9 痛み

 ベンチに座っている僕の目の前に立ち、影を落としている声の主のほうに視線をやる。帽子からはみ出た前髪が額に張り付いている、壮年の男性だった。肩には無線機を下げ、腰には警棒をさしている。


 警備員ではない、警察官だ。心臓があわただしく動き出す。



「大丈夫? 顔が真っ青だけど」



 しまった。警察官に声をかけられるなんて。なんでショッピングモールなんかに警察官がいるんだ? 一気に喉が干上がっていく。

 何も悪いことはしていないが、高校教師と一生徒がいっしょに知らない街にいるこのややこしい状況がバレるのはよくないだろう。幸い夏休みだし、真昼間に僕だけがここにいても何ら不思議ではないはずだ。頭のなかでぐるぐると考えが巡るが、乾いた口からは反射的に「大丈夫です」とかすれた小さな声が漏れただけだった。急いでこの場を離れたほうがいい。

 目の前に立ちはだかる警察官の脇を通り過ぎようと、立ち上がったそのときだった。



「痛ぅ……っ」



 右膝の軋みに、思わず手で押さえる。かろうじてつながっている腱が引き攣れる。ビリビリとした痛みを感じ、額に脂汗がにじんだ。よろめいたからだを、警察官に支えられる。



「君、大丈夫かい? ひとり? 誰かいっしょに来てないの?」



 高校の先生と来ています、などと言えるわけがない。かといって、親と来ているといえばここに呼べとか、連絡先を教えてくれ、などと話が進んでしまいそうだ。

 どうしよう、どうすれば。暑さと痛みと焦りで、頭がぐちゃぐちゃになる。



「親御さんは? 足が痛むんなら病院に……」


「どうしたの?」


 聞き慣れた声が、背後からした。ふりむくと、ドラッグストアのビニル袋を提げた先生が立っていた。先生は、いままで僕が見たことのない作り笑顔を浮かべている。



「警察の方ですか? 弟が何かしましたか?」



 先生の作り笑いはたちどころに消え去り、次は心配そうな表情に変わった。先生が意図的に表情を変えているのが僕にもわかった。



「あなたがお姉さん? いえね、彼が真っ青な顔をしていたものだから声をかけたのですが、足が痛いのかうずくまってしまって」



 警察官は警官帽のつばを持って向きを整えながら、先生に笑顔を向けた。彼女は状況を察したのか、警察官の話に不自然なほどに大きくうなずいてみせた。



「そうだったんですか。弟は最近、足を怪我してしまいまして。今日は気晴らしに私が買い物に連れ出したんです。それが私のほうが買い物に夢中になっちゃって待たせてしまって……。ごめんね、大丈夫? 満」



 先生は僕にかけ寄り、警察官とは逆のほうから僕のからだを支えた。石鹸の香りが鼻をかすめる。先生が呼んだ僕の下の名前が、ゆだる頭のなかでリフレインする。


 彼女の細い指が、僕の胸を優しくポンと叩く。先生を見ると、その目は姉が弟を見る目ではなく、いつもの冷静な先生だった。僕も頭が冴えてきて、それが先生なりの「話を合わせて」という合図であることに気づけた。



「あ、ああ。もう大丈夫だよ、姉さん」



 先生はひとつうなずいて先ほどまでの作り笑顔に戻った。どうやら先生の思惑に合っていたようだ。先生は警察官に「もう大丈夫です、私のほうで病院に連れて行きますから。どうもありがとうございました」と頭を下げていた。警察官はその様子を見て、僕からゆっくりと離れた。



「ここ最近、暑いですからね。熱中症にも気をつけて」



 帽子のつばを掲げて白い歯を見せた警察官の離れていく背中を、二人で見送った。






 バクバクと早鐘のように鳴り響いていた心臓が落ち着きを取り戻し、僕はいつのまにか止めていた息を大きく吐き出した。冷静になると同時に、肩口に触れる柔らかな触感に気づく。先生の白い顔が僕の目の前にあった。



「も、もう大丈夫です」



 あわてて先生に支えられていた肩を彼女から遠ざけると、その勢いで後ろにバランスを崩した。先生は何も言わず僕の腕を白い手で取る。熱かった。僕の腕をつかむチカラは弱いのに、ふりほどけなかった。



 先生は無言のまま、僕の手をひっぱって近くの植樹の下、木陰にあるベンチに向かって歩く。もともと僕が先ほどまで座っていたベンチだ。僕は足を引きずりながら後ろをついていった。先生がベンチにかけた隣に、僕も座る。僕も先生もお互い話を切り出すことなく、しばらくそのままだった。



 先生は怒っているのかもしれない。僕が警察官に何か変なことを、たとえば「高校教師と連れ立っている」なんて口走れば、捕まりはしないものの「計画」は断念せざるをえなかっただろう。警察官がショッピングモールのなかを巡回していることは予想できなかったとはいえ、そんな状況にも関わらず逃げられなかった僕に怒りを感じているのか、それとも、逃げられもしない僕をひとりにした自分が馬鹿だったと悔やんでいるのか。先生の横顔は、おろされた黒髪がカーテンのようになって隠されてよく見えなかった。



「あの……。すみませんでした」



 僕が悪かったのだ。謝るのは当然だ。先生の表情をもういちど盗み見しようとする。先生はこちらをいちども向くことなく、足元に視線を落としているようだった。今度は一気に血の気が引いていく感じがする。


 先生はどんな表情をしているのだろう。「あの目」だろうか? 医者に「もう君は二度と走れない」と言われたときの、父親の暗い井戸の底のような目。母親の、僕を憐れむ目。兄の、僕を見る無関心の目。どこへ行っても向けられる、失望の目。先生の目を見るのが怖くて、言い訳が溢れ出す口を止められない。



「逃げなきゃとだめだと思ったんですけど、逃げられなくて。でも、僕、バラすとかそんなつもりはなかったんです。だから、」


「そんなこと心配してるんじゃありません」



 鋭利なナイフでスパッと切られたように、要領の得ない僕の言葉は途切れた。喉がきゅっと締まって、声を出せない。



「治ってないんですか?」



 間髪入れずにそう問われた。思ってもなかった問いに、僕はなんと答えればいいか迷う。先生は立て続けに追い立ててくる。



「足。まだ治ってないんですか?」



 先生は僕の膝を一瞥してもういちど問うた。真正面からの問いに、僕はそのまま答えた。



「いや、治ってるんですよ。でも、もう前と同じようには……できなくて……」



 ジンジンとした痛みで曲げられない右膝を見た。春までのしなやかな膝ではなく、だらしなくベンチにもたれかかる、貧相に細くなった膝を。



「そうなんです。もう前とは違うんですよ。僕はもう、誰からも見放されて。この膝は走れもしない。まともに歩けもしない。警察官から逃げることもできない」



 瞼が熱をもっていく。視界が歪む。



「こんな僕、やっぱり昨日の夜に飛びおりてしまえばよかったんだ」

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