4 夜の出発

 契約を結び終え、僕はフェンスをよじのぼる。フェンスはなんとも頼りなく、網目に足をかけるたびにたわみ、わなないた。やっとのことで僕がフェンスの内側に戻ったのを見届けてから、先生は風に髪を遊ばせながら扉へと歩いていく。



「さあ、さっそく行きましょうか」


「行く、って」



 どこに? と尋ねる前に、先生は僕の言葉を待たずに答える。



「出発する前に、生物準備室に寄りましょう。取りに行くものがありますから」



 先生のあとについて階段をおり、校舎の二階の東端にある生物準備室の前に来た。先生は慣れた手つきで準備室の鍵を開ける。たてつけの悪くなった扉がひかれた瞬間、薬品と埃の臭いが鼻についた。彼女は手さぐりで照明のスイッチをつけ、部屋の奥へと進んでいく。僕は扉のところで立ち尽くしたまま、その様子を見つめていた。



 あかりがついているとはいえ、夜の生物準備室はやっぱり不気味だった。虚空を見つめる人体模型に、棚にならんだ得体の知れない色とりどりの薬品類、苦しそうな表情でホルマリンに浸かっている小動物たち。順番に目で追っていると、最後には骨格標本と目が合ってしまった。歯ならびの良い顔をこちらに向けている。笑っているのか泣いているのかわからない、黄ばんだ骨の集合体は、どこか僕を問い詰めているかのように見えた。



 先生に視線を戻すと、彼女はロッカーの鍵をしずかに開けていた。ロッカーは古いもので、僕が持ち上げればロッカーごと持ち出せるのではないかと思うほどに小さい貧相なものだったが、鎖で窓際の手すりにつながれている。そこから、先生がひとつの小瓶を取り出した。チカチカと不規則に音をたてる蛍光灯の光を反射して、ガラスが鈍く光る。白いような、すこし黄色がかったような粉が入っていた。



「これが、先ほど話していた劇薬です。天来くんを、殺すための」



 面と向かって人に「殺す」と言われることに慣れていないからか、からだが無意識にこわばったのがわかった。あの粉を舐めれば、僕は死ぬのか。



「苦しいんですか」



 死ぬのは怖くない。でも、苦しいのは嫌だ。いままで散々苦しい思いをしてきたんだ。これ以上苦しみたくなんてない。痛覚も無くして、あの薬品の溶液のなかでからだが徐々に溶けて消えてなくなればいいのに。わがままだとは自分でもわかっているが、本音はそうだった。



「眠るように死ねるみたいですよ。不思議ですよね。こんなので、人間は簡単に死んでしまうなんて」



 先生は僕に話しかけたのだろうか、それとも独り言を言ったのだろうか。本当に眠るように死ねるのだろうか。だって眠るように死ねるという話は死んだ人の感想じゃなく、生きている人間の考察なのだ。本当は苦しんで死ぬのかもしれない。でもそれは、先生に訴えてもしかたないことだから、僕はそのまま何も言わなかった。彼女は小瓶を、まるで大切なもののように白衣の胸ポケットにそっとしまった。




 忍ばせておいた靴を履いて先生といっしょに教員用玄関から外に出ると、夕方よりも風がいっそう強くなっていた。しかし、アスファルトから放たれる熱でいっこうに気温は下がっていないようで、蒸された空気が一気にからだじゅうにまとわりつく。先生は僕を先導して教員用駐車場に向かった。普段立ち入ることのない駐車場には、先生の黒い車だけがひっそりと持ち主の帰りを待っている。見上げると、ついさっきまで僕が立っていた校舎の縁が見えた。


 先生が車の助手席側のドアを開ける。



「どうぞ。狭い車ですけど」



 無意識に「いえ」と答えていたが、おそらくどこの誰が見ても狭い車だった。背丈は僕の胸あたりまでしかなく、腰をかがめて滑りこむようにシートに座らなければなかった。後ろの座席(座席といっても僕は決して乗りこめないようなスペースしかない)に鞄を置く。助手席に僕が乗りこむのにあわせて、車体がすこし左右に揺れた。車内はサウナのように熱い空気が充満しているのに、すっきりとした柑橘系のフレグランスが置かれているのか爽やかな香りがして、どこかちぐはぐだ。フロントガラスから見る景色は小さく四角に切り取られていて、モニターを通してゲームの世界を見ているような気持ちになった。見慣れた街並みのはずなのに、人通りは少なく、商業ビルの看板が自己主張するようにどぎつく光り瞬いている。



 先生はいつのまにか運転席に乗りこんでおり、シートベルトを締める。



「足、大丈夫ですか」



 先生のその言葉に、僕はドキッとした。ダッシュボードの下に折り畳んで収納した膝に負担がかかっているのを見透かされたのかと思った。膝に巻いたテーピングが汗でゆるみ、曲げられた膝の上に不自然に寄ってしまっているのが、直接見なくても感覚でわかる。それを彼女に悟られるのは嫌だった。



「大丈夫です」



 先生はそれ以上僕を追及することもなく、車の窓を開けてからゆっくりと発車した。


 学校の門を抜けたあと校舎の横を通る幹線道路を左折し、ビルと住宅がならぶ街の隙間を縫うように進んでいく。ぬるい風が、僕の伸びかけた前髪をもてあそぶ。車のまるい瞳から放たれるライトが、前を進む車の後ろ姿とアスファルトを照らしている。そういえば、先生の車に僕が乗っているのが生徒や知り合いに見つかると良くないんじゃないか? と思ったが、先生は気にする様子もなかったので、僕も何も言わなかった。



「これからどこに行くんですか」



 まだ行き先を聞いていなかったと、いまさら思い出した。彼女は丸眼鏡に夜の街並みを映しながら車を走らせ続ける。



「ある島へ。着くのは明後日です」


「明後日? そんなにかかるんですか?」



 そんなに移動に時間がかかるとは思っておらず、声が大きくなった。僕が持っている荷物は、学生鞄に入れたスマートフォンとわずかばかりの金が入った財布とタオル一枚くらいのもので、スマートフォンの充電器すら持ってきていない。先生はフロントガラス越しに後ろを走る車を確認していた。



「ええ。ここからずっと、ずっと西にある島まで行きます」



 お金や着替えなんかは心配しなくていいです、途中で調達します、と、先生はそれっきりまたしずかに運転を続けた。なんていう島なのか、そこには何があって、そこでは何をするのか。いろんな疑問がよぎる。けれど尋ねても先生はそれ以上答えないだろうという確信があった。授業中の質問にも、過不足なく先生は答えるからだ。先生があれだけしか答えなかったのであれば、いまの僕にそれ以上伝える必要はないということだろう。僕もそれ以上なにも聞かず、ただただ窓の外を眺めていた。大きく表示された緑色の看板に沿って、道路脇に伸びる坂道を苦しそうに車が駆け上がっていった。料金所が見え、そこから高速道路に乗るのだとわかった。

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