいろ教えてもらってもいいですか」



 何から聞けばいいのかわからず、うまく言葉にできなかった。しかし先生は察してくれたのか、言葉を探すように目をきょろきょろとさせながら、ぽつり、ぽつりと話し始めた。



「……あのご婦人は、私の大切な人の母親です。そして、私の大切な人は長谷川崇浩さんというひとです。お付き合いしていました。今日、お墓の下に納められていたのは、その崇浩さんの骨です」



 タカヒロ。

 崇浩。


 先生の恋人はすでに亡くなっていて、今日、あの年配の女性が持っていた骨壷のなかにちいさく納まっていたということだ。あの骨になった人が先生にとって大切な人なのではないかと心のどこかで予想していたものの、本人の口から聞くと予想以上に心に重たくのしかかった。



「崇浩さんは私のせいで死にました。お母様は私を恨んでいます。だから、何度お願いしても、崇浩さんの遺骨に会うことも、今日の納骨に参列することも許されなかったんです。だから……」



 先生のせいで、死んだ? だから先生はこの墓地に来た女性に声もかけずに、遠くから見守ることしかできなかったのだ。そして、女性に見つかる前に足早に去りたかったのだ。あのとき、僕がもたつかなければ先生は頬を殴られなかったのかもしれない。隣に座る先生のあかく腫れた頬を見て、心臓がぎゅっと締めつけられるようだった。



 先生がこの島に来てやりたかったことは、崇浩さんが納骨されるところを見たかっただけなのか? 僕の脳裏に疑問がよぎった。そうだとしても、それだけなら犯罪ではないし、僕をわざわざ連れてくる必要もない。本当に先生のしたいことは、もしかして――。




「先生。先生が僕に手伝ってほしいことって、もしかして」



 太陽がずいぶん傾いてきた。先生の頬は夕日を受けてオレンジ色に染まっている。先生は僕のほうに向き直って告げた。




「納骨された彼の遺骨を、盗みたいんです」




 その両目からは悲しみがすっかり流れ落ちていて、決意だけが残っていた。






 先生と僕は車を走らせ、民宿に戻り、一階の土間で用意された夕食を食べた。素朴な味だが山の幸、海の幸どちらも取り入れられており、品数も多くとても美味しかった。最近外食続きだったので、こういう手料理は久しぶりだった。


 しかし先生は半分も口にすることなく、部屋に戻るや否やベッドに倒れこんでしまった。僕があわてて先生の顔を覗きこむと、頬と同じくらい顔全体が赤い。「すみません」とひとこと断ってからそっと腫れているほうと反対の頬に触ると、肌の内に熱がこもっていた。どうやら熱が出ているようだ。


 よくよく考えてみれば、ここ数日、先生は夜も運転し、食事もろくにとらずで、体調を崩してもおかしくない生活をしていた。僕は一階の土間におり、相田さんに氷嚢と解熱剤がないか尋ねる。相田さんはすぐに用意してくれた。とりあえず先生に解熱剤を飲ませ、氷嚢を額の上に置いてベッドに寝かせる。本当は服も着替えたほうがいいんだろうけど、着替えさせる勇気がなかった僕は、そのまま先生に布団をかぶせて様子を見ることにした。しばらくすると、苦しそうな吐息からしずかな寝息に変わったので、ホッとしながら窓の前の籐の椅子に腰かけ、夜の海を眺めていた。




 夕方の先生の言葉が思い出される。先生は、亡くなった元恋人の崇浩さんの骨を盗むべく、この島にやってきた。死のうとしていた僕をともなって。おそらく、今日納骨されることも知っていたのだろう。納骨されるところをその目で確認しようと、車を急いで走らせていたのだ。納骨される前は崇浩さんの家族――あの女性の手元に遺骨はあったのだろうから、先生は手を出せなかったのだ。


 納骨されてからこっそり盗み出せば、家族やお坊さんにバレる確率は低いし、確実に遺骨を手に入れることができると先生は考えていたのだろう。一人でも盗めなくはないだろうが、二人いれば見張りなどもできるし、より成功率もあがると考え、あの日、僕に話を持ちかけたのだ。そう思うと、すべてつながった気がした。



 とはいえ、先生は崇浩さんの遺骨を盗んでからどうするのだろう。バレる確率は低いといえど、窃盗は立派な犯罪だ。それに、僕が手伝えばそのあと、先生は僕を殺してやると言っていた。骨を盗み、僕を殺して、罪を重ねたまま崇浩さんの遺骨とともに元の生活へ戻ろうとしているのだろうか。警察の捜査などを回避しながら、高校教師として教壇に立ち続ける? それは難しいだろう。僕がもし遺体などで発見されれば、民宿の宿泊名簿やいままでいっしょに訪れた場所に設置された監視カメラなどから、先生が関係者として浮上し、捜査も行われるはずだ。もしかして、先生は元の生活に戻ることを考えていないのかもしれない。だと、したら。

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