第2章 クライム
第6話 被害が拡大する前に
「ふうん、なるほどね」
歴史学とは過去の出来事を現在の視点から解釈する学問であるからして、
理玖が本を持って、事務室に設置したパーテーションから顔を出すと、
「直弘、それは読んだのか」
「……理玖さん。はい、たった今」
「それは……いつもは支部長室にある本だね」
「はい。
「私もたった今、昌史さんに借りた史料を読み終えた所だ。一緒に返しに行こうか」
「はい」
そういうわけで、理玖たちは支部長室に行ったのだが、肝心の昌史はパソコンを前にして頭を抱えていた。
「どうしたんです、昌史さん。またファイルが行方不明になったんですか」
「いや、そうではないよ。頂いたメールで、また寄付金の額を減らしたいという話があってね……。この調子で各所からの寄付金がなくなると、君たちの給料が支払えなくなってしまう」
「へえ。しかし、もうじき多額の寄付が見込めるではありませんか。うちの姉が財界のボンボンを捕まえて、婚約まで漕ぎつけたんですから。それに父だって、母のためならこれからもほいほい金をつぎ込みます」
昌史は何とも言えない表情で理玖を見た。
「
「あのですね。私も姉も、自分の意志でやっているんです。昌史さんが気に病むことではありません」
「……でもね、理玖さん。君は決してリペアラー向きの性格ではないだろう」
これを聞いた理玖は、険しい表情で、机に手をついて昌史に迫った。
「どういうことですか。私はきちんと仕事をこなしていますよね。どうしてそんな悪口を言われなくてはならないんです?」
「今のは決して悪口ではないよ。分かっているだろう」
「昌史さんにとっては違っても、私にとっては侮辱も同然ですよ。私は誇りを持ってこの仕事をしているんですから」
昌史は困り顔で黙ってしまった。しばしの沈黙を破ったのは、直弘の遠慮がちな声だった。
「あの、その、俺たちは、寄付金でしか仕事が出来ないんですか? それって、凄く不安定ですよね。こっちは半ば慈善事業なんですし、それこそ政府とか国際機関に、お金を出してもらうとかは……」
理玖と昌史はいっとき顔を見合わせてから、揃って破顔した。
「ふふっ。政府はいけないよ、直弘くん。そんな所からお金をもらっては、大変なことになってしまう。彼らの都合の良いように歴史改変を許容しなければ補助金を減らす、と言ってくること間違い無しだからね」
「うん。国際機関だって似たようなもんだ。世界のどこの国のどこの為政者にも、揉み消したい過去など山ほどある」
「だからね、この界隈のことを知る政府関係者は、みんな
「そ、そう、ですか……。すみません、余計なことを言いました」
直弘はしゅんとした。やはり彼は、尻尾を巻いて項垂れた仔犬に似ている、と理玖は思った。
「別に気にしていないよ。そんなことより昌史さん。私たちは本を返しに──ん?」
理玖は言いかけて、机上に置いてあるゼロ・ノートの異変に気付いた。
「昌史さん、落ち込んでる場合じゃないです。ノート光ってます」
「おや、私としたことが見落としていた。どれどれ……」
昌史は赤い光が漏れ出ているページを開いて、ざっと内容を確認した。
「一九四〇年七月の時点で、既に史実が大幅に逸れているのを確認できる。関東地方南部を中心に、無数の家族構成の変化がある。そして特徴的なのは、在日朝鮮人にまつわる変化だね。人口がやや多くなっているし、婚姻関係も複雑に変貌しているよ」
「うーわ」
理玖は大袈裟に肩を落としてみせた。
「またそんなセンシティブな事件を……」
「センシティブであればある程、変えたい者がいるんだよ」
「そりゃそうですけど。はぁ」
「あの」
直弘が不安そうに理玖と昌史を見た。
「つまりこれって、関東大震災に関する歴史が改変されたってことですか」
「うん。その可能性が極めて高いよ。よく分かったね」
理玖は褒めた。
一九四〇年で変化が出たのなら、歴史改変があったのはもう少し前のことだ。その辺りの時代で、関東南部や在日朝鮮人に影響が出た、という情報から推理するに、一九二三年──大正十二年の九月一日に発生した、関東大震災で何かが起きたと考えるのが妥当である。
「今回のチェンジャーは、政府関係者の可能性が非常に高いですが、
「新規の愉快犯の登場でないならば、十中八九そのどちらかだろうね。……今のところ、韓国支部からの連絡は無いが……被害が拡大する前に、対処して来てくれるかな」
「了解。すぐに準備します。直弘、おいで」
「はっ、はい」
理玖と直弘は本を机の上に置くと、ばたばたと事務室に戻った。理玖は無造作に棚を漁ると、男物のハイカラな帽子とコート、それから黒の袴を出して、ぽいぽいっと直弘に放り投げた。
「今回はこれ。裕福な紳士の姿。着方は分かるか」
「はい。練習しておきました」
「よろしい。私も準備に入ろう」
理玖はこれまたハイカラなお嬢様風のワンピースを棚の奥から引っ張り出して、大急ぎでパーテーションの向こうに行った。
十数分後、理玖と直弘はすっかり準備を整えて、控え室に立っていた。
「あの、今回はいつのどこに?」
「チェンジャーがある程度は絞れているから、とっとと一九二三年の東京に行こう。とはいえ震災や火災に巻き込まれては堪らないし、調査のための時間も欲しいから、少し間を置いて九月五日としておく」
「分かりました」
理玖は、昌史から預かった旅行時計を手に、直弘と共に過去へと飛んだ。
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