18 そばには誰が

 寝ている先生を起こさないよう、ドアノブをしずかに回して扉をあける。慎重に鍵を閉め、なるべく床も軋ませないように忍び足で先生のベッドに近寄る。


 先生は眉間にしわを寄せながら眠っていた。すこし呼吸は浅いままだ。汗でおでこに張り付いた前髪をかきあげ、枕元に置いていたタオルで汗をそっと拭く。相田さんにもらってきたジェルシートを貼り付けると、先生の表情が心なしか和らいだように見えた。先生が夜中に起きたときに水分をとれるよう、相田さんが去り際に渡してくれた、スポーツドリンクが入った水筒も枕元に置いておいた。
 


 僕はまだ眠る気分にはなれず、窓際の籐の椅子に腰かける。今日初めて座ったはずなのに、やけにからだに馴染んでいる気がする。右膝をたて、その上に頬杖をついて外を眺めた。外は月あかりでやけに明るいのに、海のほうは黒く、空との境界がはっきりとしない。先生のために室内の照明は落としているので、窓から月光が綺麗に差しこんできていた。右膝の傷が月あかりで照らされているのを、僕はしずかに見つめる。



 「誰かがそばにいるだけで、救われることもある」。相田さんの言葉が、ずっと耳の奥で響いていた。




 ポケットに入れていたスマートフォンの画面をタップし、画面を光らせた。そういえばメッセージを確認するのは昨日ぶりだなと気づく。「三日ほど戻らない」と母親に送ったメッセージには「既読」の文字が表示されており、「わかりました」という六文字の返事だけが、未読のまま残っていた。僕は新たにメッセージを入力することなく、メッセージアプリを閉じた。



 母親が、僕と話すときに怯えた表情になるようになったのは、怪我をしてどのくらい経った頃だっただろうか。リハビリを終えた日、病院の駐車場に母が迎えにきてくれていた。「お疲れ様です」と声をかけてきた母とは、目が合わなかった。母はしきりに両手をこすりあわせ、もみながら、目を伏せて地面に視線を泳がせていた。


 後になって気づいた。母は「走れない僕」を知らなかった。物心ついた頃から周りの子どもより足の速い僕しか、彼女は知らなかったのだ。「知らないものにどう接していいかわからない」「目の前に立っているこの少年はいったい誰?」そんな表情をしていた。母の車に乗りこみ家に戻ったが、母は進行方向を不安そうに見ていた。僕は、雨の降る街をウインドウ越しに黙って見ていた。



 父は、僕から完全に興味を失ったようだった。いや、もともと、父親に興味を持たれたことは怪我をする前からいちどもなかったのかもしれない。士業を営む父には、「勉学こそすべて」という矜持があった。父は年相応の白髪を携えており、腹まわりに肉もつき、運動をしている姿もみたことがない。速く走れることは、父にとって何も意味を為さないことだった。エリートの道を淡々と進んできた、ということが父のアイデンティティであり、支えであり、誇りだった。


 それを体現してくれる兄がいて、父はどれほど救われたのだろう。僕より三歳上の兄は父の半生を肯定するがごとく、同じ道を進んでいた。成績優秀でいて、人望も厚かった。たまの家族四人の食卓では、兄の期末試験の点数がどうだったとか、模試の成績がどうだったとか、父がぽつりと話をふっては、兄が答える。満足いく回答が得られた父は、「さすがだな」と褒めてからビールをあおる。そして母は父親の様子をうかがいながら「鼻が高いわ」と付け加える。そのあと、「満はどうだ」と、父が形だけ問う。僕は必死に、最近あったことをならべたてた。百メートルのタイムがコンマ何秒縮んだとか、県大会の選手に選ばれたとか、そういう話だ。それを聞いた父は「そうか」とだけ答えるのだ。

 最初から、僕と兄は別の舞台に立っていて、父は兄が演じる舞台だけに興味があるのだった。はなから、僕の舞台の観客席には、父も母も兄も座っていなかった。



「見てほしかったのかな」



 独り言が、思わず口から漏れた。僕は見てほしかったのだろうか。家族に、僕のそばで、僕のことを見てほしかったのかな。父や母、兄と最後に向き合ったのはいつだっただろう。ただそばにいて、「大変だったな」「辛かったな」と言ってほしかっただけのような気もする。それだけで、僕はあの日、屋上に行くことはなかったかもしれない。僕のそばに、家族は誰ひとりいなかった。




 いま、先生のそばには誰かいるのだろうか? 恋人に先立たれ、弔うことも家族に許されず、自分を責め、恋人の遺骨を盗もうとするまで追いこまれている。僕が知っている限り、といっても何も知らないも同然だけれども、先生を支えている人は誰もいないのだろうなと思う。もういちど恋人と会うために、独りでもがいているようにしか見えなかった。怪我をして追いこまれていた僕と同じように。
僕が、先生のそばにいることはできないだろうか。よくよく考えれば、おとといの夕方、あの屋上で僕は確かに先生に救われたのだ。「殺してやる」と言った先生は、僕のことをまっすぐに見てくれていた。あの目を見て、僕は先生のことを信じたのだ。先生なら、僕のことを見て受け止めてくれる、と。



 いまなら、僕は、先生のそばにいることができるんじゃないのか? たとえ、この膝が曲がらなくとも。
深夜なのに、外は月あかりで先ほどまでより明るくなった気がした。僕はそろそろ眠ろうと、籐の椅子からゆっくりと立ち上がる。膝は軋みながらも、痛みはなくなっていた。


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