10 できること
ああ僕は、あのとき死ぬべきだった。「楽に殺してあげる」なんて、先生の言葉に揺れるべきではなかった。もう二度と、目の前にゴールテープしかない景色は見ることができないのに。苦しんで死ぬべきだった。いまよりも苦しいことなんて、きっとこの世にないはずなんだから。
「本当にそうなんですか?」
うつむく僕に、やけにはっきりとした声が投げかけられた。乾いた砂漠に一滴の雨が降ったように、僕のなかに染みこんできた。
「天来くんは走れなくなったことが辛いんじゃなくて、周りの人から『天来くんにはもう何も無い』と思われるのが怖いだけなんじゃないですか」
頬を張られたのかと思うくらい衝撃があった。カッとなり、先生を睨む。僕は驚いた。先生が僕の目をまっすぐに見つめていたからだ。僕も負けずに見つめ返す。なんでそんなに、先生は哀しそうな目をしてるんだ。
「私は昨日の夜、天来くんを駐車場から見つけました。あなたが速く走れるからとかそんな理由で、声をかけたんじゃありません。いまの天来くんなら、私のことを手伝ってもらえると思ったからです。たとえ膝が思うように動かなくても、天来くんにはできることがあるはずです」
先生は僕に向かってドラッグストアの袋を差し出してきた。おそるおそる僕がそれを受け取ると、先生はベンチから勢いよく立ち上がった。
「私は専門外ですから、他に必要なものがあれば言ってください。それで事足りるのであれば、ご自身で巻いてから車まで来てください。私は先に車で待ってますから」
先生は僕をベンチに残し、一人で駐車場へと歩いて行った。ドラッグストアのロゴが印刷された、しわくちゃのビニル袋のなかをのぞく。そこには膝用のサポーターとテーピング、そして湿布が入っていた。それも一種類ずつではなく、何種類も。先生はこれらを買うために、わざわざドラッグストアに寄ったのか。先生は僕の足が痛んでいることに気づいていたのだ。僕は、自分のことでいっぱいいっぱいなのに。しっかり僕の目を見てくれるのだ。
僕はテーピングとサポーターを膝に巻くため、近くのトイレへと向かおうと立ち上がる。膝は軋みながらもなんとか動いてくれた。
駐車場に戻ると、先生はすでに車に乗りこんでいた。僕が遅くなったことを詫びながら助手席に座ると、先生は車のアクセルを踏みこんだ。ふたたび高速道路にのる。移動中も、サポーターを巻いた膝は痛みがいくぶん楽になっていた。
夕焼けの光が山ぎわへ沈む前に、先生は高速道路から一般道へおりる。道中のファミリーレストランで軽い夕食をすませたあと、近くのホテルへと車を走らせた。街並みは昼間に寄ったショッピングモールがあった街よりもしずかで、路面店以外はひっそりと眠りにつくように暗い住宅街が続いている。ぽつんとあかりのともるシティホテルの狭い駐車場に、先生の小さな愛車はすっぽりと収まった。
チェックインを済ませ先生のあとをおとなしくついていくと、そこは簡素なツインルームだった。ベッドと壁の隙間は、僕一人がやっと通れるくらいの幅しかなく、ベッドとベッドの隙間も、腰をかけて向き合えば膝がかち合うんじゃないかと思うほどに近い。
「すみません、夏休みだからかこの部屋しか空いてなくて」
先生はそれだけ言って、荷物の入った生成りのトートバッグをベッドの上に置いた。僕はどうすればいいのかわからず、ドアのそばに突っ立ったままだった。シティホテルにもツインルームにも泊まったことはあるが、それは部活の遠征のときくらいで、男のクラブメイトとだった。いくら荷物を散らかそうが裸で歩こうが気にしない状況だったわけで、そのときとはまるでわけが違う。出入口のドアから見て手前のベッドを先生が使っているので、僕は奥の窓側のベッドにとりあえず腰かけた。
背中越しに聞こえるベッドとバッグの布ずれの音が、僕の鼓動を速めていく。仕方ない、だって男の僕と女の先生が同じ部屋で過ごすなんて、僕には刺激が強すぎる。先生はまったく意識していないのか、テキパキと行動している気配を感じる。
「天来くん」
「は、はい」
「先にお風呂を済ませてください。私はコインランドリーで洗濯してきますから。ごゆっくり」
「わ、かりました」
どもりながら先生のほうをふりかえると、彼女は早々に手持ちのビニルバッグに荷物を入れて部屋から立ち去ろうとしているところだった。ドアの隙間から髪がなびくのが見えて、しずかにオートロックがカシャンと音をたてて閉まる。どうやら僕ひとりだけがどぎまぎしているらしい。急に馬鹿らしくなり、ベッドにそのまま寝転んだ。
ベッドヘッドに置かれたデジタル時計は、二十時を表示していた。先生と屋上で約束してからまだ一日しか経っていないなんて、信じられなかった。誰かとこんなに長い時間いっしょにいることも、何年ぶりだろう。それなのに、先生と行動をともにして不思議と息が詰まることはなかった。夏休みに入る以前の学校では、クラスメイトやクラブメイトの視線や気遣いが耐えられなくて、屋上へあがる校舎東端の階段で休み時間をひとり過ごしたし、家に帰ってもキッチンで家事をしている母の横を通り過ぎ、自分の部屋にこもるだけだった。
寝転んだ太ももに、硬い感触がある。スマートフォンだった。ポケットから取り出し、ホーム画面を見る。通知がひとつ。母からのメッセージだった。 『今日は帰ってきますか』 送信された時刻は今日の昼だった。おそらく冷蔵庫に母が作ってくれていた朝食がそのまま残っていたのを見て、またメッセージを送ってみたのだろう。相変わらず返事するのは面倒くさかったが、毎日言い訳を考えるほうがよっぽど面倒くさい。ため息をひとつついてからメッセージアプリを開き、入力欄に書きこむ。
『友だちの家で泊まりこんで夏休みの宿題をしてる。三日間くらい帰りません』
送信アイコンをタップして、メッセージに既読がつくかも確認せずにスマートフォンを枕に放り投げた。
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