15 あんたなんか

 手のなかのアイスティーがすっかり温くなり、どのくらいベンチで座っていたかわからなくなった頃、遠くから人の気配がした。何かを話す声と、足音と、何か金物が鳴る音がする。「先生」と声をかけると、先生は「しずかにしていてください」とだけ言って黙りこんだ。会う約束をしていた人ではないのだろうか? 不思議に思ったが、僕はおとなしくそのまま先生の隣に座っていた。先生は顔を伏せて足元に視線を落としている。



 まもなく石壁の切れ間から覗いたのは、袈裟を着たお坊さんと黒い服を身にまとった中年の女性だった。女性がかぶっている黒いちいさな帽子の端から、白髪混じりの髪がのぞいており、耳あたりの長さで綺麗に切り揃えられている。お坊さんは、手に持つ小さな鐘を、チーン、チーン、と何度も鳴らしながら女性の前をゆっくりと歩く。お坊さんに続く女性の手には、白い四角い箱のような荷物があった。こちらからは二人の姿をしっかりと確認できるが、向こうからは陰になっているからか、僕たちがベンチに座っていることに気づいていないようだった。



 ある墓石の前で立ち止まったお坊さんと女性は、何やら支度を整えてから、読経を始めた。ちょうどお盆の時期なので、法事だろうか。聞き慣れない読経に、僕はしかたなく耳を傾けていた。家の法事に参加したことはあるが、宗派が違うのか読経の節や音程、スピードが全く違って、何か違う行為をしているかのようにも見える。



 しばらくして読経が終わった頃、女性が持っていた包みをお坊さんが預かり、墓石の手前の石を重そうにどかした。そこにはぽっかりとした穴が空いている。お坊さんが、包みの外の布を取り外し、ひとまわり小さくなった何かの入れ物をその穴のなかに納めるのが見えた。そこで僕は、女性が大切そうに持っていた包みの中身が骨壷であったことに気づいた。



 先生のほうを見ると、僕は思わず息を呑んだ。

 先生の目から、しずかに涙があふれている。その視線は、お坊さんと女性がしずかに拝んでいる、そのお墓に向けられていた。まっすぐに見つめるその目からは、次々と涙の粒がこぼれていく。僕は先生の表情から目を離せなかった。「大切な場所があるんです」と先生は言っていた。「人を待っていた」とも言った。僕はてっきり、罪を犯す前に誰かに会っておきたいのだと思っていた。いくつかの点が、一直線にならんだ気がする。


 もしかして先生は、あの「骨」を待っていたのではないか? あの骨が今日納骨されるから、この「大切な場所」で待っていたのではないか? そう思うあいだにも、先生の大きな両目からははらはらと花びらが散るように涙が流れていた。拭いもせず、拳をネイビーのワンピースに包まれた膝の上で握り締めて泣いていた。僕はどうすればいいかわからず、先生と墓の方向を交互に見つめるだけだった。


 そうしているあいだにも墓の石蓋は戻され、骨壷は見えなくなり、墓は何もなかったかのように同じようにそこにたたずんでいた。墓の根元の部分に骨壷が納められていることを、僕は初めて知った。先生はとめどなく流れる涙を、両手で何度も何度も拭っている。



  骨壷を納めたことで法事が終わったのか、お坊さんと女性は墓の前で会話を交わしている。その様子を眺めていると、隣に座っていた先生がすっと立ち上がった。



「天来くん、帰りましょう」



 鼻声の先生は僕の返事も待たずに、そのまま早足で出口に向かおうとする。突然のことに、僕は先生の腕をとっさにつかんだ。



「ちょ、先生。どうしたんですか? あの人じゃないんですか? 先生が待っていた人って」



 思いがけず大きな声になってしまったのか、お坊さんと女性はこちらに気づいた。先生の眉根が寄る。「天来くん、早く」といつになくあわてている先生の様子に、僕はわけもわからず立ち上がった。が、サポーターが汗でずれたのか、膝が軋んでバランスを崩した。



「先生、ちょっと待ってください」



 サポーターの位置をなおそうとしているあいだにも、先生は僕のほうを見ずに僕の手を強く引いて出口に向かおうとする。先生の視線の先には、こちらへどんどん近づいてくる女性の姿があった。やっぱり先生と女性は知り合いなのだろうか。そうしている間に、女性は先生の目の前に立った。



 女性は遠目で見て想像していたよりも老けこんでいて、汗で崩れた化粧がより顔のシワを目立たせていた。濃い紅で塗られた唇はわなわなと震えており、血走った両目で先生を睨みつけている。



「あ、あの」



 先生がそう口にした、その瞬間。



 蝉の声が響く墓地に、ぱん、と乾いた音がした。


 先生の顔は横に弾け飛んだように背けられている。シミのある女性の右手が、先生の頬を叩いていた。その太い指には、金色の指輪が食いこんでいた。



「よくも……。よくも、その顔が見せられたなあ?」



 女性の声は低く、震えていた。先生の頬を打ったその右手も震えている。僕は突然のことで、何も言葉が出なかった。女性の怒りに満ちた表情が途端に崩れ、その目にみるみるうちに涙が溜まった。先生は何も言わず、打たれた左頬を手で押さえたまま微動だにしなかった。



「あんたの……あんたのせいで、タカヒロさんは……」



 女性の言葉を聞いた瞬間、どくんと心臓が脈打った。


 「タカヒロ」。いま、女性ははっきりとそう口にした。昨日の夜、先生が寝言でつぶやいた、「タカヒロ」という男の人の名前。女性は目尻から涙があふれた途端、まくしたてた。



「あんたのせいで、タカヒロさんは死んだんや! せやのに、よくもここに来れたもんや。もう二度と来るんやない、疫病神!」



 水が堰を切って流れ出るように、周りの誰もその勢いを止められなかった。苛烈、という言葉が人の形をしているようだ。白髪を振り乱し、女性はもういちど右手をふりかぶった。僕はその瞬間、先生と女性の間にからだを入れて目をつむる。



「落ち着きないな、長谷川さん!」



 目を開けると、お坊さんが長谷川と呼ばれた女性の右腕をつかんで押さえていた。それでも女性は僕を睨みつけていた。ただしくは、僕のうしろに立つ先生を睨み続けていた。目の前にした女性の形相は恐ろしいもので、僕は決してこの女性に力で負けるはずはないのに、喉がごくりと鳴った。



「……死ね! 死ね! あんたなんか、死ね! 死んでしまえ!」



 僕は何も言えずに、その女性の言葉を真正面で受け止めていた。こんなに真正面から、人の負の感情を受けたことはなかった。肌に焼きごてを当てられたような、逃げようのない痛みが全身を走るようだった。背中越しに、先生が震えていることだけがわかった。



 女性は泣き崩れ、地面に倒れこみそうになったところをお坊さんがあわてて支える。そのまま女性は肩を支えられながら、墓地をあとにした。お坊さんは僕に頭をひとつ下げていった。

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