8 あの日

 制服のスラックスを脱ぎ、ジーンズを履こうと膝を曲げた、その瞬間。雷のような激痛が走った。


 頬を叩かれたように、怪我をしたときのことが頭のなかでフラッシュバックする。僕はしばらく、膝に手を当てて痛みに耐えた。額にじんわりと脂汗がにじんでいく。医者が言うには、膝は治っているのに、僕自身が痛みを記憶していて、たまにそれをからだや脳が思い出して痛みを感じる、ということだった。そう、これは偽の痛みだ、本当は傷んでいない。僕は自分に何度も何度も言い聞かせる。


 僕は先生の犯罪を手伝おうとしていて、そのあと先生に殺してもらおうとしている。それでラクになる。先生と車に乗って食事をして買い物をしていると、そんな歪な契約のことなど忘れてしまいそうになる。膝の痛みが僕の首根っこをつかんで、「おまえはラクになりたいんだろう?」と、あの屋上に立つ自分に引き戻してくれた。膝に熱はあるが痛みがおさまった頃、おそるおそる膝を伸ばす。


 目の前の大きな鏡を見ると、膝の傷があらわになっていた。一生消えない、大きな傷。僕はジーンズに足を差しこんでいく。すこし細くなった太ももは、ジーンズにすんなりとおさまった。





 僕がカーテンを開くと、先生は試着室の近くでまだ服を物色していた。ジーンズを履いた姿を見せてサイズは大丈夫だったと伝えると、先生はそのまま履いていくように言った。近くをせわしなく歩いていた店員に声をかけ、かわりにしわくちゃになったスラックスを紙袋に包んでほしいと伝える。手早く準備された紙袋を受け取り、僕たちは店を出た。



 そろそろ車に戻るのだろうかと先生のあとについて歩いていると、先生がふと立ち止まってふりかえった。僕もあわてていっしょに立ち止まる。なにか買い忘れたものでもあったのか、と尋ねたが、先生は違う、と答えた。



「大丈夫ですか」



 僕は意味がわからず、先生に「何がですか?」と問う。彼女は一呼吸置いてから続けた。



「足を、引きずっていらっしゃるみたいなので」



 その言葉に、どくん、と心臓が跳ねあがった。先生に悟られないように歩いていたつもりだったのに。自分の爪先に視線を落とすと、そこから伸びる右膝がかすかに震えていた。



「大丈夫です。いちいち気にしてくれなくてもいいです。もう治らないんだから」



 なかば吐き捨てるように答えて、僕はしまった、と思った。先生のまっすぐな視線に居心地が悪かった。先生はそれ以上何も言わず、再び僕の前を歩き出した。





 駐車場に戻る途中、先生が「ドラッグストアに寄りたいです」と言ったので、僕はドラッグストア近くの休憩スペースのベンチに座り、先生の戻りを大人しく待つことにした。


 ショッピングモールの出入口に近く、ここからは道路を行き交う車や駐車場から出ていく車がよく見える。街中にあるせいか、ショッピングモールをぐるりと囲む歩道を歩く親子連れも多くいる。僕はそれをぼーっと見つめながら、先生を待った。太陽はますます天頂に向かって昇っていき、くっきりとした影を地面に落としている。ずくずくと疼く膝の痛みに、歯を食いしばる。背中に、汗が伝っていくのがわかった。怪我をしたあの日も、春にしては暑い日だったことを思い出す。





 大事な春の地方大会だった。先輩たちが引退し、上位ランカーの面々が変わるなか、僕は昨年に引き続き決勝に残っていた。ひととおりからだを温め終えて肩からかすかに蒸気があがる。やおらコーチが声をかけてきた。



「どうだ」



 薄い黒のサングラス越しに、コーチの鋭い目尻が吊り上がっているのがわかった。緊張を悟られないためか、コーチはいつも腕を組んで手を隠しながら僕に話しかけてくる。



「問題ありません」



 そう答えると、コーチは「そうか」とほっとした表情を見せた後、いままで練習でも言っていたことを繰り返し僕に聞かせる。僕は一つひとつうなずきながら聞いていたが、実際は右から左へ流れていってしまっていた。僕だけにしかわからない、かすかな膝の痛みがあった。いままでに感じたことのない熱に似た鈍い痛みを、これは僕の勘違いだと思いこむのに必死だったのだ。


 待機所に集まる時間になり、運営スタッフに名前を呼ばれた。浦野と無言で拳を突き合わせる。クラブメイトたちに期待の声をかけられ、コーチからは肩を強く叩かれながらテントから待機所に向かった。



 上半身を軽くストレッチしながら、スタートラインに立ち、タータンの感触を足裏で確かめる。隣のレーンでは、隣県の高校のエースが入念にスターターをセットしているのが視界の端にうつる。彼の肩と太もものあたりが、昨年よりひとまわり大きくなっているのが見てわかった。スタート練習もキレている。彼に勝てれば、全国への距離がぐっと近くなる。負けられない。負けない。



「On your mark」



 号令の声に従い、タータンに指をつく。ぎゅ、と指が跳ね返され、指の位置をラインギリギリに決めたところで、からだをいつもと同じ姿勢にもっていく。周囲の音は、どんどんしずかになっていく。ただ自分の心臓だけが、早鐘のようになっているのが聞こえる。



 母指球に力を入れて一歩踏み出す。

 心のなかで言い聞かせた。



 一瞬の、静寂。




 空砲の音とともに、右足を大きく踏みこんだ。時間にしてコンマ数秒、隣のレーンで走る黄色のユニフォームが視界の端に見える。ぐっと胸をはり、風を真正面から受ける。もっと速く。そう思い、左足の次に右足をめいっぱい伸ばした、そのときだ。




 バツン。




 それは、僕の膝がもう元に戻らなくなった音だった。タータンに倒れこんだ僕の視界には、タータンの赤茶色とトラックのなかの芝生、どんどん離れていく色とりどりのユニフォームを着た選手たちの後ろ姿、そして不自然な角度で広がる青空だった。
僕は言葉にならない声をあげるしかなかった。




 それから、医者にはもう二度と同じようには走れないことを告げられた。手術をし、リハビリをする。病院はモノクロの世界だった。



「いいですよ、天来さん。頑張ってますね」



 理学療法士の言葉を聞いて、毎日毎日思っていた。頑張って何になるのだろう。もう僕は、走れないのに。僕を見る、母さんの哀れみの目。見舞いに来ない父さんと兄さん。ハリのないコーチの声。日毎に少なくなっていく、クラブメイトからのメッセージ。そのすべてが、痛む膝に集約されて錆みたいにこびりついていくようだった。もう膝は、元には戻らないのだ。

 戻らない、のなら、もう……。





「君!」



 その知らない大きな声に、僕は一気に現実に引き戻された。

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