白砂を抱く

高村 芳

1 母指球

 遥か遠く、ビルとマンションのあいだで、夜が夕焼けを飲みこもうとしていた。僕はそれをぼんやりと眺め続けている。からだにまとわりつく暑く湿った空気のなかで、陸上部のコーチの言葉を思い出していたからだ。




 高校に入学したての、まだグラウンドの隅っこのほう、桜の花びらが風で舞っている頃のことだ。朝から昼過ぎまでこれでもかと走りこみを続けたあと、まだ呼吸があらいままタータンの上に座りこんで肩で息をしていると、サングラスをかけたコーチが、浅黒い顔でこちらに近づいてきた。僕の上にコーチの影が落ちる。



「いいか、天来あまらい。短距離走はいかに足を速く前に出すかだ。簡単なことだろう? 太ももの筋肉をフルに動かして、からだの前に膝から下を大きく踏み出したあと、かかとから着地する。そのまま足の親指の根元、母指球といわれるところだ、その母指球に力を伝えて、からだを前にスライドさせて一歩踏み出す。この繰り返しだ。自分で自分の足先までコントロールする意識を持て。母指球に力を入れれば自然と前に踏み出せる。わかったか」



 コーチは歳のわりには均整のとれたふくらはぎの先、蛍光色のスニーカーが包む親指の付け根を指差して大きな声を出す。僕はそれにつられるように、息を吸って肺にめいっぱい空気を送りこみながら、大きく「はい」と返事をした。意味がわかろうがわからまいが、腑に落ちようが落ちまいが、コーチの言葉は絶対だからだ。僕はゆっくりと息を整えながら、その言葉を血液に乗せてからだの隅々まで運んで循環させた。それからというもの、走るときには頭のなかで繰り返し唱えるのが癖になっていた。



 母指球に力を入れて一歩踏み出す。


 母指球に力を入れて一歩踏み出す。



 地面に触れる、その一点。母指球にすべての神経を集めるように、僕は走り続けた。春も夏も秋も冬も走った。いつしか、母指球が相棒のように感じられるようになった。陸上は、走ることは、僕のすべてだ。僕が僕でありつづけるための行為だ。そう思って、これからの人生、陸上で食べていくことを信じて疑わなかった。ゴールテープを切り続ける覚悟を決めていた。

 それなのに、春のあの日、すべてが砕け散ったのだ。





 校舎の屋上、縁にぐるりとはりめぐらされたフェンスの外側に立つ僕。汚れたスニーカーで包まれた爪先は縁からはみでて、宙に浮いている。その下はコンクリートのようだが、校舎の影で暗くなっていてよくわからない。風が強くなってきた。空がゆっくりと、だけど確実に藍色に塗りつぶされていく。
自分の爪先を見つめながら、口に出して相棒に話しかけてみた。



 なあ、一歩、踏み出せるか?



 スニーカーのなか、母指球から返事はなく、足はピクリとも動かなかった。いま自分のかかとにかかっているチカラを母指球に伝えれば、僕は一歩、前に踏み出せるはずだ。後ろ手でフェンスを握る手のひらに、じんわりと汗をかいていた。



 ごう、と風が吹き、制服指定のモスグリーンのネクタイがパタパタとなびく。まるで誰かに宙へ引っ張られているかのようだ。違う、やめてくれ。僕は、自分の意志で踏み出したいんだ。自分で、終わりにしたいんだ。風に抗おうと身をよじると、右の膝に針を刺されたような痛みを感じた。「痛っ」と思わず声がもれ、眉をしかめる。その痛みを皮切りに、僕のなかで霧がかかっていた黒い感情がふつふつと煮出されていく。


 そうだ。もういいじゃないか。僕はもう疲れたのだ、楽になりたいのだ。こめかみの汗があごに伝うのがわかった。ごくん、と喉が鳴る。目をつむると、鼓膜のそばで風の音が強くなったり弱くなったりする。天を仰ぐ。星はまだ出ていなかった。これが最期に見る景色だ。両足のかかとから母指球にゆっくりと重心を移動しようとした、そのときだった。




 背後で屋上の扉がギィ、と軋んだ音をたてた。



「天来くん」



 同時に呼ばれたのは僕の名だ。その呼びかけのせいで、僕の膝は曲がらなくなった。息が止まった。今日は夏休みのお盆前日の夜で、昼までやっていた部活動は終わり、もう誰も学校にいないはずだった。屋上に続く階段で、ただひたすら息を潜めてこの時間まで誰とも会わずにいたのに。なぜ、ここに人が。すっかりあたりは暗くなっていたので、ふりかえりながら目を凝らし、声の主の姿をとらえる。


 視界に広がったのは、白色だった。白衣が風ではためいている。生徒ではない。



「天来満あまらいみつるくん、でしょう? そこで何をしているんですか?」



 もういちど聞こえた声と口調で、僕は声の主が誰だかわかった。僕の学年の生物の授業を受け持つ、葉山はやま先生だ。履き潰されたパンプスの低いヒールをコツコツと鳴らしながら、フェンスの外側に立つ僕のすぐそばまで歩いて近寄ってくる。後頭部の低い位置でひとつにまとめられた艶やかな黒髪と、外灯の光を反射する遊びのないシンプルなフレームの眼鏡の形が暗闇のなかにはっきりと浮かび上がり、やっぱり葉山先生だと確信をもつ。


 しまった、と思った。こんな時間に先生に見つかるなんて、想定外だ。わざわざ見つかりにくい日と時間を選んだのに。口のなかで苦い味がじわじわと広がっていった。



「そんなところにいると、危ないですよ」



 先生の言葉には、まったく焦りや憐れみが含まれていなかった。まるで、道路の縁石の上をふざけて歩く子どもに声をかけるような、そんな雰囲気だ。いま僕がいるのは、五階建ての校舎の屋上、安全のために張り巡らされたフェンスの外側なのに、だ。この状況で焦ってしまったら、僕のほうが馬鹿みたいじゃないか。声が震えないよう、精一杯見栄をはる。



「先生こそ、夏休みなのになんでこんな時間にいるんですか?」



 僕が背中をフェンスにしずかに預けると、カシャン、と音をたててフェンスがたわんだ。肩越しに、葉山先生のほうに視線をやる。先生は相変わらずの無表情だった。授業中、あの無表情が崩れた場面を僕は見たことがない。


「教師は今日まで出勤が義務付けられています。私はすこし片付けが残っていたので、こんな時間になってしまいました。そろそろ帰ろうとしたら、教員用の駐車場から偶然、人影が見えたので、階段をのぼってきたんです。天来くんは何してるんですか? そんなところで」



 先生は声色を変えることなく、先ほどと同じ質問を投げかけてきた。ドクンと、自分の鼓動が耳元で大きく響く。



 明日からお盆だから人に見つかりにくいだろうと考え、タイミングを見計らって今日、屋上から飛びおりることにしたのが裏目に出たようだった。ガラスのように無機質で鋭利な先生の回答に、「そうですか」とだけ相づちを打つ。もういちど足元に目をやる。確かに眼下の駐車場には一台、小さな黒い軽自動車が停まっていた。黒い車体が夜にまぎれて、さっきは気が付かなかった。息を、大きく吐き出した。喉が震える。


 僕の陳腐な計画はどうやら失敗に終わったらしい。胸のなかで渦巻く感情が、まぶたへと押し寄せていく。僕はその流れを堰き止めようと必死になっていた。喉が震えているのが、自分でもわかった。



「何してるんですか、って。ここから飛びおりようとしてるんですよ、死のうと思って」



 あふれて、しまった。



 開き直りもいいところだ。ああ、なんて間抜けな話だろう。死のうと思って人に見つかるなんて。僕はただ一歩さえも踏み出すことができない。あれだけグラウンドのトラックで練習してきたのに。ゆるく締めていたネクタイが風に引かれて、苦しい。使いものにならない右膝が、キシキシとかすかに軋んでいた。

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