2 交換条件



「死のうと思ったのは、怪我をしたからですか?」


 先生はためらう様子も見せず、土足で僕の触れてほしくない場所に踏みこんできた。瞬間、こめかみの奥がカッと熱くなる。フェンスを握りしめている両手の指に、錆びて塗料のはげた細いワイヤーが食いこんだ。



「そうですよ。先生も知ってるでしょう。大事な春の大会で怪我して入院して。死ぬほどリハビリ頑張ってやっと退院して登校したら、陸上部のヤツらもクラスメイトも、コーチも教師も『天来はもうダメだな』って、石ころ見てるみたいな目で僕を見るんだから。校舎にかけられていた僕の大会の優勝垂れ幕も、先生たちでわざわざ取り外してくれたんですよね? 垂れ幕を見た僕が傷つくといけないからなんて、職員会議でも話したんじゃないですか?」



 土石流のように言葉が口から流れ出たせいか、グラウンドを走ったわけでもないのに僕は肩で息をしていた。


 
リハビリを終えて久しぶりに登校したあの日。まだすこし痛む膝の熱を感じながら、スラックスに足を通したあの日。早まる鼓動をおさえながら、徒歩で学校に向かっている途中、部活がいっしょの浦野の背中が見えた。ストレッチするときに癖のある短髪の上につけている赤いヘッドホンが見えたからだ。僕は登校している生徒たちのあいだをなんとかすり抜け、浦野の肩をポンと叩く。ふりかえった浦野は驚いたように口を開けた。



「はよ」

「天来、今日からだったんだ」



 すこし背の低い浦野は、僕の顔を見上げながらヘッドホンを取った。髪がヘッドホンの形に沿ってうねっている。



「足、大丈夫なの」



 浦野は視線を下に向けた。正確には、大袈裟にサポーターが巻かれた僕の膝に。反射的に「ああ、大丈夫」と答えた。浦野はパッと僕から視線をそらし、前を歩く学生たちの背中を見て「へえー」と、うわずった声で相づちを打った。クラスの違う浦野とは下駄箱で別れて以来、それから話をすることはなかった。「良かったじゃん」でもなく、「今度は負けねえからな」でもなく、「へえ」とだけ言われたことで、僕はもう浦野にとって過去の人になったのだと思い知らされた。



 浦野だけではなく、周りの人々みんなが僕と陸上の話をすることはなかった。避けられているのが、肌に爪を立てられるくらい明白だった。陸上しかなかった僕に、陸上以外の話をふられることはなく、徐々に人との距離がひらいていくのを僕は止められなかった。



 それから、僕は膝にサポーターをつけずに、テーピングで固定するだけになった。僕を見る人々の目には何が映ってるのだろうかと、それが気になるようになってしまったからだ。全国に名を知られた僕の過去の栄光か、膝がまともに動かなくなった僕への憐れみか。それを考えてしまう自分が嫌で、僕は人の顔を見れなくなり、自分の足元を見て歩くことしかできなくなった。


 こうして校舎の屋上から飛ぼうとしているいまも、僕はスニーカーに包まれた自分の母指球を見つめることしかできない。




「こんなことを言うのもなんですが、ここからの飛びおり自殺はやめておいたほうがいいかと思いますよ」



 先生はしずかに切り出した。僕は何も言わず眉をしかめて先生を睨む。おまえに何がわかるというんだ、という、僕のものではない、誰のものかわからない怒気をはらんだ低い声が、頭のなかで響く。



「まず、高さが足りません。人が飛びおりてほぼ確実に死ねる高さはおよそ四十五メートル以上と言われています。この校舎は五階建てなので、二十メートルもありません。飛びおりた先はアスファルトが敷かれた駐車場ですが、校舎のそばは植樹されているので、下手すると樹がクッションになってしまいます。その上に落ちると死ぬのではなく生きのびて重傷を負う可能性が高くなり、後遺症が残るなどして、自分の手では死ぬことができないまま余生を過ごすことになるかもしれません」



 先生の手は、まるで授業中のように説明の言葉に合わせて舞っていた。僕は彼女の手ぶりを目で追いながら、理路整然とした説明をしずかに聞いていた。


 生徒が屋上から飛びおりようとしているこの状況で、先生は取り乱した様子が微塵もない。先ほどまで僕のからだのなかで溶岩のようにドロドロと流れていた得体の知れない怒りが、空気に触れて醜く固まってしまった。かかとが接着剤で固定されてしまったかのように、僕は一歩もそこから動けない。乾いた唇で声をしぼりだす。



「じゃあ、どうしろって言うんだよ……」



 背中をフェンスに預けながら、僕はずるずると腰をおろした。以前のように走れもしない、屋上から飛べもしない。そんな僕に、どうしろっていうんだ。折り曲げられた膝が軋んで、鈍い痛みが走った。テーピングを巻かれた膝を覆うスラックスが、不恰好なシワをつくる。屋上だからか、いつもよりも強い風が否応なしに僕を横から叩く。膝をかかえた腕に顔を埋めていると、背後から大きく息を吸う音がした。



「どうしても死にたいなら、ひとつ方法がありますよ」



 その言葉はやけに僕の耳にクリアに届いた。埋めていた顔をあげ、僕は先生に視線をやる。



「……方法?」


「私が、天来くんを殺してあげます」



 屋上に吹きすさぶ風の音で、僕は聞き間違えたのだと思った。フェンス越しに、先生と目が合ったまま動けなかった。彼女は僕の返答を待たずに続ける。



「そこから飛びおりるよりもはるかに楽に死ねる方法で、私が天来くんを殺してあげます」


「……どうやって、」


「その代わりに」



 僕の言葉を制して、先生はまっすぐに僕のことを見つめていた。久しぶりに見た人間の目の奥には、熱が宿っていた。先生は僕からひとときも目を逸らさず、風になびく前髪を耳にかける。



「その代わりに、これから私がすることを手伝ってください」


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