13 民宿めぶき
整理員の合図を確認してから、先生はゆっくりと車を前進させた。おりるときはバックしないといけないのかと思っていたが、船は前方と後方が開く構造になっており、フェリーから前進しておりられるようになっていた。フェリーと地面をつなぐ渡し板をおりた瞬間、港のコンクリートをタイヤがとらえる。ゆったりと左右にゆれる振動が感じられなくなった。僕が車のウインドウを開けると、フェリーに乗るまでとは違う空気が車内に滑りこんでくる。涼やかで軽い風だった。
港から出て左折し、島の周囲をまわっていく道路を走っていく。運転席側は山の斜面で、いろいろな植物が蔦を巻き、葉をこれでもかと生い茂らせている。もうすぐ道路を飲みこみそうないきおいだ。対して助手席側は錆びたガードレール越しに海が広がり、真上からすこしだけ傾いた太陽の光を水面が反射している。水平線上に、僕らがさっきまでいた対岸の陸地がぼんやりと見えた。
それも束の間、先生は山のほうに分岐する道に右折し、二車線しかない道をどんどん進んでいく。先生はカーナビもスマートフォンも見ていなかった。さっきのフェリーに何度か乗ったことがある、と話していたくらいだから、先生はこの島に来たことがあるのだろう。それも、道を覚えるくらい。先生は迷いなく、前を見つめながらハンドルを操作していた。
右側に、小さな家屋が見えてきたと思ったら、先生はその前の庭に車を停め、エンジンを切った。僕はウインドウ越しに、その家屋を眺める。コンクリートの壁にはところどころ亀裂が入っているが、雑草は綺麗に抜かれており、壁にも蜘蛛の巣や汚れは見当たらず、よく手入れされていることが僕でもわかった。先生はシートベルトを外す。
「車をおりてください。ここがしばらくのあいだの宿になりますから」
僕はもういちど家屋を見たが、どうも宿泊ができるような施設には見えなかった。二階建ての普通の家のようで、ふたつの棟がつながっている。車からおり、玄関先に目を向けると、流木を削ったような板に「民宿めぶき」と彫ってあるのがわかった。先生は車のバックドアを開いて、僕に荷物をおろすよう指示を出す。痛む膝をゆっくり伸ばしてから、僕は言われるがまま荷物をおろす。
「すみません。予約していた葉山ですが」
先生が玄関から声をかけると、建物のなかのどこからか、「はあい」という声が返ってきた。歳若そうな女性の声だ。荷物を抱えた僕も玄関へ行くと、ちょうど部屋の奥から女性が顔を出したところだった。
「すみません、奥で作業していたので気づかず。ようこそおいでくださいました。道はおわかりになりました?」
腰エプロンをつけた、先生よりも小柄なショートカットの女性が出迎えてくれた。頭にはバンダナが巻かれており、Tシャツから伸びる細い腕はよく日に焼けている。化粧っ気のない幼い笑顔が、僕らに向けられる。
「ええ、港から一本道でしたから。車はあの停め方で大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。この数日、お二人以外にお客様もいらっしゃいませんし、他に停める車もありませんから。もうお部屋の準備もできているので、よろしかったらどうぞ。チェックインに必要な書類をお持ちするので、土間に入って待っていてくださいますか」
先生は車の鍵が閉まっているかもういちど確認してから、玄関へ入っていった。僕も後から続く。
するとそこは開けた土間のようになっていた。木製の机がふたつ置いてあり、それぞれに椅子が二脚ずつならべられている。入って右手、土間の奥は一段小上がりになっていて、畳が敷かれていた。そこにも机があり、座布団が置かれている。先生は土間にある机の椅子に腰かけたので、僕もそれにならうように先生の向かいの席に腰を落ち着けた。戻ってきた民宿の女性の手には、バインダーとトレイがあった。
「お部屋に案内する前に、この書類を書いていただけますか? あとこれ、ウェルカムドリンクです」
机の上に置かれた水色と黄色のガラスコップには、透き通るような若草色のお茶と氷が入っていた。赤紫の小ぶりな花がトレイの上の小瓶に飾られており、色の対比でそれぞれが鮮やかに見える。
「このあたりでとれるお茶なんですよ。お花は庭に咲いている夕顔です」
へえ、と自然に声が漏れた。僕はそのお茶を口にする。すこし苦い、けれども鼻から爽やかさが抜ける若い味がする。よく冷えており、喉元をするすると通っていった。ぼうっとしていた頭が、すっきりと冴え渡るようだ。先生も書類に必要事項を手早く書きこみ、女性に書類とペンを手渡してからお茶をすすっていた。
「あらためまして。ようこそ、民宿『めぶき』へ。わたし、女将の相田と申します。ドリンクを飲み終わられたら、さっそくお部屋にご案内しますね」
二人とも喉が渇いていたのか、早々にお茶を飲み終えた僕たちは、部屋に通された。
土間を玄関と逆方向にある扉から外に出ると、建物の外壁に沿うように階段があった。建物と同じコンクリートでできた外階段を、相田さん、先生、僕の順でのぼっていく。どうやら二階が僕たちの部屋だそうだ。鍵を開けてなかへ入ると、そこは畳敷きの、予想通りの年季の入った部屋だった。しかし、ベッドもありソファもあり、インテリアは相田さんの趣味で集められたものなのか、どこかちぐはぐしているのに落ち着いた空間になっていた。部屋の奥側には壁一面の窓があり、相田さんがカーテンを開けると海が見えた。その窓際のスペースには、ガラス天板のテーブルと籐で編まれた椅子が二脚、向かい合うようにしてが置かれている。
「宿から出て行かれる際も、鍵はお持ちいただいて結構です。もし何かあれば、土間のあたりでお声がけいただければ別棟まで聞こえるので、預らせていただくこともできます。あと、お食事はお部屋ではなく土間でお願いできればと思うので、時間になればおりてきていただけると助かります」
別棟は相田さんの自宅兼民宿の事務所だそうで、そちらにあるキッチンで料理を作ってくれるのだという。どうやらこの民宿を、小柄な相田さん一人で切り盛りしているようだった。
「お昼はうかがってなかったので準備していなかったのですが、大丈夫ですか?」
「ええ、いまから行くところがありますから、そのついでに何か買ってきます」
先生はそう答えてから、相田さんと夕食の時間の打ち合わせをしていた。僕は荷物を置いて、その会話を聞きながら部屋を見回す。風呂は土間の隣に増設したそうで、浴室の鍵も先生が預かっていた。部屋の隅には、先ほどの花とは違う大ぶりの黄色い花が一輪、花瓶に生けられていた。何の花かはわからなかったが、花弁を大きく反り返らせておしべとめしべを強調しているように見えた。
「どうぞごゆっくり。島を楽しんでくださいね」
にっこりと笑顔のまま、相田さんは部屋から去っていった。タン、タン、と、小気味よく外階段をおりる音を確認してから、僕は大きく息を吐き出した。先生との関係を怪しまれないか、不安に思っていたからだ。
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