第35話 神不在の貧民区《 Ⅱ 》


 貧民区スラムを出てバルガスの城に戻った。

 ミゲルドは城に到着すると役目を終えたとばかりに去ろうとしたが、「用があれば呼べ」と一言残していった。去り際になにやら難しい顔をしていたのだが、《鷹》関連では無いかと邪推した。


 夜まで自室で休もうかと歩いていると城内ですれ違う衛兵や侍女が歪な視線を向けてきた。不快感を表したまなじり……どうしたことかと動揺すると、その内の一人が鼻を押さえていることに気付く。

 自身の腕や襟元を嗅げば貧民区スラムの臭いが染みついてしまっているな。


 ひとまず身体だけでも拭いておこうと中庭に向かう。

 上裸になり井戸の水を思いっ切り被った。

 手足に付いた汚れは簡単に洗い流せるが、鼻の奥にこびりついた臭いは依然取れないまま。

 髪を掻き上げて水気を払っていれば、今朝方に世話をしてくれた侍女が替えの服と布を持ってくれた。


「ありがとう」手渡される刹那、侍女には躊躇いが感じられた。今朝からの警戒が続いているのだろうな。「でも、そこまで気を遣わなくてもいいよ」


 掌を突き出して世話は無用と伝えるが、彼女は困ったようにはにかんで目礼した。


「領主様からヴォルフ様のお世話を仰せつかっていますので」


「俺の? 俺たちでは無くて?」


「はい、ヴォルフ様にと……ですので、その、今朝は恥をかかせてしまい申し訳ございません」


 今朝のアリアとの馴れ合いを彼女は気にしていた。警戒されているのでは無かったかと安心する。


「構わないよ。いつもの通り揶揄われただけさ」


「仲が宜しいのですね」どことなく朗らかな表情となった彼女がそう言う。果たしてそうだろうか「ほどほどにね」と苦笑すると、彼女はまた笑みを深めるのであった。


 体の水気を拭き取っていると、強風が吹き抜けた。

 真っ昼間というのに関わらず底冷えするような寒さに慌てて服を羽織った。

 アミュガットの土地はクウェンよりもずっと冷える。

 こうして季節を選ばぬ冷えた風が、土地の熱を根刮ぎ拐ってしまうからだ。実りが豊かでないというのはこの環境に起因するのだろう。


「冷えますね。よければ浴場に案内しますよ」


 腕を擦る俺に侍女が提案した。確か、クシェルも風呂があると話していたな。故郷ではお湯で湿らした布で身体を抜くことが常だった。髪を洗うなど滅多に無い。陽のある内に川で清めることはあれど、それは暖かい季節限定だった。


「ああ、今晩はそうさせてもらうよ。その時も君が世話をしてくれるんだろう?」


「え」


 これはちょっとした冗談だが、面白いくらい動揺を見せるもので、つい悪戯心が芽生えてしまう。


客人おれの世話を頼まれているんだろう」


「それは……あの、ご要望でしたら。御呼びいただければ、その、出来る範囲で、ですけれど」


 真に受けた彼女はたじたじと籠った口調となる。

 ちょっとした馴れ合いだと教えると一層顔を赤らめた。冗談は得意でないらしい、あまり意地悪をしては嫌われそうだ。


「服ありがとう。とても暖かいよ」


「では控えておりますので、夕餉にまた、お迎えに上がります」


「ああ」


 屋内の陰に入った彼女の存在感が急速に薄れた。

 そこに在って、そこに居ないかのような自然を極めた景色との同化。

 彼女のそれは影が薄いなんて言葉で括れる水準では無く、意図的なのか生来のものかは微妙な所だった。

 うっかり背後を取られる程に怠けはしないが、あれだけ巧みに気配を殺せるのは驚くべきことだ。

 にしても彼女の気配、いや、雰囲気か。

 近しい誰かと似ている気がするのだが……輪郭がはっきりと浮かんでこない。その内に思い当たるだろうと深く考えるのは止めた。


 部屋に戻ると人の気配が残っていた。

 ベッドは微かに温もっており、どうした訳か淡い芳香の残滓が漂った。

 横になると直ぐに睡魔に呑みこまれ、瞼の裏には純白の輪郭が浮かんでいた。

 

 目覚めると外はすっかり薄暗く、緑光が空を彩っていた。

 


 ◇


 黄昏を過ぎた頃、話した通り侍女は夕食の迎えにやってきた。

 寝起きで気怠いまま扉を開けると顔を洗うようにと遠回しに告げられる。彼女から湿らせた布を受け取って顔を丹念に拭い、部屋を出た。

 

 宴殿に着くとクシェルとアリアが一足先に座っていた。

 食事には手を付けず俺を待っていてくれたらしい。アリアは葡萄酒を少々嗜んでいるようだが、クシェルはじっと座ったまま食器に手を触れる素振りも無い。


「あ、兄さん!」こちらの姿を認めた途端、彼女の翡翠の瞳は宝石に変貌する。跳ねるように立ち上がって俺の下に駆け寄ると、手を引いて早く席に着くように促した。


「あれ、バルガス閣下の姿が見えないな」


「閣下はご多忙の用ですよ」


 どうやら今夜バルガスは同席しないらしかった。

 給仕によれば政務に追われているとのこと。あの男が机仕事をしている様子を想像すると少し可笑しく感じる。見た目の影響か、どうも施政者という感じが無い。


「兄さん、何かありましたか」


 食事中、クシェルが訊ねた。

 いつも通り彼女は僅かな異変すら見逃さない。

 変わらず振る舞っていたつもりだが、何処か気落ちした空気を感じ取ったようだ。


「私で良ければ相談してください」力強く胸を叩くクシェル。その瞳は期待に満ちて開かれているよう。


「いや、ちょっとした考え事だよ。特に話すほどの物でもないさ」


 正面から覗き込む彼女の瞳を、どうにも受け止められなかった。

 逸らすように料理に視線を逃がす。拒絶と捉えた彼女は微かな空白の後、「ならいいですけど」と寂しげに呟いた。


「ヴォルフさんは今日は教会に往かれたのですよね」


 雰囲気を察したアリアが話題を振ってきた。

 彼女の立場としても互いの動向と成果は確認しておきたいのだろう。面持ちが食事の会話にしては少々固い。


「ん、ああ。阿保のように巨大だったよ。こっちの屋敷と交換した方がいいんじゃないか」


 おどけたつもりが、アリアは正しくと言わんばかりに大きく頷く。


「でしょうね。これまでで集められた金銀は領内の財の七割にも及ぶそうですよ」


「それ、大丈夫か?」


 領内が二分されているであろうことはウァルウィリスより伺っていた。

 だが実情は二分どころか様々な観点からアミュガット領の権威すら凌駕している。


「それに、教会はアミュガット領に対して貸し付けも行っていました」


「……そこまで銀を失っては兵を食わせるのも簡単ではないな」


「調べたのですが」アリアは人目を確認するように辺りに視線を配る。脇に控える侍女以外に人気は無いと無声で囁けば、前のめりになった彼女は口元に手を添えて耳打ちする。「城塞内は別として、領内の地方で手の廻らない場所は教会より派遣された騎士たちが治安維持を任されているみたいです」


 その名を聖堂騎士、というらしい。

 騎士五十、従士二百の兵力で他にも神の守護者、信仰の防人、神託の執行者、大層な呼び名があるとか。要は戦う修道士ってことだろう。

 教会はエランデル共和国から信仰を許された組織だが、たかが一組織がここまでの権力を有するとはな。

 財はともかく武力まで……土地を持たないだけで領地や王国と変わらない。

 現状を客観視するならばこれはある種の侵略と言えるのではないか。すでに精霊信仰の文化は失われつつある。

 状況が進めばアミュガット領の存続すら危ぶまれる。

 この地をずっと治めていた民族は時代の流れと共に衰退し、次代を跨げるかの瀬戸際まで追い込まれている。

 ウァルウィリスはそれを危惧してるのか、だから俺たちをこの土地に送った。

 

 今回の任に着く際の言葉を振り返る。教会との対立、民族の排斥。「争いを止めろ」とウァルウィリスはそう命令した。

 途方もなく巨大な陰謀の気配。

 ウァルウィリスの真意は、恐らく。


「こんな状況下でバルガス閣下は俺たちに何をさせようってのかね」


「だから巫女、ですよ。彼女の存在こそ全てを覆す」


「巫女、ねえ」


 ウァルウィリスの話にも出た。

 盤石に思える、もはや覆せない神への信仰を揺らがしている唯一の人間。

 その特異な存在から教会に狙われる立場にある、多分、バルガスの切り札だ。

 誠であれば《奇跡》を起こすという。未だ謎に満ちた力だ、叶うなら実際に会って話したい。とはいえ、今のところは半信半疑なのだが。

 そもそも何処に居るのだろう。

 教会と対立しているのならバルガスの庇護下にあって然るべきだが……もしくは。


「ヴォルフさん、理解しているとは思いますが気を付けてください。私たちは教会の敵となります。その際に狙われるのは、きっと貴方ですから」


 俺はアミュガットにとっての仇敵だ。

 相手にとっても都合のいい存在となる、既に名も顔も割れているしな。

 真剣な眼差しをするアリアの忠告に頷いた。


 構わない。誰だろうと切り伏せてやるさ。

 まあ、そんなつもりで臨んだ《鷹》との一戦で痛い目を見たわけなんだけど。


 ◇


 雑談もほどほどに夕餉を済ませ、アリアとクシェルは二人で浴場に向かった。

 集まるのはまた明日の朝。その時はバルガスも顔を出すだろう。

 俺はと言えば意味も無く屋敷内を徘徊していた。陽が沈んで小一時間、外はすっかり夜となっている。

 無性に落ち着かない気分だった、頭の隅にずっと昼間の光景が残っている。

 部屋にそのまま戻る気になれず、終には一人中庭で風に当たっていると、クシェルと風呂に行ったはずのアリアがやってきた。


「クシェルは」と問うと、アリアは申し訳なさそうに「上せてしまいました」と答える。そんなに時間が経っていたのかと驚いたが、気付けば指先は冷え切っていた。


「珍しく、難しい顔をしていますね」


 彼女もまた、俺の様子から何かを感じ取っていたのだろうか。

 余計な気を遣わせてしまったと反省する。


「そうかな、そうかもしれない」


「そうですか、それは滅多な事ではありませんね」


 アリアは茶化したように笑ったが、嫌な気配はしなかった。

「失礼しますね」彼女は目の前に居るのにこっそりと距離を詰め、俺の右隣に移動する。

 それでも彼女は腰を下ろしたりしない。

 クシェルなら多分、身体を寄せてきただろう。

 指を絡めて、熱を伝えて、安心させるのが彼女だ。

 でも今はこのくらいの距離感がかえって心地良く思えた。


「何か悩み事でもありますか」


「まあ、ね」


 無いと言えば嘘になる。

 アリアはそれ以上の追及はしない。

 こちらから切り出すのを待ってくれている。

 いや、多分。言わなければ言わないで、彼女アリアは気にしないのか。

 そうして、このまま隣で俺が立ち上がるまで付き添ってくれるだろう。

 扉の外から声を掛けることはしても、わざわざ扉を叩くまではしない。曖昧な返事があっても、開かれるまで扉の前で待ち続ける。

 急かすでもなく、その人自身の意思が動くまで。それが彼女のやり方スタンス


「これは例えばの話だけど————」


 自ずと口を開いていた。

 沈黙が苦になった訳では無く、求めずに寄り添う彼女に心のドアが開かれる。ありのまま包み隠さずに全てを伝えることにした。とはいっても、それでも「例えば」だなんて、無意味な逃げ場を残そうとしたけれど。アリアはきっと、他人事では無いのだと見透かしただろう。


「————そういう時、君ならどうするかな」


「んー、難しいですね」


 アリアは渋い表情で考え込む。

 まるで自分事として頭を悩ませる彼女に嬉しくなる。


「統治とは」しばらく思案したアリアはおもむろに口を開いた。慎重に、言葉を選んで、彼女の話は紡がれる。


「色々な制約……一定の条件の下で成り立っている物です。

 領民は領主が治める領地で、それぞれの法に従って生きています。その仕組みは一見は公正に思えますが、実際は公平でも平等でもありません。様々な不条理があって、不平等がある。法は、強者が敷くのが常だから」


 だから仕方が無い事だとアリアは目を伏せた。

 哀調の宿る声……はっきりとした諦観が込められていた。


 そうさ。

 今更言葉にされずとも識っていた事だ。

 俺は父から、父を失ってから世界の本質を教えられた。

 安寧は強さと庇護の下に、力が無いから守られる。けれど本来それは無条件ではなくて、対価を支払わなければならない。

 支配者の地で生きるには銀がいる。

 銀を得るには職が、職を得るには教養が。

 それらを手に出来るのは、十分な時間と環境が。

 じゃあ、最初から持っていない者はどうすればいい?


 仕方がないって、こういうものだって、諦めるのか。

 泥水を啜って、傷だらけで、未来なんてなくて、失うに足る過去も、何も。


 そのくせ持たざる者は持つ者に奪われる。

 何も無いのに、仕組みの中にも入れないのに、勝手に檻に入れられて、ここで生きるなら対価を払えと。銀なんかないから、その未来を搾取される。その先の生にそれだけの価値が眠っていても、持っていないから、価値が無い。誰にも守ってもらえない。誰にも祈りは届かない。


 それが世界だって分かってる。

 大きな物を繋いでいく為には、小さなものを集めて、潰して纏めていく。

 あぶれたものは使える分だけ剪定して、不要になれば斬り捨てる。くそったれな現実……。


 こんなものが統治なら。

 この仕組みでしか、人を生かせないのなら、もう。


「————でも、だからこそ私は助けて欲しい」


 終わったと思った回答、その続きが明かされる。

 アリアの声音は一転して、そこには希望が宿っていた。


「……」


「理不尽も不条理も、この世に蔓延る悪意も。もしもそんな物から助けてくれる人が居たら、どれほど救われるでしょうか。

 仕組みから、法から、世界から弾かれることを恐れない者が、ただ一人でも味方で居てくれたら……でも、これは我が儘ですよね」


 劣悪な貧民区スラムの人々も、この地を去ろうと思えば決して不可能な話ではない。

 それでも土地にしがみつくのは執着や、愛があるから。持たざる彼らですら、支配ではない何かに縛られている。

 仕組みに入れなくても、その仕組みから離れるのは怖い。

 結局、人は独りでは生きていけないから。

 寄り合うことで、己を確かめるから。


「すいません、変なことを言いましたね」


「いや、わかるよ」


 俺も同じことを考えて生きてきた。

 そして今も、同じことを信条として生きている。

 或いはこれも一種の信仰なのかもと不意に悟る、信じることでいつだって救われていた。


「ありがとう、少しすっきりしたよ」


「いえ、何もしていませんよ」


 どちらからでもなく笑みが零れた。

 動くための理由が欲しかったのかもしれない。善悪の基準ではなく、誰かに一言『間違ってない』と言って欲しかった。


「そうでした。ウァルウィリス様とアルガス様より一つ、預かった伝言を忘れていました」


「……何て」


「『思うままに』、だそうですよ」


「はっ」


 全部見通したような文言。

 アリアはこれを伝えにきたのか。

 つまり俺が求める答えを、彼女はちゃんと用意してきていた。

 自ずと口を開くことも織り込み済みだったのかも。


 気遣ったアリアが今でっち上げた可能性もあるが、あの二人なら言いそうな台詞でもある。特にアルガスの憎たらしい顔が容易く浮かぶな。


「————言われなくても、そのつもりさ」




 ◆◇◆第35話 神不在の貧民区 《 Ⅱ 》 ◆◇◆



 貧民区、第三区。

 俺は再びこの場所に戻ってきた。

 人気の失せた貧民区スラムは一層危険な雰囲気を漂わせ、通りから伸びる無数の路地裏からは悪意や関心、様々な視線が感じられた。


 目的を果たすべく通りを進めば、次第に不自然な風切り音が聞こえてきた。

 木々の騒めきでも、ましてや動物のそれでもない。

 自然ではありえない人為的な響き。

 出所へ向かえば昼間に見た少年がそこにいた。

 その手には木剣が握られ、兵士から見よう見まねで覚えたか、荒い構えで素振りを繰り返している。

 己が体得した剣技は云うまでもなく、幾度の戦で見てきた物と比べればお粗末な動きだった。それ故か惹かれるものが有る。かつてのアルガスも、こんな気分だったのかも。 


「熱心だな、坊主」


「!」


 背後から声を掛けると少年は肩を跳ねさせた。

 彼は突然の来訪者に警戒したが、不審な人物など見慣れているのか、すぐに素振りを再開する。


「おじさん……誰?」


 拙い技量を補って、熱量に任せた剣が大気を割く。

 というか、おじさんか……そんな老けていないはずだけど、おかしいな。


「どうして剣を振るうんだ?」問いを投げれば間を置かず、少年は答える。「リリィを、守りたいんだ」


「リリィ?」


「僕の妹だよ、たった一人の家族。守ってあげないと、僕はお兄ちゃんだから」


 もう一度、少年が木刀を振り下ろす。

 素早い動きに額から噴き出た汗が置き去りとなる。

 この肌寒い中、薄着で滴るほど汗をかくとは……一体どれだけの時間を費やしているのか。よく見れば額だけじゃない、服だって汗で濡れているじゃないか。


「祈らないのか、この街じゃあ神様が助けてくれるんだろ、もしくは司祭様か」


「駄目だよ、僕は貧乏だから。文字も読めないし、祈りもよく知らない。神様には会ってみたいけど、司教様しか会えないんだって。だからもっと僕が強くならないと」


「それで剣か、単純だな」


「いつか兵士になりたいんだ、手柄を挙げて、お金を貰って、リリィがお腹一杯にご飯を食べられるようにっ」


 少年が三度踏み込んだ。

 思い切りのいい一振りが荒々しく風を切る。

 妥協の無い、全霊を込めた一閃だった。

 柄を持ち直す刹那に見えた、幾度も潰れ、捲れてきた肉と皮。

 その掌を見れば研鑽の度合いが読める。

 先の台詞が出まかせや思い付きではないことの証明が刻まれていた。

 ただし想いは良くても、技量はまだまだか。身体も出来ていないから余計に軸が安定していない。これではいけないな。


「ちょっと貸してみな」


 少年から木刀を取り上げると、彼は咄嗟に身構えた。

 不意を突かれたというよりも、何故掌から柄がすり抜けたのかが疑問という表情だった。力いっぱい握られていたら難しいが、脱力の瞬間を狙えば容易い技術だ。


「な、なにをするの」


「いいから、見ていな」


 ほとんど無意識に急所を庇おうとするのは過酷な環境が生んだものか。

 嘆かわしいが、反応の速さは先ず先ずだ。

 見せつける為にゆっくりと、平時には高速で為される一連の動作を限りなく丁寧に再生する。

 構えて上段から、今度は最大の剣速で振り抜く。

 超高速で走る刀身は大気との摩擦で金切りに近い音を生む。振り抜いた切っ先に旋風が逆巻いた。


「か、風が……」


「お前は踏み込みが浅いんだよ、真っ直ぐ振り抜け、力み過ぎず。手首がブレないようにな。いつだって相手を想像しろ、直撃の瞬間、力を握るんだ……何だよ、いいからやってみろって。ほら」


「え、う、うん」


 何処の誰とも知らない男に促されるまま、少年はまた素振りを始める。ゆっくりと、丁寧に。ぎこちないが俺の再現を試みているのが解った。

 そうして振った剣は、先程より遥かに鋭く速い。しかしまだ、踏み込む瞬間に上体がつられている。これでは安定しない。

 しかし指図せずとも何回、何十回と。

 少年は見せられた動き、自身が思い描く動きに肉体が追い付くまで。

 愚直なまでに真っ直ぐな剣、それ故に強く、淀みが無い。才能の有無を見抜く洞察力は無いが、その姿勢にこそ見込みがあると感じた。


「いい太刀筋だ。――お前、名前は?」


「ジーリィ」


「いいか、ジーリィ。誰かが助けてくれるなんて思うなよ。お前の道は、これからお前自身が拓いて行かなくちゃならない。何があっても、お前の手で、そうしなきゃ妹は守れない。分かるか」


「……はい」


「いい眼だな、お前きっと強くなるよ」


「本当!?」


「ああ、似た奴を知ってる。まあ、そいつはちょっと、あまりいい育ち方はしなかったけれど」


 俺の応答に首を傾ける少年ジーリィ

 曇りも陰りも、歪みもくすみも感じない、純粋な眼だった。

 その双眸はまるでこの世に悪意なんて何一つないみたいに、ありのままに世界を見つめている。

 かつての自分はこんな眼をしていただろうか。

 今となってはもう、確かめようもない。


「じゃあ、達者でな。負けるなよ」


 少年の手に数枚の銀を握らせる。

 彼は驚き、返そうとしたが無理やり懐にしまわせた。

 銀を持ったことが無いのだろうな、扱いに困っている様子だ。


「おじさん、ありがとう!」 


 少年はしつこいくらい頭を下げて去っていった。

 妹の元に帰るのだろう。

 そうしてまた明日から、あの兄妹は寄り合って生きていく。

 彼が真っ直ぐなまま進めるように、路傍の石は除けておかねばなるまい。



 ◇



 闇に秘された路地裏。

 糞尿や吐瀉物にぬかるんだその場所で、不用心に排泄をする男が居た。

 夜に慣れていれば辛うじて見える程度の薄暗さだが……男の顔をしっかりと確認する。俺が貧民区スラムに戻った目的。


「よお、おっさん。いい夜だな」


「目つきの悪い小僧だなぁ、知り合い、じゃあねえよな。何か用か?」


 酒に酔っているのか、離れていても開いた口から酒気が届く。

 不衛生な環境と相まって呼吸も諦めたくなる悪臭。それとも、はらわたでも腐っているのか。


「昼間、子供を殴っていたろ」


「ぁあ?だから何だってんだ?」


「あの兄妹……身体も衣服もぼろぼろだったな、折檻にしては度が過ぎてると思うが」


「何だ、見てやがったのか。俺が俺の奴隷もんをどう使おうが勝手だろう。五月蝿い奴だな、失せねえとぶっ殺すぞ」


 奴隷ものか。

 大方そういった類いの関係性と予想していた。


「碌に食事も与えていないだろ、あの子たちを殺すつもりか」


「あぁ、うへへ、安心しろよ。そんな勿体ねえことはしねえ。兄貴の方は兎も角、妹の方は腐っても女だからな、もう少し食いでが出てきたら、俺好みに育ててやる。折角大枚はたいて買ったんだぜ、上手く使ってやんねぇと、失礼ってもんだろうが」


「どうせ一生奴隷なんだ」と男は締め括る。

 下卑た表情、いっそ清々しいまでに剥き出しの悪意。

 性根の底まで腐っているな、この男にどれ程の価値があるだろう。


「なに笑ってやがる。薄気味わりぃ野郎だぜ。おら、退け。それともぶん殴ってのしてやろうか」


「よく喋る豚と思ってな」


「あ?」


 直後、男の左顔面に拳が炸裂する。

 ほとんど無意識に打ち出したものだった。

 不意打ちの一撃に反応出来ず、男は衝撃のまま横転する。


「いってぇな、この餓鬼ぃ……やってくれんじゃねえかよ!」


 大した影響ダメージもない男が勢いよく立ち上がった。

 威勢だけは上等な物だ。

 丁度いい、と内心でほくそ笑む。最初からタダで済ます気もない。


 二度、三度。

 向かってくる男を幾度も転がした。

 意地になった男が立ち上がるのを待って、更に転かす。

 人間、力むと意外に消耗するものだ。

 男は次第に息も上がり、膝の力が抜けてくる。力ばかりに任せた雑な挙動。

 馬鹿が、肥え過ぎなんだよ。


「くそ。ぜぇ、あ、当たらねぇ」男が息を切らして片膝をついた。こいつ、状況が解っているのか。


「お前は糞に塗れているのがお似合いだよ————なぁ!?」


 利き手は右か。

 踵で右手の甲を踏み砕いた。

 枯れ木の折れるような音が足伝いに響く。

 片膝と右手で身体を支えていた男が大袈裟にのた打ち回る。


「っ……あぁあああああああ?!」


「しかと拝見させてもらったよ、力で支配するのが得意だろ? あんたに倣ってはみたが成る程ね、意外と悪くはないじゃないか」


「ぁ、手っっ? 俺の手……くそっ、畜生っ」


「図体ばかりだな、うっかり死ななきゃいいが!」


 がら空きの顎先目掛けて蹴りあげる。

 数本の歯が散った。激しく裂けた下唇からは多量の出血。仰け反った男の胸ぐらを掴んで引き寄せ、損壊した右手をもう一度踏み抜いた。


「――――ッッッッ!!」


 痛みに悶え、脂汗と鼻水、涙で濡れた男の顔面は直視するには余りある醜さとなっていた。

 余程痛むのだろう、唇が痙攣して泡を吹いている。必死に壊れた右手を左手で抑えているが、両方壊してしまえば、気にする必要もあるまい。

 再度踏みつけようと足を上げた直後、察した男が弁明を図った。


「……待て! 待て待て! 頼む、み、見逃してくれ。ちょっと魔が差しただけだ! 冗談じゃねえか、ただの冗談!」


「冗談だって?」


「あ、あぁ、なぁ、虫の居所がお互いに悪かったってだけの話だろ、嚙みついて悪かった、俺ぁまだ死にたくねえんだ、へへ。あんただってよぉ、こ、殺しは流石に不味いんじゃねえかよ兵隊さ————」


 男は途中で言葉を詰まらせる。

 突き出した剣の切っ先が男の胸を僅かに穿つ。

 痛みすら恐怖を前に忘れた男が喉笛を鳴らした。胸骨が辛うじて心臓を守っているが、踏み込めばこのまま容易く貫ける。


「————……これまで散々殺してきたよ。これからも、必要なだけ誰でも殺す。何百人でも、何千人でも……何万でも。あんただって、その一人」


 今ここで実践してみようかと、ほんの少し力を強める。

 男の胸元は出血によって赤く染まっていたが、顔面は恐ろしく青ざめていた。

 完全に血の気を失った悲愴な表情……威勢は何処に隠れたか慈悲を乞う。


「やめ、やめてくれ……ください」


「まあ、本当なら今すぐ殺してやってもいいんだがな。特別に見逃してやる」


「ほ、ほんと、か?」


「ただし同じ真似を見かけたら間違いなくあんたを殺す。何処までだって追い詰めて、いいや、それ以上の屈辱を与えると誓う」


 切っ先は胸元から真下へ向けて緩やかに線を引く。

 紙を切るが如く割けた肉から鮮血が滲み出た。


「先ずはと足を切り落として奴隷船の漕ぎ手でもさせてやるよ。生き残ったのなら両の指を潰して、それから金を持った好事家の爺さん相手にその汚ねえけつを引き渡してやる」


 男はごくり、と生唾を呑み込んだ。

 例に挙げたどちらも事実上、死の宣告に近いもの。下手をすればそれ以上の末路を迎えるだろう。権利の全てを剥奪され、尊厳という尊厳は虫けらのように踏みつぶされる。そこいらに転がる石ころ以下の価値を付けられるのだ。


「服も言葉も要らない、尻を晒して、萎れたナニを咥えるだけの仕事だ。衰弱したら豚の餌、目も耳も鼻も削いで、最後の瞬間まで自分が喰われている感覚がちゃんと分かるように……楽には、殺さない」


 男はもはや思考を半ば放棄しているようだった、否、これは極度の恐怖による放心に近いのか。

 異臭が鼻をつく。これは男から漏れたものであった。いまいま済ましたばかりの癖に、よく出しやがる。

 委縮しきった男への止めとして十枚ほどの銀貨をばら撒いてやった。

 茫然自失となっていた奴だが、遅れて自分に投げられたものだと理解する。


「へ? ぁ、え?」


「それは詫びだ、受け取れよ。受け取ったのなら……言わなくても解るよな?」


 簡単には稼げない額の銀貨を握らせ、立場を教えておくのだ。

 次は無い、と。

 いつでも殺せるのだと脅しをかける。

 生存を見い出した男の眼光に希望が宿った。

 銀貨を搔き集める為に男は必然、俺に跪く格好になるが気にしないようだ。

 恥も矜持無く、無意味な生に縋り命を乞う姿はこうも醜いのかと心から軽蔑した。


「往けよ。よくよく、胸に刻んでおけ」


 泥に血、脂汗と糞尿に塗れた男が蛆虫さながら這いずって逃げ出した。

 切っ先に付着した血を拭い刀身を鞘に納める。

 これで二人はもう大丈夫、大丈夫なはず。

 息を吐くと重たい物がのし掛かる。途端に力が抜け、壁にもたれたが膝が崩れて座り込んでしまった。

 尻が汚れたが、立ち上がろうという気にもならない。とにかく、何もかも億劫だった。


 己の行いが正しかったのか解らない。

 ミゲルドの言うとおり、何も変わらないのかも。

 短絡的な暴力で解決するのなら、この状況は生まれていない。そんな事は幾ら馬鹿な自分でも解っているさ。

 ただ、あの子供たちを見捨てることがどうしても出来なかった。


「……はっ」


 渇いた笑い声が出た。

 何も面白くなどない。不快なだけ、なんの溜飲も下がらないまま。

 足元に水溜りができていた。血と泥で濁り切った水面だが、どうしてか鮮明に己の顔が写り込む。昏い相貌、人殺しの目。誰に言われたっけな。


 ――この偽善者め。


 遠くから、そんな言葉が聞こえた気がした。

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