12 海を渡る
太陽が力強く空にのぼりつつある昼前。車のウインドウ越しに、波が打ち寄せては返す音が聞こえてきた。僕は車から顔を乗り出して、進んでいる方向を見る。吹いてくる風に、潮のなんとも言えない匂いが混じっているのがわかる。
車が何台もならぶ先に目をこらすと、大きな船影が太陽の光を反射しているのが見えた。車の列の最後尾について、のろのろと停まっては動いてを繰り返す。車ごと乗船できるフェリーに、僕はこれから初めて乗る。
「今日はフェリーに乗ります」と先生に伝えられたのは、今朝、ホテルのロビー横にすえつけられたバイキングの朝食をとっているときだった。冷え切ったハムとスクランブルエッグ、そしてドレッシングに浸かりきったサラダを食べたあと、小さなロールパンにマーガリンを塗っているところだった。先生はブルーベリージャムをのせたヨーグルトとフルーツポンチとコーヒーだけという、相変わらずの少食っぷりだった。煮詰まっていて熱いのか、先生は手のひらサイズのカップからおそるおそるコーヒーを口に運んでいる。先生の薄い唇にすこし目を奪われていたことに気づき、僕はあわてて目をそらした。
「フェリーに乗るの、初めてです」
屋上から飛べなかったおとといの夜、先生から「島へ行く」と聞いて、フェリーに乗ることは予想していた。いままで船に乗ったことがなかったので、いよいよ乗るのかと思うと、不安よりも好奇心が勝っていた。
「そうですか。待合室だけでなく船の甲板にも出られるので、出てみてもいいかもしれませんね。風が気持ちいいですよ。一時間ほどで島に到着します」
おそらくその島で先生は、いや、僕たちは罪を犯すことになるのだろう。先生は、いったい何をするつもりなのだろうか。たとえば人を……人を殺したりするのだろうか。手のひらにじんわりと汗をかく。いや、万が一そうであれば、もっと何かしら準備をしたり、周囲を警戒したりするものではないのだろうか。先生が何をしたいのか、島へいよいよ到着する局面で、改めて気になった。でも、こんなホテルのロビー横のラウンジで「いまからどんな犯罪を犯しにいくんですか」などと聞けるわけがない。隣には幼い兄弟を連れた家族連れがいるし、真向かいに座る先生の後ろには新聞を広げているサラリーマンだってコーヒーをすすっている。
それに、昨夜眠っている先生の口から聞いた「タカヒロ」という名前。先生の顔色をうかがうが、先生は昨日までの様子と何も変わらずフルーツポンチのなかのみかんを小さなフォークで刺して口に運んでいた。先生は、僕に「タカヒロ」という名前を聞かれたことを知らないだろうし、僕もどう尋ねたらいいかわからなかった。そのもやもやを、パンの最後の一口とともに口のなかへ放りこんだ。
前の車がゆっくりと進みはじめ、整理員のおじさんの案内にしたがってフェリーのなかへと続く橋を渡っていた。運転席側に立つよく日に焼けた整理員が手を大きく振るのに合わせて、先生はゆっくりとアクセルを踏みこむ。小さな軽自動車は左右に激しく揺れながら、大きな口を開いている船の後部へと乗りこんでいく。日差しを受けていたところから一気に影に入り、目の前が緑色に染まる。前の車の後ろギリギリまでつけて、先生はエンジンを切った。すかさず整理員がタイヤに輪止めを挟みこむ。
「いきましょうか」
先生はフェリーに乗ったことがあるのか、何も戸惑うことなく車をおりていた。僕も急いであとに続く。車がずらりと止まる列の間を縫うように歩き、錆のひどい狭い階段をのぼると、船の甲板に着いた。床が、大きくゆらりゆらりと動いている気がする。
「待合室だとクーラーが効いていますが、上の階にもベンチがありますよ。暑いですけど、上に行きますか?」
先生が指さした先は部屋になっていて、ずらりと客席がならんでいるのが見えた。部屋の後方には自動販売機もいくつかならんでいる。フェリーの乗客はみんなそこへ吸いこまれていく。ずっと先生と車のなかにこもっていたからか、部屋のなかでじっとしているよりも外で風を感じていたかった。先生の問いかけにうなずくと、先生はさらに階段をのぼっていく。
甲板にあるベンチは、進行方向に向かって正面に設置されているのではなく、船の側面を向くように設置されていた。先生はそのうちのひとつに腰かける。僕はその隣に、すこしスペースを空けて座った。座ると、目の前に海が広がった。きらきらと、風にゆられる海面が光り輝いている。
出発する旨のアナウンスが、バリバリと荒れた音質で響き渡る。ゴーッという大きな音がしたと思ったら、目の前の景色がゆっくりと流れはじめる。船が陸を離れ、ぐんぐんとスピードを上げて進んでいく。潮風が強くなり、汗がにじむ肌にまとわりつく。
今朝まではすごく楽しみだったフェリーだが、乗ってみれば案外「こんなものか」と思う自分がいた。隣を見ると、先生は正面のどこまでも広がる海を見つめているだけで、感動しているような様子ではなかった。間がもたなくなり、僕は思わず声をかける。
「先生はフェリー、乗ったことあるんですか?」
何気なく聞いた一言だったが、先生は僕のほうに視線を向けた。その顔は無表情ではなく、どこか痛いところをつかれたように、眉をひそめていた。なにか悪いことでも聞いたかと、僕は心のなかで焦った。
「……ええ。このフェリーに何度か」
もういちど海に視線を戻してから、先生はそう答えた。風になぶられる髪が、先生の表情を隠し、それ以上はうかがい知ることができなくなった。「そうなんですか」とだけ返し、僕もおとなしく真正面に広がる海に目をやる。
波しぶきはいちどだって同じ場所にとどまってはいなかったし、いちどだって同じ色になることもなかった。ただ僕はそのときそのときの波が作り出すアートを鑑賞していた。油絵具が何度も何度も塗り直されていくようだった。
これから行く島で事をなしたら、もうこの海を見ることはないんだろうな。ぼんやりとそう考えていたが、どこかでそれを残念に思う自分もいた。何があっても、もういちどしずかに、こうやって先生と海を見つめたいなという思いが心のどこかにあった。それくらい、穏やかな時間だった。
下の階の自動販売機で買った炭酸ジュースを飲み終えた頃、先生が進行方向を指さした。
「あの島ですよ」
細いしなやかな指先がさす方向を目で追うと、海のなかにひっそりとたたずむ島があった。青々とした森をたずさえ、こんもりと膨れた山々があり、港なのか、森が途切れた場所があった。目をこらすが、建物はそれほど見えなかった。
アナウンスが鳴った。もうすぐ島に到着するから、車に乗って待つようにという指示だった。
「行きましょうか」と先生は立ち上がる。僕はすこし名残惜しくてそのまま座っていたが、階段のほうへ歩いていく先生の後ろ姿が見えなくなる前にベンチから立ち上がり、あとを追った。
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