少女性感冒

皐月咲癸

本編

 チャイムの音が鳴り、4時間目の授業が終わる。


 私は授業を受けていた中学二年生たちに宿題を指示し、教室を後にした。

 向かう先は職員室。今年の春に赴任してきたばかりの職員室は、2か月たった今でも少し慣れない。

 今日は午後の授業がないので、少しは気が楽だ。


 私は昔から、流されやすいたちだった。周りのいっていることに迎合して、自分の意見を主張することはほとんどない。

 そんな私でも、中学時代の恩師にあこがれて教育学部に入り、こうして中学教師になれた。友人に恵まれたことが唯一の救いだった。


 最初の赴任先では、教育実習をしていたとはいえなかなかうまくいかず、よく学年主任の先生や先輩の社会科の先生に迷惑をかけてしまっていた。

 たくさんの失敗をしながら様々なことを学んで、今年の春、この学校に赴任してきた。


 前の学校で積み上げてきたものを活かして、今度こそいい先生になろう。そう考えていた。

 しかし自分を変えるというのは難しいもので、今の学校でもなかなか思うようにはいっていなかった。


 前の学校は比較的おとなしい生徒が多かったが、この学校はやんちゃな生徒が多いのだ。そのため、流されやすい私は早々に生徒たちになめられてしまっていた。

 さっきの授業も、明らかに話を聞いていない子が半数以上いた。他の授業でも多いと聞くが、職員朝会のあと学年主任の先生から呼び出しで注意を受けた時に、私の授業では特に多いと言われてしまった。


「はぁ……」


 自然とため息が出る。気持ちが自虐的になりかけている。

 こんな時は、決まって行くところがあった。


 それは保健室だ。


 いつも保健室にいる養護教諭のミホ先生は、スクールカウンセラーの資格を持っているらしい。

 カウンセリング能力のおかげか、彼女と話をすると私の陰鬱な気持ちも吹き飛んでしまうのだ。


 ミホ先生とは、この学校に赴任したときに行われた歓迎会で仲良くなった。

 ミホ先生は私よりもいくつか年上だが、この学校は先生の人数が少なくて同じ世代の同性の先生は彼女だけだった。そんな環境だから、私たちはすぐに打ち解けた。


 職員室に戻り、さっきの授業のまとめをしつつ、仕事を片付ける。

 一区切りつけると、昨日の残り物を詰めたお弁当を持って保健室へと向かう。


 保健室にはミホ先生ともう一人、サクラさんという女子生徒がいることが多い。

 ミホ先生から聞いた話では、詳しくは知らないが彼女には事情があり、一年生の頃から保健室登校をしているらしい。現在、保健室登校をしている生徒はサクラさんだけだ。


 なぜ直接本人から聞かないのかというと、サクラさんはとても無口だからだ。

 私はこの二か月で両手で数えきれないほど保健室に赴いているが、彼女がしゃべったところを一度も見たことがない。

 彼女はいつもうつむきがちで、私が保健室に行くと、そそくさと奥のパーテーションに身を隠してしまうのだ。

 わかりづらいが必ず会釈はしてくれるので、悪い子、というわけではないのだろうけど。気難しい生徒のようだ。


 保健室の扉を開けると、今日はサクラさんはいたもののミホ先生はいなかった。

 

「ミホ先生がどこに行ったかわかる?」


 私はこのとき、はじめてサクラさんに声をかけた。


 声をかけられたサクラさんはしばらく固まったのち、顔をしっかりこちらに向けて、か細いながらもはっきりとこちらに伝わる声で答えた。


「先生なら、でかけてます。二時くらいには帰ってくるそうです」

「あ、そうなんだ。それじゃあ、いったん戻ろうかな」

「いえ、チヒロ先生が来たら、戻ってくるまで待ってていいって伝えてほしいと言われました」

「そっか。なら、お言葉に甘えて残っておくね」

「はい……」


 この時私は、はじめてサクラさんをしっかりと見た。

 整った目鼻立ちと、小さいながらも綺麗で芯のある声。

 とても、暗い雰囲気をたたえて保健室登校をしている生徒とは思えなかった。


 私は、さんざん顔を合わせておきながら初めて話す生徒に少し緊張していた。

 彼女のほうをうかがうと、どうやら勉強をしていたらしい。しかもちょうど、社会科の教科書が開かれていた。

 いつもはすぐに隠れてしまうためなかなか話す機会がなかったが、今がそのチャンスだ。私は思い切って話しかけることにした、


「社会を勉強していたの?」

「はい」

「そっか。私、社会科の教員だから、わからないことがあったら何でも聞いてね。サクラさんの力になれると思うよ」

「ありがとうございます……」


 サクラさんは礼を言うと、少しうつむいた。

 何やら思案しているらしい。社会科のことで聞きたいことがあったのだろうか。


 私は焦らずに、彼女の反応を待つ。こういう時に焦ってこちらからぐいぐい行っても逆効果なのは、この数年間で身に染みたことだ。私にはそういう方向の才能はない。


 しばらく逡巡したようなのち、サクラさんは顔を上げた。

 綺麗で大きな瞳から放たれた視線が私を射抜く。


「あの……。先生は、大人ですか?」

「……え?」


 その質問は、想像の埒外だった。


「だから、先生は、大人ですか?」

「ま、まあ、成人もしているし、社会に出て働いてお金を稼いでいるから、大人なんじゃないかな」

「そう、ですよね。先生は、間違いなく大人だと思います」


 そういうと、サクラさんは黙った。まだ、何かを考えているようだ。


 それにしても、『先生は大人ですか』か。

 私は教員になるくらいには社会科が好きなので、当然倫理も夢中になって勉強した。

 だから、そういった抽象的な問いを考えることは学生時代からよくやっていたことだ。

 そう考えると、確かに社会科の教師に投げかける質問といえば、そうかもしれない。


「サクラさんは……大人なの?」


 私は逆に質問してみた。彼女がどのような考えで今の質問をするに至ったか、気になったのだ。

 

 サクラさんは私から逆に質問されるとは思いもしなかったのか、一瞬驚いたように固まった。

 しかしまた少し考えこむと、顔を上げて口を開いた。


「わ、わたしは……、大人じゃない、と思います……」

「どうして?」

「わたしは、まだわたしを見つけられてないから、です」


 彼女の中にすでにあったのだろう。その答えは、とてもスムーズに出てきた。


「私を見つける……。それはずいぶんと難しいね」

「はい。だから、早く自分を見つけて大人になりたい……です」

「そっか。サクラさんは大人になりたいんだ」

「はい……」


 早く大人になりたい。

 思春期真っただ中の中学生としては、割とポピュラーな心理だ。


 小学校を卒業し、自由が増える。小学生よりは確実に大人として扱われているはずなのに、一方で世間的にはまだまだ子供として見られもする。

 こういう時、こちらの意見を押し付けては逆効果だ。こちらの意見を押し付けるということは、サクラさんを子供として見ていることと同義だからだ。これが原因の失敗を何度もしてきた。


「それじゃあ、サクラさんが大人になれるように、先生ができるだけ手伝ってあげるね」

「……え?」

「サクラさんが自分を見つけられるように、先生もできるだけ手伝ってあげるよ。そしてサクラさんが自分を見つけられれば、晴れて私たち大人の仲間入りだね」

「あ……。そう、ですね」


 こういうときは、生徒の望みの手伝いをするほうがいい。

 悩みとは、結局のところ自分自身で解決しないと意味がないのだ。


 ミホ先生も、私が相談したときはよくこうやって手を取ってくれる。私のはそれの真似事にすぎないが、それでもサクラさんが前に進む手助けになるならお安い御用だ。


 なぜなら私は、先生だから。


「先生にできることならなんでも手伝ってあげるから、遠慮せずに言ってね」

「わかり、ました……」


 そういうと、サクラさんはまたうつむいた。

 どうやら彼女は、考え事をするときほどうつむくらしい。


 しばらくして、サクラさんは顔を上げた。


「先生は、なんでもしてくれる?」

「うーん、なんでもってわけじゃないよ。先生一人にできることは、そんなに多くはないからね。でも、先生にできることだったらたいていのことはしてあげたいな」

「そうですか。……それじゃあ」


 サクラさんはそう言うと立ち上がった。

 そのまま無言で、テーブルの反対側に座っていた私のほうに歩いてくる。

 そして私の真横まで来ると立ち止まった。

 彼女の顔は、今までの感情に乏しかった表情が嘘のような、蠱惑的な笑みをたたえていた。


「サクラさ……んっ!?」


 サクラさんは自分の唇を私の唇と重ねた。

 目の前にサクラさんの整った顔がある。間近で見ると驚くほどの美貌で、思わず引き込まれそうになる。


 一拍遅れて、『私は生徒にキスをされたのだ』という認識がやってきた。


 一瞬だったのだろうが、永遠に感じる時間を経て、私の唇は解放された。

 私は驚きのあまり固まってしまっていた。

 サクラさんは、そんな私を尻目にその場を去っていった。


 私の脳は、たった今された数秒のことを処理することすらできず、完全にフリーズしてしまっていた。


 ぼーっとしていると、ふいに保健室の扉が開いた。


 まさかサクラさんが戻ってきた!?


 慌てて扉を振り返ると、入ってきたのは見慣れた白衣をまとった若い女性だった。


「やっぱり来てたんだ、チヒロ先生……って、どうしたのよ。鳩が豆鉄砲喰らったような顔しちゃって」

「う、ううん。なんでもないですよ、ミホ先生」

「そう? それならいいんだけど……。って、あれ、先生一人? サクラさんはどこか行ったの?」

「えぇっ!? サ、サクラさんなら、さっきここを出ていきましたよ?」


 サクラさんの名前が出てきて、私は思わず声が上ずった。


「何そんなに驚いてるのよ。なにかあった?」

「いや、別に何かあったわけではないんですが……。今日は私、帰りますね」

「あら、せっかく来たのに。相談はいいの?」

「あ、はい。大丈夫です。それでは、失礼しました……」


 私は急いで荷物をまとめると、その場を去った。

 なんとなく、ミホ先生に後ろめたいことをしてしまったように感じたのだ。

 いや、事実社会的に後ろめたいことはしていたのだが……。


 とにかく、私は逃げ出すように保健室を後にした。



★★★★★



「っぷはぁ~。今日も疲れたぁ」


 現在時刻は夜の11時。

 放課後の部活指導が終わり、残りの仕事を片付けてようやく帰宅した。そこから洗濯機を回してお風呂に入ってもろもろのケアをして、ようやく晩酌だ。


 大学時代はそんなにお酒を飲むことはなかったし、むしろあまり好きではなかったのだが、社会人になって仕事終わりにビールを飲むのがほぼ日課になってしまった。

 私はあまりお酒が強くないので、ビール一杯でも酔えるのだ。

 今日も今日とて、ビールを飲む。これで今日一日たまった疲労は、少しは抜け落ちる。


 しかし、今日はいつも通りとはいかなかった。


「まさか生徒にキスされるなんて。誰かに見つかってたら、未成年淫行で懲戒免職……!? 危なかったぁ」


 むしろ仕事に集中することで頭の片隅に追いやっていた問題が、リラックスすることで噴出してきた。


 まさか、まさかだ。

 まさか、生徒に、しかも女子生徒にキスされるとは。

 私とて、お付き合いしたことはある。高校生の時、同じクラスのそこそこ仲の良かった男の子に告白されて、私は特に断ることもできず、付き合った。

 彼とは結局何事もなく、何事もなさ過ぎて受験のタイミングで別れたのだ。

 今にして思えば、セックスはおろかキスすらなく、デートして手をつないで程度の接触しかなかったのは我ながら不思議ではあるのだが。それでも、彼とは誠実なお付き合いをしていた。

 大学に入ってからは友達と一緒にいる場面が多く、異性と関わることが少なかったため、そういうことは全くなかった。たまに友達の情事を聞かされる程度だ。


 だから、今日のキスは私にとって、まぎれもなくファーストキスだった。


 女性として、ファーストキスの妄想くらい何度もしたことがある。異性とそういう関係になりたいと思うこともある。

 しかし、生徒に、しかも女子中学生にファーストキスをされるとは思いもしなかった。


 改めて思い返そうとすると、否応なくキスの感触が思い出される。

 本当に目と鼻の先にある、サクラさんの整った顔。

 私の顔に触れる、サクラさんの吐息。

 そして何より、彼女の小さくてみずみずしい唇の感触。

 酔いが回って雑念が取り除かれたせいか、昼間よりもよっぽど鮮明に思い出されるほどだ。


 そして何より感じたこと。それは――


「別に、気持ち悪いとかは……」


 そう、あの感触は、気持ち悪いとは感じなかった。


 私は今まで、普通に異性との接触しか意識していなかったし、同性に触れてドキドキする、といったこともなかった。いたってノーマル、なはずだ。


 しかし、サクラさんの唇は。それ自体が、嫌だったわけではなかったのだ。


 むしろ――


 ゴクリ。


「いやいや、むしろって何!? なんで生唾を飲み込んだの私!? お酒にやられておかしくなっちゃったかなぁ……」


 と、とにかく。私は教師で彼女は生徒だ。それは間違えようのない事実。

 そして、生徒の間違っている行動を咎め、正しい方向に導くのが教師の役目だ。


 よし、明日だ。明日保健室に行って、サクラさんとしっかり話して、指導しよう。

 うん、そうしようそうしよう。


 ちょうどその時、回していた洗濯機が止まった。残っていたビールを飲み干し、洗い終わった洗濯物を取り出すために立ち上がった。



★★★★★



 翌日。


 仕事のめどを立てお昼休みを取った私は、保健室の扉の前で仁王立ちしていた。


 この扉の先には、昨日不意打ちで私の唇を奪ったサクラさんがいる。

 私は彼女を叱るために、ここを訪れたのだ。


 まずあったら何を言おう。いきなり本題を切り出すか? 「いきなり女性の唇を奪うとは何様のつもりですか」って。

 いやいや、いきなりはさすがに委縮させちゃうでしょう。別にサクラさんを委縮させて、最悪泣かせてしまいたいわけではない。彼女に、普通の在り方でもいいと教えてあげたいだけだ。


 っていうか、よく考えたら昨日はたまたまいなかっただけで、今日はミホ先生もいるかもしれない。そうなったとき、わざわざ第三者の目の前で直接言うのは違うんじゃないか?


 もし私がそんなことをされたら、当分は学校に来れなくなる自信がある。私は周りの意見に流されがちだから、「女性が好きなヤバいやつ」というレッテルを張られたら、否定もできず孤独になっていく未来が見える。

 そう考えると、ミホ先生がいる間は決して話はできない。


 となると——


「となると、場所を変える? それとも、ミホ先生には席を外してもらって……」

「私が、何かしら?」

「うひゃぁ!!? み、ミホ先生!?」

「いや、そんなに驚かなくてもいいでしょ……。それで、私に何かしてほしいことでもあるの?」

「え、な、なぜそれを……?」

「口に出てたわよ、口に」


 そう言いながら、ミホ先生は人差し指を自分の唇に当てた。


 大人っぽい口紅に彩られたミホ先生の唇は、昨日のサクラさんの少女らしい唇とはまた違っていて……


 って、私は今、いったい何を考えていたんだ!? ミホ先生は既婚者! 中学校教諭のご主人とは今でも相思相愛のおしどり夫婦! さらには今年で三歳になるお子さんもいる!

 そんな人に対して、私はなんてことを……。


 いや、これ以上は考えないようにしよう。考えたらダメな気がする。


 閑話休題。本題に戻ります。落ち着け私。

 ど、どうやら、必死に考えるあまり思考が口に出ていたらしい。保健室の前でぶつぶついっている26歳の女。客観的に考えて少し、いやかなり恥ずかしくなった。


「お、お恥ずかしい限りです……」

「そういうとこが面白いからいいのよ、チヒロ先生は。それで、昨日も来てたし何か用があるんでしょ? さ、入って入って」


 ミホ先生に背中を押されて、なされるがまま保健室に入ってしまった。

 中には……


「あれ、今日はサクラさんはいないんですか?」

「今日はお休みみたいね。まあ、あの子は前から来たり来なかったりだったから」

「そうなんですか?」

「一年生の頃は特にそうだったわね。今年に入って登校する頻度はかなり増えてたんだけど」

「そう、だったんですね……」


 よく考えたら、私はまだこの学校にきて二か月しかたってない。サクラさんは二年生だから、一年生の時の様子は全然知らないのだ。


 そう考えると、私は彼女のことを知らなすぎる。

 彼女のことをもっと知らないと、なぜ彼女がああいった行動をとったのかもわからない。

 わからないままにこちらの意見を無理やり聞かせることは、教育とは呼ばない。そんなものは、教育ではなく躾だ。


「ミホ先生。お願いがあります」

「何? 改まって」

「サクラさんのことを教えてください。彼女がどのような人物なのか。彼女がこれまで、どうやって生きてきたのか。知ってることだけでもいいので、教えてください」

「どうしたのよ急に。まあ、あなたなら歳も近いし、案外いいのかもね……」


 そういって、ミホ先生は彼女が知る限りのサクラさんのことを教えてくれた。

 それを聞いてさらに気になった私は、私のできる範囲で彼女のことを聞いて回った。

 去年の担任の先生やクラスメイト、彼女と同じ小学校だった生徒まで。


 そしておぼろげながら、サクラさんがなぜ保健室登校なのか、なぜ「大人になりたい」と考えているのかがわかってきた。



★★★★★



 ことの発端はサクラさんが小学校六年生に上がった時だ。


 サクラさんは当時から、容姿が優れていたらしい。さらに、明るくてよく笑う、活発な少女だったそうだ。


 それがなぜ、現在のような暗い雰囲気の子になってしまったのか。


 それは、サクラさんにとってはあまりにも不幸な出来事の複合だった。


 当時、整った容姿に明るい性格のサクラさんは、男子からそれはもうモテたらしい。同じ小学校の生徒曰く、「天使」といわれることもあったそうだ。街頭インタビューを受けたことも一度や二度ではないらしい。

 

 そんな彼女の身に、二つの不幸が降りかかった。


 一つ目が、同級生との人間関係だ。


 どうやら、サクラさんと同じクラスの中心的な女子の彼氏が、サクラさんに惚れてしまったらしい。そのことでサクラさんは、その女子を中心としたグループから軽いいじめを受ける。さらに、その男子の告白を断ってしまったことで立場が悪化したそうだ。


 とはいえ、いじめ自体はそこまで深刻なものでもなく、ほどなくしておさまった。


 問題は、二つ目の不幸がサクラさんを襲ったことだ。


 痴漢である。


 サクラさんはほかの女子ともめている間、痴漢の被害にあっていたらしい。最初はちょっと身体に手が触れる程度だったそうだが、次第にエスカレートしていく。

 そして、ようやくクラスメイトとの確執が収まったというタイミングで、ついに一線を越えられたらしい。具体的な話は分からなかったが、同じ女性として想像しただけで身の毛がよだつ話だ。


 結局、その痴漢男はその場でサクラさんが声を上げたことで現行犯逮捕されたらしい。しかし、犯人が捕まった程度で痴漢の心の傷は癒えるものではない。

 そしてサクラさんは明るかった性格が暗くなってしまい、保健室登校になってしまった。


 あまりにも気分が悪い話だ。

 しかし私はその話を聞いて、そこでサクラさん自身が全てを諦めなかったことを褒めてあげたいと思った。その心の傷を抱えてなお、保健室とはいえ共学の学校に来れることは素晴らしいと思う。


 それと同時に、彼女が『大人になりたい』、というより『子どもでいたくない』と考える理由もなんとなくわかった。


 そうして彼女をある程度知ったうえで、私はいま再び、保健室の扉の前に立っている。彼女自身と、改めて向き合うために。



★★★★★



 私が不意打ちのキスをされてから、ちょうど一週間後。

 学校の予定は週単位で決まっているので、先週のこの時間が暇なら当然今週の同じ時間も暇だ。


 私はこの時間しかないと思って、保健室までやってきた。

 きっとこの時間、サクラさんは保健室にいる。

 先週はキス以降ずっとタイミングが合わず直接会うことはなかったが、今日はきっといるだろう。


 確信めいた予感を胸に、私は保健室のドアを開けた。


 やはりというか、なんというか。サクラさんは保健室にいた。


 一週間前と同じように、テーブルに勉強道具を開いて。


「ミホ先生がどこいるか、わかる?」


 あえて、先週と同じような質問を投げかける。


「……先生なら、席を外しています。2時くらいには帰ってくると」

「そうなんだ。それじゃ、いったん戻っておこうかな」

「その必要は、ありません。だって、先生が用があるのは、わたし、ですよね?」


 その瞳は、まっすぐ私を見つめていた。


 うつむきがちでなかなか視線が合わないサクラさんがここまでしっかりとこちらを向いてきたのは、あの時のキス以来だ。


「うん、そうだね。さて、先生と少し話をしようか」


 そう言って私はサクラさんが教科書を広げていたテーブルの反対にあった椅子に腰かけた。


「うん、わたしも先生と、話がしたかった」


 サクラさんは微笑む。


 その笑顔は今まで見た中でも特に魅力的で、彼女の身に起こった事件も納得する可愛さだ。


「先生は、わたしとのキス、どうだった?」

「どうだったって……。嫌だと思いました。気持ち悪いとも」


 これは嘘だ。そこまでは思っていない。

 しかし、嘘も方便だ。サクラさんの心を育てるには、ここで曖昧な態度を取ってはいけない。


「そもそも、あんなに強引に唇を奪われて、それもよく知らない相手だったら、嫌だと思うに決まっています」

「そう、そうですよね。そんなこと……私が一番、よく知っていたはずなのに……」


 いいつつも、だんだん声が小さくなる。

 顔も下を向いていき、いつものサクラさんになっていく。

 

 正直、どうしてこんな子があんな大胆なことができたのかはいまだにわからない。

 それでも私は大人として、教師として彼女に伝えなければならないことがある。


「サクラさん。先生は、あなたの過去を調べました」

「えっ……!」


 そう告げると、彼女は勢いよく顔を上げた。

 その表情からは、驚愕と、絶望がうかがえる。


「あなたの身に降りかかった理不尽な出来事は、たしかにあなたを追い詰めたでしょう。苦しんだでしょう。先日の強引なキスは、きっとその延長線上にあるんじゃないかと先生は思います。しかしだからと言って、どんな理由があっても、勝手に相手の唇を奪うという行為は許されるものではありません」

「どんな理由があっても、ですか?」

「どんな理由があってもです」

「先生のことが…………好きで好きで、たまらなくても?」


 少し長いためらいの後、サクラさんは意を決したように気持ちを吐露した。

 頬が朱に色づいた彼女の顔は、まっすぐと私を見ている。

 目は少しうるんでいて、唇は力んでまっすぐ結ばれていた。

 頬どころか、首や耳まで真っ赤だ。


 その告白は、本当に心から出たものなのだろう。本気の度合いは、様子を見ていればわかる。


 こんなにまっすぐ気持ちをぶつけられたのなんて、いつぶりだろう。もしかしたら、ここまで誠実で、大きな感情は、人生で初めてかもしれない。


 そう思うと、これから私が彼女に対して取る態度はとても苦しいものだ。しかし、だからといって、これを言わない理由にはならない。


 これは、教育者としての責任だ。


「サクラさんが私に対してどう思っていようが関係ありません。相手の意思を無視して行動することは、社会生活を送るうえで軋轢しか生まないのです。今回の場合、サクラさんは私の意志の確認をまともに取らず、キスをしました。確かに学生と教師がキスをするということも問題ですが、私が貴方に伝えたいことはそこではありません。『相手の意思を無視した』ことを指導したいんです」

「先生の意志……」

「先生はサクラさんにコミュニケーションを諦めてほしくありません。コミュニケーションを諦めた先に待っているものは、実か否野蛮人たちと変わらない世界です」

「私は、でも、みんな私の話なんて……」

「それでも、だれかと何かをしたいときは、必ずコミュニケーションを取ってください。コミュニケーションを取ることから、逃げないでください。わかりましたか?」


 サクラさんの瞳をまっすぐ見る。一ミリもそらさず、彼女を見据える。


 しばらく見つめあって、無言の時間が続いた。


 サクラさんは私の伝えたい意思を十分に感じ取ったのか、観念したように口を開いた。


「わかった。わかったよ、先生。これからはもっと、相手の人と話すようにしてみる」

「うんうん、そうしてください。もちろん、話すだけじゃダメなときだって沢山あるから、その時はまた別の手段を取ればいいんだよ。そういうことが起こったら、周りの頼れる大人、先生でもいいし、ミホ先生でもいい。誰でもいいから相談してね。きっと、サクラさんの悩みを解決するお手伝いができるはずだからさ」


 そういうと、私は彼女の頭をゆっくりと撫でた。

 サクラさんは少し恥ずかしそうに、でも私の手に身をゆだねるように、なされるがままになっていた。


 しばらくして彼女の頭をなでるのをやめた。

 私としては、もう保健室を後にしてもいいんだけど、なんとなくミホ先生が帰ってくるまでは二人でいるような雰囲気なので席を立たない。

 そうこうしていると、サクラさんが口を開いた。


「あの、チヒロ先生?」

「ん、何?」

「改めて、言わせてください。私は、先生のことが、好きです」

「そっっっっかぁ……」


 説教の途中だったから流しちゃったけど、私はサクラさんから告白された身だった。


「えっと、理由とかはあるの?」

「先生、よく保健室に来てたでしょう?」


 ええ、赴任してから2か月で、両手の指では数えきれないくらい来てますね……。


「そして毎回、ミホ先生にいろんな悩みを聞いてもらってる」

「うん、そうだね……」

「それを見て、『大人でも、悩むことはいっぱいある』ってことに、気付いたの。先生の悩みは、私もすごく共感できて。そう思ったら、自然と先生のことが好きになってた」


 なるほど、私がさんざんミホ先生にあやしてもらってたのを聞いてたのか……。

 

 恥ずかしい……! 穴があったら入りたい……!

 

 自分でも顔が真っ赤になっているのがわかる。あまりにも図かしいから。


 きっとサクラさんは、『早く大人になりたい』っていう悩みをずっと抱えていたのだろう。そんな時に現れた、大人のくせにダメダメな私。いわゆる理想的な大人とはかけ離れた姿が、彼女の琴線に触れてしまったのかもしれない。

 あと、痴漢に遭ったっていうので、男性を忌避しているというのはありそうだ。かといって同世代の女子とは、容姿というわりとどうにもならない理由で人間関係でトラブルを起こした経験がある。

 そう考えると、『①ある程度年が近くて』『②男性ではなくて』『③隙が多い大人』である私に白羽の矢が立つのも、まあ理解できなくはない。


 ああ、わざわざ自分で解説していて余計に恥ずかしさと悲しさがこみあげてきた……。


「あー、サクラさんが先生のことを好きだっていう気持ちは分かりました。でも、先生はサクラさんのことを恋愛的な意味で好きとか考えたことないし……」

「キス。嫌だった?」


 サクラさんは私の顔の目の前まで身を乗り出して、唇に人差し指を当てる。

 その唇の感触は一週間たった今でも思い出せて、思わず見入ってしまう。


「やっぱり、そんなに嫌じゃなかった」

「いやっ、これはそのっ!」


 激しく狼狽する私。そんな私を見て、サクラさんは相好を崩す。


「ふふっ、先生、可愛い。――ふぅ。先生、お願いがあります」


 サクラさんは一呼吸入れて真剣な表情になり、改まっていってきた。


「な、なんですか?」

「私と、キスをしてほしい、です」


 まあ、そうだよね。そう言うだろうなとは、なんとなく思っていた。


「そう、ですか……。だけど、私は教師です。生徒と、しかも女子中学生とそういう関係にあんることはあり得ません」

「わかってる。だから、最後に。どうしても、お願いします」


 サクラさんはそういうと、深々と頭を下げた。


 そう言われても、さすがにねぇ……。


「……うぅっ。ぐすっ。お願い、します。一回だけで、いいから」


 泣くほどかぁ。

 正直、彼女のこれまでの境遇を知ってしまい、かつその気持ちの大きさ、真剣さを考えると、そうやすやすと突っぱねることはできない。

 むしろ私のほうが、教師だのなんだのを盾に彼女の気持ちから逃げているような気さえしてくる。


 うう、こうなると私、弱いんだよね……。もしかしてわかってやってるのかな。わかってやってたら、相当な策士だねぇ。


 若干現実逃避してみるが、状況は何も変わらない。むしろ、今この多民具でミホ先生が帰ってきてこの状況を見たらなんと思うだろうか。


 女子中学生を泣かせて頭を下げさせる教師(私)。


 うん、絵面がひどい!


 実は四方を囲まれて逃げられなくなってしまっていることを察した私は、あきらめることにした。


「……ですよ」

「えっ?」

「だから! キスしてもいいです。ただし、一回だけですからね! これ以上はありません。いいですね?」

「はい……! ありがとう、ございます!」


 サクラさんは春の桜が満開に咲き誇るような笑顔を浮かべた。そんなに嬉しいのか……。


 まあその、正直。誰かからこんなに純粋な好意を寄せられるというのは、悪い気はしない。いや、法律的に考えれば悪いことなんだけど。

 そこは情状酌量ってことで。すでに一回やってしまっている以上、今日ここでキスをしたとしても墓場まで持っていくものが一つから二つになっただけのことだ。


「さ、さあ。好きにしなさい。私からはしませんからね」

「うん、うん! ありがとう、先生」


 サクラさんは嬉しそうに立ち上がると、スキップでも始めそうなくらいの上機嫌でテーブルの反対に座っていた私のそばまでやってくる。


 その姿を見て、私は不安になっていた。やっぱり、キスは早計だったかな……?


 そんな私の不安など見えていないのか、サクラさんは上機嫌のまま私に尋ねる。


「それじゃあ、先生。キ、キキ、……ス、する、ね……?」


 あれだけいろいろ言ってきたけど、いざ面と向かうと「キスする」って言うのは恥ずかしいんだ。

 そう思うと、サクラさんのことが少し愛しく思えた。それと同時に、狼狽する彼女を見て私は少し落ち着けた。


「はぁ。いいから、好きにしなさい」


 そういうと私は、椅子に座ったまま目をつぶって少し唇を突き出した。この姿勢のほうが多分、キスはしやすいだろう。


「こ、これって、キス顔……!? 先生、無自覚でズルい……」

「なんでもいいから、早くしてください。ミホ先生が来ちゃう」

「わ、わかった。それじゃあ…………いきます」


 その宣言とともに、彼女がさらに近づく気配がした。目を瞑っているのでわからないけど、彼女の体はきっと目と鼻の先にあるのだろう。

 それから一瞬の間をおいて、唇にプルっとした感触が当たる。


「んっ……」


 2度目だし、合意の上なので、今回はサクラさんの唇の感触を感じる余裕があった。

 余裕があったからこそ、少し声が出てしまったが……。

 それくらい、キスの感触は強烈だった。

 たしかにこれは、皆がキスを好むわけだ。幸福感と、不思議な快楽が脳で分泌されて、少し気持ちがいい。


 永遠にも、一瞬にも感じられる接触。私は余裕ぶって状況を観察していたが、その余裕はサクラさんの予想外の行動で吹き飛んだ。


「……んんっ!?」


 唇に、唇とは違った、少し湿った感触。

 未知の感触に、私は思わず声を上げる。


 とっさに目を開けると、サクラさんの顔はもう目の前にはなく、半歩引いたところで見上げた顔には悲しげな微笑が浮かんでいた。


「ありがとう、先生」


 サクラさんはそれだけ言うと、保健室を出ていった。

 私は一週間前と同じように、呆けてその場から動けなかった。

 しばらくしてミホ先生が帰ってきて、先週と同じような会話をして私も保健室を出た。


 これが私と、サクラさんとの出会いだ。


 私としてはこの時が、人生最大級の出来事だと思っていた。これ以上衝撃的ことは起こらないとも。

 しかし、今にして思えば、私はとっくに罹っていたのだ。


 微熱のように気だるげな。じりじりと身を蝕む感冒に。

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