企画用

@SugerNeedle

第1話

 水から浮かび上がるように、カザグルマはふっと目覚めた。ベッドから身体を起こし、時間を確認する。窓からの薄い光が照らす時計は、午前3時くらいを指していた。

 変な時間に起きてしまったらしい。再び寝ようと試みるが、頭は逆に冴えていく。観念して、煙草でも吸ってこよう。スヤスヤと寝息をたてているポケモンたちに気を使いながら、カザグルマはベランダに出た。


 夜風が心地よい。煙草を口にくわえ、ライターで火を点ける。吐いた煙は、ゆっくりと澄んだ空気に溶けていった。

 カザグルマが泊まっているのは、とある山あいの民宿である。木造の質素な宿だが愛想の良い主人で、一晩泊まるには不自由なかった。

 朝にはここを出発し、次の街へ向かう。数日の間滞在したら、また次の街へ。それが彼の生き方だった。


 特にすることもなく、行く道筋をぼんやりと思案する。空は曇っているのだろうか。星は見えず、切れ切れとした雲の間からのぞく月明かりが、真っ黒な山と森のシルエットを映し出していた。それを見ながら、また息を吐く。たよりない白い煙は、明確な形を持てずに千切れて消えていくばかりだ。


何か、何かが。


 よりかかっている古びた手すりを、人差し指でコツコツ叩いてみる。理由のわからない、焦燥感、のような、不安のような。居心地の悪さ、無論、今いる場所ではなく。

 僅か数ミリ、心のどこかが噛み合わなくて、だけどそれは、初めて感じたものでもなく。


 静かな夜だな、とカザグルマは思った。風は確かに吹いているのに音は聞こえず、木々のざわめきもない。それが逆に、彼を落ち着かなくさせる。無音が、耳にうるさかった。

 原因は、この無音だ。以前もそう。深夜、世界が眠って、ただ自分だけが目覚めているとき。音無しの空気は自分を通り抜けていって、身体の芯の部分を騒がせるのだ。

「げほっ」

 珍しく吸いかたを失敗したのか、むせこんで乾いた咳が出る。


 カザグルマは一人だ。だが、別段それを嘆いてはいなかった。

 一人といっても、ある程度の交友関係は持っていた。行く先々で出会いがあり、そして帰る故郷がある。だから、「一人」であっても「独り」ではない。そう思っている。


 けほっ、と最後の咳。落ち着いた肺に、性懲りもなくまた煙を入れた。バカだと思うが、慣れ親しんだ匂いは手放せそうにない。

 気楽な人生だ。縛るものも、背負うものもない。気の向くままに、好きに世界を見て回れる。それは彼が選んだ生活で、望んだ生き方だ。

 なのに勝手だなぁ、とカザグルマは苦笑した。歩きやすいように荷物は少なくした。軽い背中に何の不満をもつことがある?


本当に、勝手だね


 呆れたように、“彼女”がこちらを見てくる。責めるような表情をされても、困る。


ーーーーーーーーー


『私のこと、何とも思ってないでしょう? 嫌いですらないでしょ』

 冷めきっているのにだらだら延長しているような関係を、終わらせたのは彼女だった。


『そんなことないよ』

『嘘ばっかり』

 重い空気に不釣り合いなほど、彼女は笑った。泣き顔に、強がって笑顔をつくっているようだった。

『分かってるのよ。あなたは、私が付き合いたいって言ったから付き合った。私が一緒に居たいって言ったから一緒に居た。そうでしょう?』

『…………』

『私が別れたいって言ったら、別れるでしょ?』

『…………』

『否定しないんだ?』

 否定、できなかった。もちろん、彼女が好きだったのは事実だ。二つ返事で付き合ったわけじゃない。でも終わらせようと告げられたら、止めはしないだろう。そうする理由も、彼女への執着もなかった。


 彼女は、もう何も期待していないらしい。鼻で笑って、そして独り言のように喋りだした。

『ずーっと不安だった。あなたはどこかに行ってしまいそうで』

 カザグルマは顔をあげ、彼女の方を見た。

『近くにいても、近くにいないみたいだった。あなたはきっと、心の本当の奥底に誰も入らせないの』

『俺が隠し事してるって言いたいの?』

『違う、そんなんじゃない』

 彼女は首を振った。彼女の口調からするに、分かってもらうつもりはないようだったが。


『私はね、あなたがいれば良かった。あなたが、私の世界の全てで良かった。でもあなたはそうじゃなかった。それだけ』

 ただ淡々と、彼女は過去形の言葉を繋げた。

『あなたには、もっと見たい景色とかがあって、行きたい場所があって。そこに、私がいてもいなくても関係ないって思ってる。それでもいい、ただあなたを待つ、あなたが帰る場所になればいいって考えたりもしたけど、けど、私もそんなに寛大にはなれなかった』

 好き、だから。

 そこで力が抜けたように、言葉は切れた。涙の跡は、もう乾いていた。それは見えるのに、視線は交わらない。もう交わることはないだろうと、カザグルマは悟った。


『なんか喋ったら、一言くらい。仮にも好きだった女でしょ?』

『俺は、どうしたらよかったんだ?』

『……どうしたらよかったんだろうねぇ』

わざとらしい声。でも、責任逃れでも話題そらしでもなく、カザグルマには本当に分からなかった。媚びへつらって尽くしたら、それで満足してくれたんだろうか。


『付き合ったのが間違いだったのかもね。こんな嫌な思いするくらいなら』

『…もうさ、お前のなかで結論でてんだろ』

 どこか面倒そうに、投げやりにそう返した。彼女が固まり、こちらを見たのが分かった。が、今度は逆にカザグルマが目をそらす。


『うん、そう。そうよ。そのつもりだったし。別れましょう、私たち』

 言うか早いか、彼女は立ち上がり荷物を持った。その時初めて、既に出ていく準備をしていたんだなと気づいた。

『じゃあね』

 さようなら。彼女の声よりガチャンという閉まる扉の音が、嫌に耳に残った。


(アイツが出ていくとき、俺は何て言ったんだっけ)

と、カザグルマは記憶を辿ってみる。黙ったまんまだったっけ。それもあり得るなと思った。

「…あ」

 思い出した。映写機のように、記憶がはっきりと映像を写し出す。


 彼女が出ていこうとするのを、カザグルマは止めようともせず、無言のままでいた。その時ふと、机上のものが目に留まった。

『煙草』

『え?』

『忘れてるけど』

 まさに、彼女は扉を開けようとしているところだった。自分からはほとんど喋らなかった癖に、どうしてそんな些細なことは言えたのか。それは今もわからない。


ともかくカザグルマは、彼女が自分の煙草を忘れているのを教えた。すると彼女は、そんなことかとでも言いたげに目を細めた。


『あー… いい、あげるわ。もういらないし。意味ないし』

『え』

 別に好きじゃないし、煙草。カザグルマがその言葉を飲み込む前に、彼女は別れを告げて出ていった。

 言葉の意味を理解したとき、じんわりとのしかかってくるような罪悪感を感じた。ぽつんと残されたシガレットケースも、見慣れた家具も急によそよそしい。そのときも、ぴんと張った無音が響いていた。


 冷たい風が、髪をなでていく。ふと、ごめんって一度も言えなかったな、とか思った。食んでいる煙は、いつもより苦い。

 どこまでもひとりだった。それ以上でも、それ以下でもなく、カザグルマはひとりだ。

 別れてからも、旅は続いた。目的もなく、自由に。生活は特段変わることはなかった。彼女は、見透かしていたんだろう。

 人々の賑わい、生き物の鳴き声。出会いや、或いは事件。旅では、静寂は探さなければ見つけられない、知ることはない。


 ふーっと最後の息を吐いて、灰皿に吸い殻を押し付けた。ジュッと小さい音が鳴り、細い煙があがった。日はまだ見えないが、空は淡くグラデーションを描いている。

 朝になれば、揺れる木の葉が照らされて、人々は目を覚まして、言葉を交わす。日常が、無音をかき消していくだろう。

 だから待てばいい、夜が明けるまで。白んでゆく山際、遥か遠くを、カザグルマは見つめた。

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