7 色づく世界
「……なんですか?」
なにかヘンなことでもしでかしてしまったのかと思い、パンを口に運ぶのをやめる。彼女は珍しくバツが悪そうにコーヒーに口をつけた。
「すみません。朝から気持ちよく食べるな、と思いまして。私は少食なので、このベーグルとコーヒーでもお腹いっぱいになりますし」
それで足りますか、とも聞かれたので、僕はうなずいた。
「これでも食べる量、減ったんですよ。部活で毎日走ってたときなんて……」
そう。来る日も来る日も走っていた頃は、これの二倍は食べていた。朝練前にはバナナとヨーグルト、プロテイン。朝練後に、パンやおにぎりを食べるが、昼には消化していた。いまよりもたくさんたくさん食べていたのに、味は覚えていない。「食事は栄養補給だ」とコーチに言われて、勝つために必要な栄養素をからだに放りこんでいただけだった。こんな自分の話を伝えても先生には意味のないことだと思い、「足ります、大丈夫です」とだけ言っておいた。
目の前にいる先生は、ベーグルを細い指でちぎってゆっくりと口へ運んでいた。急いでいる様子もない。おいしいとかまずいとかも言わず、真摯に食事に向き合っているように見えた。誰かといっしょに食べる食事は、新鮮だ。 朝食を誰かと食べたのも、いま思えばいつぶりだったろうか。 春までは部活の朝練に行かなければならなかったので、誰もいないダイニングでひとり朝食を食べるのが当然だった。いま食べているのは安いパンなのに、しっかりと小麦とバターの味がする。
「今日は、買い物に行きましょう」
僕よりもだいぶ遅くベーグルを食べ終えた先生はそう提案した。僕は氷が溶けて薄くなったカフェオレをとっくに飲み終えていた。
「買い物って、何を?」
「天来くんも急なことで、服も何もないですし、ずっと制服というのも嫌でしょう? このまましばらく車で走ってから高速道路をおりれば、近くにショッピングモールがあるはずです。そこで必要なものをまとめて調達しましょう。お金は心配しなくても大丈夫です」
先生はスマートフォンの画面を僕に見せてくれた。それは地図アプリの画面で、現在地をさししめすポインターから一本の道筋が表示されていた。車で約一時間三十五分、とも書かれていた。
確かに、風呂に入るためにタオルもレンタルしたし、シャツもパンツもコンビニの間に合わせのもので、正直心もとない。これから死のうとしているのにわざわざ、という気がしないではなかったが、反対する理由もなかったので「わかりました」とだけ答えた。
トレイや包み紙、空の紙コップを片付けてから、フードコートの外に出る。まだ慣れない黒い軽自動車を見つけて駆け寄った。強くなった日差しのなかでもう蝉が鳴いていた。
高速道路をおりると、そこには知らない街並みが広がってた。ビルはなく、道路脇に路面店がずらりとならんでいる。前や対向車線を走る車のナンバーに書かれている地名は知らないものだった。先生はスマートフォンのマップのナビゲーションを聞きながら慎重に走っている。しばらくすると、遠目にショッピングモールの看板が見えた。
車を立体駐車場に停めてモールのなかへ移動すると、ひんやりと冷たい空気にからだが包まれた。一気に汗がひいていくのを感じながら、夏休みの家族連れの間を縫って先生のあとを追う。周りから見れば、僕たちはどう見えているのだろう。心なしかすこし先生と距離を保ちながら人混みのなかを進んでいく。先生の髪が、右に左にゆれている。先生がふりかえると、新体操部のリボンのようにふわりと曲線を描いた。
「まずはお昼でも食べましょうか。食べたいものありますか?」
食べたいもの。そう聞かれてすぐに思いつかなかった。
思えばここ数年、「食べたいもの」ではなく「食べなくてはいけないもの」ばかり食べていた。陸上部に入部した直後、コーチから「摂るべき食事と栄養素」という紙を渡され、母に渡した。母は眉を寄せて、「こんなの毎日考えるなんて大変だわ」と溜息をついた。それから、家でも、僕だけ、毎日同じメニューが用意されていた。紙に書かれた食事が、そのまま再現されていた。いやいや、わざわざ母が用意してくれたのだ、自分のために。そう思うようにしていた。家族とは違う時間に一人で食べる冷めた食事は、僕の筋肉に変わっていった。いいんだろうか、僕は。食べたいものを、食べて。
「とんかつ、食べたいです。いいです、か」
レストラン街の入り口のいちばん手前に、とんかつチェーン店のオレンジ色の看板が見えたので、指でさししめす。僕らがいるところまで、脂の甘く香ばしい香りが漂ってきていて、家族連れが吸いこまれるように入っていく。彼女は自らの目でとらえたあと、僕のほうをふりかえってしずかに言った。
「はい、食べましょう。たくさん」
久しぶりに揚げ物を食べたせいか、口のなかが甘い脂でコーティングされている気分になった。食事を終え、店を出る。こんなに腹一杯食べたのは、いつぶりだっただろうか。
「さて、天来くんの服を買いにいきましょうか。どのお店がいいですか? 高校生がよく行くお店とかわからなくて」
先生は僕の希望を尋ねてくれたが、自分でもよくわからなかった。怪我をするまで、平日は学校と家の往復、土曜日は部活、休養日である日曜日は家で休むくらいで、ほとんど制服と使い古したジャージしか着ていなかった。素直に先生にそう告げると、すこし考えこんだ様子で辺りを見回す。
「じゃあ、いろいろ着てみますか。天来くんが着たくない服を買っても意味ないですから」
先生は近くのメンズファッションの店に足を運び、どんどんとなかへと進んでいく。僕があわててついていくと、先生はキョロキョロとせわしなく視線を動かし、服を手にとっては僕のほうに掲げ、うーんと考えこむ。たまに、これはどうですか、と僕に聞いてくる。僕ははあ、とか、それはちょっと、とか、歯切れの悪い答えを返す。はあ、のときはカゴにキープし、それはちょっと、のときはハンガーに戻した。まるでいっしょに買い物に来ているカップルのように、僕たちは服を選んでいく。
なんだかまるで、生きなおしてるみたいだ。足を怪我していなかったときのほうが体力もあったし、汗も流していた。あのときに比べると筋肉も落ちた。でも、スタート前にスタンドに見えるずらりとならんだ応援団よりも、屋上からみた夕方と夜のグラデーションよりも、いま視界にうつる雑然とした店内のほうが、綺麗に色づいて見えるのはなぜだろう。
「ジーンズはどうですか? この時期だと暑いかもしれませんけど」
先生が僕に渡してきたジーンズはなんの変哲もない普通のものだったが、僕もこだわりはないのでとりあえず受け取る。サイズがわからないので試着を、と付け加えられ、僕は渋々試着室へ向かった。
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