11 知らない名前
白い天井を見上げながら、今日の昼間に買い物をしていたときに話した先生との会話を思い出す。僕が昼ごはんのとんかつ定食を食べ終わり、先生が食べ終わるのを待っているときだ。スマートフォンで「高校生が行方不明」なんてニュースが出てやしないかと調べているとき、ふと思ったことを先生に質問してみた。
「先生、あの」
「……。なんですか?」
先生は小さな口で頑張ってとんかつを咀嚼してから返事をする。
「僕、スマホ持ったままなんですけど、いいんですか?」
「いいのか、って?」
その不思議そうな先生の表情を見て、僕は自分のほうがおかしいことを言っている気分になった。こんな状況で、僕がスマートフォンを自由に使えることを警戒していないのだろうか。この手のひらにおさまる機械で、いくらでも助けを呼んだり先生の思惑をバラしたりすることができるというのに。
「誰かと連絡したり、誰かに告げ口したりするかもしれませんよ。ほら、その、親とか、警察とか」
どんどん声が小さくなっていくのが自分でもわかった。先生の表情をうかがうと、口角がゆるく上がった気がした。
「天来くんはそんなことしませんよ」
先生は間を置かずにそう答えて、定食についていた味噌汁をすする。なぜ、と問うと先生はすこし考えこんでから、ふ、と笑った。屋上で初めてみた笑顔と同じ笑い方だった。
「女の勘です」
いつも教科書のテキストしか読んでいなかった先生のあいまいな言葉に、僕はすこし呆れてしまった。先生らしくない言葉で僕を根拠なく信じてくれたことに、どこか心がむずがゆくなった。先生が笑うと、鼻筋に細いしわが刻まれることを僕はそのとき知った。
シティホテルの天井を見上げて、先生の笑顔を思い浮かべた。
「『女の勘』、か……」
ベッドに寝転がりながら、先生の言葉を反芻する。そう、先生は先生でもあるけれど、その前に一人の女性なのだ。同時に、僕は生徒でありながら、一人の男だった。先生は、僕のことをどう思っているのだろう。単純に生徒としか思っていないのなら、「犯罪を手伝えば殺してやる」なんていう考えにならないだろう。でも男として見られているのだったら、いまのこの一つの部屋に二人で泊まるこの状況にならないはずだ。先生にとっては、僕はなんなんだ?
考えれば考えるほど、思考の糸は絡まっていく。それらをひとつずつほどいていくのを諦め、僕は先生にうながされるままに風呂に入ることにした。
シャワーを浴びると、汗やこんがらがってた思考が洗い流された。狭い浴室でテーピングを巻いてサポーターをつけてから浴室を出ると、ベッドからはみ出る細い足が見えた。先生が帰ってきているようだ。僕はもういちど浴室の鏡で身だしなみを整える。多分、へんなところはないから大丈夫、のはず。
「風呂、先に入りました。先生もどうぞ」
僕の勧めに、返事はなかった。「先生?」と声をかけつつ死角になっているベッドのほうへ戻ると、小さな寝息が聞こえてきた。
先生は着のみ着のままでベッドに寝転がって眠っていた。僕が風呂に入っているあいだに戻ってきて、そのまま寝てしまったのだろう。洗濯物は持って帰っていないようだから、洗濯機を回すだけ回して戻ってきたのかもしれない。部屋にすえつけられた狭いデスクの上には、チェックインしたときにはなかったペットボトルの水が二本置かれていた。よっぽど疲れているのか、僕の気配に気づく様子もなく、先生の胸はTシャツの下で規則正しく上下に動いていた。
困った。先生を起こしたほうがいいのだろうか。休み休みではあるけれど、先生は今日ずっと車の運転をしていた。夏休みのお盆直前なので帰省ラッシュの渋滞につかまり、先生の思うように移動できていなかったらしい。疲れているのならこのまま寝かせておいてもいいけれど、洗濯物も取りに行かなければならないだろうし、今日も気温が高かったから汗だって流したいだろう。僕も洗濯に行きたいし、かと言って先生をこのまま置いて部屋を出ていっていいのかわからない。このまま先生が起きるまで待っていようか、どうしようか、と、ぐるぐる思考が巡る。
「ん……」
先生が寝返りをうって、僕は思わずからだの動きをとめ物音をたてないようにした。しばらくしてから、先生はまた寝息を立てる。立ちっぱなしもヘンなので、僕は先生が寝ている隣のベッドにしずかに腰かけた。
先生の寝顔は、まだ小さい子どものようだった。いつもの先生は大人で無愛想な感じがするのに、なんの肩書きも感じられないその寝顔に、僕はしばらくのあいだ見入っていた。綺麗だな、と思った。
それからどのくらいの時間がたっただろうか。僕が髪をドライヤーではなくタオルで乾かしながら、スマートフォンでニュースを見ていたときだった。先生がまた「ん……」と小さな声を立てて体をすくめたので思わずそちらを見たら、先生の閉じた瞼の隙間から、ほろ、と一筋の涙が流れた。そして、先生の唇がすこし開く。
「タカ、ヒロ……」
「……先生?」
聞き慣れぬ言葉に僕が思わず声をかけると、先生は目を何度か瞬かせたあと、ガバっと勢いよくからだを起こした。僕は驚きスマートフォンをベッドに落とした。先生はあたりを見回し、状況を理解しようとしているようだった。乱れた髪の隙間からのぞく彼女のぼんやりとした目に、徐々に部屋の温かな色味の照明が反射する。
「すみません、寝てしまいました……。私はどのくらい寝ていましたか?」
僕は落としたスマートフォンを拾い、時間を確認した。いまは八時四十分頃で、僕が風呂にあがってから十分ほど経っている、と伝える。先生は洗濯物のことを思い出したのか、寝起きとは思えないすばやさでベッドから立ち上がった。
「洗濯物をとりに行ってきます。デスクに置いた水は、一本飲んでいただいて大丈夫です」
それだけ早口で言って、先生はカードキーを持って部屋からあわただしく出て行った。僕はその背中に声をかけられないまま、またベッドから見送った。
「タカヒロ」。眠っていた先生は、確かにそうつぶやいた。それは誰か知らない、男の人の名前だった。僕はしばらく、しずかに閉まっている部屋のドアを見つめていた。
部屋に戻ってきた先生とは必要最低限の会話だけをし、眠りについた。先生とは反対側にある、カーテンのかかった窓のほうを向くと、カーテンの隙間から夜のビルの海が見える。目をつむる。先生がベッドのなかで寝返りを打つ布擦れの音よりも、「タカヒロ」とつぶやいた先生の哀しそうな声がいつまでも耳に残っていた。
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