3 契約
彼女の思いがけない言葉に、僕はハッ、と鼻で笑った。自分はこんな冷たい笑い方ができたのか、と思った。「殺してやるから自分を手伝え」だって? 国語のテストなら文脈がつながらないと一蹴されてしまいそうな話だ。
「手伝うって、何を? クラス全員分の宿題でも集めて生物準備室に持っていけばいいですか?」
僕がいま言えるなかでいちばんの嫌味を言ったつもりだったが、先生は動じなかった。それどころか、彼女は山奥に一本流れる滝のごとくしずかで、よどみなく、何ものにもおびやかされない水の流れのようだった。
「いまここでは詳しくは言えません。ただ、法にもとることです」
「法にもとること?」
「平たく言えば、犯罪です」
あまりにあっさりと告げられた衝撃的な言葉に、僕は何も言い返すことができなかった。
僕は昨日まで葉山先生のことを――
「……犯罪って、何をするんですか」
先生の話には疑問が湯水のように湧いてくるが、いちばん気になることを尋ねてみる。
「いまは言えません。天来くんが警察にでも通報してしまったら困りますから」
まあ、犯罪が起こってもない段階で警察に捕まることはありませんが、と先生は付け加えた。ワイシャツの下に着たインナーが、汗で肌にへばりついている。校舎のそばに伸びている幹線道路を通り過ぎるトラックの音がけたたましく響く。混乱している頭をなんとか落ち着けたくて、質問する口が止まらない。
「もし僕が先生の言うとおりに犯罪を手伝うって言ったら、どうやって僕を殺してくれるんですか?」
先生はおもむろに、白衣のポケットから青いプラスチックの板を取り出して顔の横に掲げた。先には銀色のちいさな鍵がふたつぶら下がっており、ちゃりちゃりと音が鳴っている。
「生物室には薬品類をしまっているロッカーがあるんです。ふだんは教師が施錠して管理しています。そこにしまっている薬品のなかには、ひとのからだに悪い影響を与えてしまう劇薬もあります。それを使うんです」
馬鹿げてる。そう思った。でも、心のどこかで「目の前にいる葉山先生が言っていることは嘘ではないのではないか」と思ってしまう自分がいる。ふだん授業をしている先生の姿を思い出すと、生徒の冗談にも真面目に返して場をしらけさせてしまうような人だ。ほとんど話したことのない僕でも、先生が決して冗談を飛ばす人間でないことはわかる。なんと返せばいいのかわからず、乾いた唇をなめることしかできない。
「何を迷うんです?」
はっきりと耳に届いてきた先生の声に、思わずひるんだ。宙を見つめていた視線を戻し、先生をもういちど見つめなおす。屋上に姿を現してから何も変わらない、教科書を読んでいるときと同じ乾いた目だった。引き結ばれていた先生の薄い唇が開く。
「どうせ死ぬのなら、最期に何したっていいじゃないですか」
そうこぼした先生の目がいっそう鋭くなる。人間、死ぬのなら最期は潔くとか、善いことをしてからとか、そういう言葉を聞いたことはあるけれど。誰の口からも聞いたことのない死神の誘惑のような言葉を、真面目が人のかたちを成している先生が言い放つ。フェンスを固く握りしめていた手をほどくと、手のひらと指の関節には赤くフェンスの跡と錆がついている。僕は両手をはたきあわせ、錆を落とした。
屋上の縁に座ってフェンスにもたれかかったまま、星が輝き出した夜空を仰いだ。ここに、父がいたら。母がいたら、兄がいたら、陸上部のコーチがいたら、クラブメイトがいたら。あの哀れみの目で、「死ぬのはやめておけ」とか「とりあえず話そう」とか「危ないからこちらへ戻ってこい」とか言うのだろうか。僕の包帯に巻かれた膝を見て、以前のように走れない僕を見て、さんざん溜息をついたあの口で。
少なくとも、葉山先生は違った。何も言わなかった。いつもの無機質な目で僕の目を見た。僕の気持ちなど理解しようとせず、「殺してあげる」と言ってくれた。否定せず、理解しないまま受け止めてくれたことに、僕はなぜかすこし安心したのかもしれない。
僕は校舎の縁から足を踏み外さないように、慎重にその場に立ち上がった。そして先生のほうにゆっくりと向き合う。いつも教壇で黒板に板書しているから気づかなかったけど、先生の背丈は僕の肩よりも低かったのか。フェンスを挟んで、先生は僕の言葉をしずかに待っていた。
「絶対ですか」
僕の問いかけに、先生は首をかしげる。その拍子に彼女の肩に引っかかっていた黒髪がするすると流れていった。質問の意図が伝わらなかったようだ。僕は陸上部を辞めてから切っていない、中途半端に伸びた髪をかきあげて言い直す。
「先生がいまからやろうとしてることを手伝えば、絶対……僕を殺してくれますか? 先生の、その手で」
「ええ」
彼女は間髪入れずに返事をした。生ぬるい風が二人のあいだをすり抜けていく。
「必ず天来くんを殺します。私のこの手で」
先生は右の手のひらをこちらに向けた。何か、自分の意志を貫き通すことを宣誓しているかのようだ。
これは契約だ。頭のイかれた高校教師か、はたまた悪魔か、死神か。どれかはわからないが、僕は目の前に立つ彼女と契約を結ぶことにした。僕もフェンスにもういちど右手を絡ませて誓う。
「わかりました。手伝います。だからそれが終わったら必ず、僕を殺してください」
フェンス越しの先生は、ふ、と優しく微笑んだように見えた。それは、初めて見た先生の笑顔だったかもしれなかった。
「はい、必ず」
夏の夜の湿った香りと先生のささやかれる声に、僕は酔いそうになっていた。
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