第34話 神不在の貧民区《 Ⅰ 》




 バルガスより渡された密書に記されていたのは大きく二つ。


 三人の人物と場所。

 それ以外に説明の類は殆ど記載されていない。

 万が一何者かに見られても窮地に至らぬよう決定的な内容となることを避けたか。


 綴られたのは雑な文字であった。

 統治者として培ったはずの教養を感じさせない程に崩れた字体。

 ただ微かな震えを伴って綴られる羊皮紙に滲む敵意が、バルガスの文字ものであると確信させた。

 箇条書きされたそれらが一体何を意味するものなのかは判然としない。

 彼の指示を受けていけば、自ずと明かされるのだろう。

 バルガスから教会への使いを頼まれたが、キャスタリン司教も記された人物の一人であった。

 今回は司教に会うことは敵わなかったけれど……もう一人、彼の下に続けて書かれた人物。


 人物の名は、シェイファー=ランバードルグ。

 彼には来歴等の説明が施されていた。何でも、古くからアミュガット領主に仕え続けた誉ある一族だという。


 数年前、叛逆によって家名を失い、野に下った男。

 ならず者を率い、《鷹》と称された男の……それがかつての呼び名であった。



 ◇



「珍しい場所にいるもんだな、神に縋るたちでもなさそうだけど」


 教会にて待ち受けていたのは因縁ある男————《鷹》であった。

 意図は知らないが、バルガスの仕向けた邂逅と考えるのが自然だろう。

 先日対峙した際にはかなりの手傷を負わされて双方痛み分けに終わっている。尋常ならざる剣技の持ち主だ、今も領主の下に居たのなら一角の人物であった筈。話では叛逆により野に下ったらしいのだが、バルガスと現在いま、どういう繋がりがあるのか。


「そっちこそどうしてここに居やがる、《血濡れ》のあんちゃん。司教にでも会いに来たか?」


「用事と、少しばかりの興味があってね。出来れば顔を会わせたかったけれど……生憎と今日は不在らしい」


「くく、誰のことやら」


 彼は意味ありげに微笑んだ後、包帯の巻かれた俺の腕に視線を移した。


「腕の調子、良さそうだな。相応の深傷を与えた筈だったが……どういう絡繰だ?」


 大袈裟な包帯は見せ掛けだと見抜いたか《鷹》は不審がる。

 確かに処置が無ければ使い物にならなくなっていたかもしれない。

 仮に治療が間に合っても後遺症は免れなかっただろう。だが、治癒を施したのは《奇跡》扱うクシェルだ。常識は適応されない。


「もう一度試してみればいい。決着、未だだったろう?」

 

 鞘から刀身を僅かに引き抜くと薄暗い礼拝堂に光が漏れる。逆光に隠された《鷹》の顔が淡く照らされた。不敵な表情が少しだけ強張った。


「残念だがもう懲りてらぁ。言ったろ、二度とやりたくねぇってな」


 両手を挙げ、交戦の意思が無い事を知らせるが隙は無い。

 奴の最速は今も脳裏に焼き付いている。この距離で迂闊に飛び込めば手痛い反撃を喰らうことは理解していた。


「それに、お前さんを狙う理由もねぇからな」


「どうだかね、いまいち信用できないけど」


 口先ではそう答えたが、彼に戦意が無い事は見抜いていた。

 その証拠に敵意らしきものは微塵も感じない。


「そういやあ聞いたぜ? 何でも領主の手伝いに来たらしいじゃねえか。街のごろつき共が噂してやがる。あの化け物染みてたバルガスが、とうとうクウェンに泣きついたってな」

 

 バルガスとは幾度か剣を交えたことがあると聞いている、この男が『化け物染みている』と評価するとはバルガスはやはり傑物であったのか。

 暗鬱にも取れる光を瞳に携えた彼は次いで「いよいよバルガスも歳だな」と付け加える。


「アミュガットとクウェンは隣り合う領地。そもそも同じ共和国の一つなんだから手を結ぶのは自然な運びだろ、特に今は戦続きで両方疲弊してる。お前みたいなチンピラがのさばる位だし」


「チンピラ呼ばわりとは……言ってくれるぜ。まあ、間違っちゃあいねえがよ。とはいえ同盟があるから仲良しこよしって訳じゃあ無いだろう? 現に最近まで戦をしてたからな。何処かしこも自分が一番なのさ、他所の事情なんざ関係ねえ。兄ちゃんだって、ウァルウィリスの為に大勢殺したろ」


 今回ウァルウィリスにバルガスが助けを求めた理由はアミュガットの疲弊によるものだが、しかしその原因、一端を担ったのは間違いなく己であった。


「安全と生活の為だよ。でも、あんたが言うと重みがあるな」


「……その感じ、何か聞いてるなあ?」


「家名を失った叛逆者だと」


「あのくたばり損ないが余計な話を……だが、いいさ、は破っちゃいねえ」


 軽薄さすら醸す男から、確かな矜持プライドが顔を覗かせる。

「誓いとは何だ」と問い掛けたが、彼は「別に話すことでもねえさ」と拒否する。事情があるのだろうが、話したくないのなら無理に踏み込むつもりは無い。


「代わりという訳でもないんだが、一つ訊いてもいいか?」


 《鷹》は黙したまま掌を差し出した。それを首肯と受け取り、質問を続ける。


「俺たちを襲ったのは偶然か、それとも」


 状況を見返せば、道中の襲撃には不可解な点が多かった。

 あの地形、あの戦力、あの武装。順当にいけば目的を果たすのに十分な条件が揃っていたはず。

 だが結果は痛み分け、どころか損耗した《鷹》たちは撤退を余儀なくされた。

 対して俺たちの被害は軽微。襲撃が仕組まれていたのならあまりに稚拙ではないか。


「さあて、どうだかね」


「答える気はないか」


「答えたとこで信じやしないだろ」


「……かもな」


 本気で奇襲に臨めば、全滅はともかくこちらの被害は甚大となっていただろう。

 そう俺が推察していることも《鷹》は理解しているだろうに、あくまでもシラを切るつもりか。

 

「おっと、いけねえ。そろそろ時間だ」

 

 どうやら無粋な質問だったようで、回答を嫌がった《鷹》が話を逸らす。

 あれだけ綺麗な剣を振るうくせに話題の切り方は下手くそだった。


「ちょいと野暮用でね。本当なら衛兵に見つかる前にさっさと去らねえといけねえが、幸いなことに今は警戒も緩んでるからな」


 すっかり失念していた。

 堂々と振る舞っているが、考えてみればこの男は犯罪者じゃないのか。

 この聖アミュガット城塞内を大袖を振って闊歩しているなど有り得ない話だった。

 衛兵の監視を搔い潜りどのような手段で壁を越えたのだろう。

 可能性としては何者かの手引きが妥当だが、得体の知れぬこの男ならば自力で侵入も実現できるかもしれない。


「待てよ、行き先は?」警戒も無く隣を横切る《鷹》を引き留める。バルガスがこの男と俺を引き合わせた真意、測らねばなるまい。

 彼は頭を掻いて面倒臭そうな仕草を見せたが、「まあいいか」と独りでに納得して振り返る。



「————貧民区スラムだよ。興味があるなら、連れてってやろうか?」







 ■※■第34話‐神不在の貧民区スラム‐■※■




《鷹》に続いて教会の外に出るとミゲルドが敷地の外で待っていた。

 仏頂面で敷地の入り口ど真ん中で立っているもんだから、信徒らしき奴らが尻込みして中へ入れずにいる。

 あれは狙ってやっているな。

 司祭から受けた侮辱への心ばかりの返礼だろうか。

 ずっと警戒を続けていたようで一瞬で俺が外に出た事に気付いてくれた。


「お前、なんでここにいる?」


 ミゲルドは俺の隣に《鷹》を認識すると身構えた。

 警戒と戸惑い……動揺に混じるほのかな憐憫。

《鷹》はミゲルドとは対称的で、まるで旧友との再会を思わせる態度を取る。


「そのくだりはさっき終えたばかりだ。久し振りだなぁ、ミゲルド」


「知り合いか」


「ああ……裏切り者だ。何故一緒に居る、何度も領主様に挑んでいる男だぞ」


 切なさをも帯びていたミゲルドが敵意を新たにする。

 放った文字に音が乗る刹那、何処か抵抗があったのは気のせいか。


「らしいね。今から貧民区スラムってのに用があるみたいで、連れていってもらうんだよ。多分お尋ね者なんだろうけど……今日は見逃してやってくれないか? 気が進まないのなら、ミゲルドはここまででも良い」


「いや、問題はない。領主様からはヴォルフに従うように言われている。それにあそこは危険だ。俺もついていく。どうせ大した用でもないと思うが、護衛だからな」


「そう言ってくれるのは頼もしいよ」



「糞真面目は変わらねぇな」ミゲルドと俺とのやり取りに《鷹》がそう揶揄をした。

 ミゲルドは「黙っていろ」と冷たくあしらったが、口調こそ荒くもそこに敵意や怒りという気配は含まれていないようであった。



 ◇



 城塞として規格外の規模を誇る聖アミュガットには、貧民区スラムと呼ばれる一帯が存在していた。

 救われぬ者共の集積場に付けられた別称、その名を《神不在の貧民区ルンペンヴェルク》。


 貧民区スラムの構造としては大きく五つの区画に分類される。

 住民が増えるほどに増築され、かつては城塞内の都市開発の為に廃棄された一区画のみであった。

 度重なる不作と飢饉、流行り病や戦、様々な要因による領内の疲弊によって、今では聖アミュガットの三割近い規模にまで膨れ上がった貧民区スラムは、同じ城塞内にあって独立した自治区となった。

 

 衛生環境は劣悪極まり、住民のみならず棲み付いた野生動物の糞尿、城塞内で処分の難しいもの――例えば死体など――までがそこいらに転がされる。


 従って常に悪臭が充満する貧民区スラムとその他聖アミュガットの地区には境界となる障壁が建てられ、完全な隔離地域にされている訳だが、その影響でさらに環境の悪化は深刻化。

 加えてそうした閉鎖的環境から犯罪者や逃亡者の隠れ蓑、病の温床となってしまったらしいのだが……――。


「確かに、鼻が曲がりそうだ」


《鷹》に連れられること半刻、俺たちは目的の貧民区スラムに到着した。

 多少聞き及んでいたが強烈な悪臭だ。

 戦場では臓物、血の鉄臭さ、人体の脂や腐敗臭、火薬の匂い等が入り交じり、あれはあれで相当な悪臭ではあったのだが、そっちの方が幾らかマシにさえ思える程に酷い。

 耐え兼ねて鼻を手で覆った俺へと《鷹》が忠告する。


「ここは第五区、入口に近い浅場だ。数字が小さいほど古くからある、第一区はこんなもんじゃねえ」


 どうもここはまだ触りらしい。

 既に息苦しさすらあるのだが、最早想像の範疇を越えていた。

 一歩後ろにつくミゲルドも《鷹》に小さく首肯する。


「安心しな、今日の目的は第三区。第一区あんなとこはよっぽど近づかねぇ。余程の馬鹿じゃねえとな」


「ふぅん」


 何の用事なのかとしつこく訊ねても回答は決まって「着いてからのお楽しみってやつだ」とのこと。

 どうせまともな用事ではないのだろう、人の目を避けねばならない密売か何かしらのはかりごとか。事次第では見過ごせまい。


「しかしながら酷い有様だな」


 廃材や瓦礫と乱雑した通りでは客引きと思われる厚化粧の女が裸体同然の姿で手招いていたり、白昼から酔っぱらった男が殴り合っていたり、怪しげな薬草を嚙んで錯乱していたり……路地裏では生きているのかも判別がつかない者らが泥に塗れて蹲っている。

 こんな所でも酒もあれば女もいるのか。

 吹っ掛けられなければ無料タダ同然の安値で抱けるというが、ミゲルド曰く病を貰うそうだ。《鷹》からは「瘦せてばかりで色気も食い出もねえのばかり」だと釘を刺される。というかまだ、なにも言ってないんだけど。


 歩いていると腹の虫が鳴った。

 朝食はしっかり食べたのだが、最近やたらと食事の量が増えていたりするのだ。

 成長期というやつだろうか。背丈も筋肉も順調に育っているからな。今日も今のところは歩く以外特に何もしていないのだが、動けば自然と腹は空くもの。どうやって空腹を紛らわすかと考えていたら都合よく進行方向先に露店が出ていた。

 何か焼いているのか煙が上がっている。

 辛抱ならないので二人に一言告げ、早速覗きに向かった。


「うっ」


 致命的に食欲を削ぐ臭いだった。

 香り付けの為なのか見たこともない草で燻されている、何の肉かも想像が付かない。

 露店の傍らに遺棄された死体……もはや人の原型は留めておらず、云うなれば肉塊か、もしくは人であった物。

 どうにも体の一部が欠損しているようにも思えた。

 不意に浮かぶ想像を慌てて打ち消す。

 まさかそんな筈はないのだが、考えるだけでも悍ましい。

 ここで買うのは止めておこう、そっと銀貨を懐に戻す。戻ると静観していたミゲルドが「懸命だ」と頷いた。《鷹》は少し残念がっている感じだ。……まじで何の肉だったんだ?


 第五区を踏破して、第四区へと入る。

 区画ごとに明確な線引きはされてないが、雨風で腐った看板が立っていたのでここからが第四区なのだろう。

 さらに進んでいくと、道の真ん中で枯れ切った老人の隣で腕の無い子供が布一枚の地べたの上に横たわっていた。

 息はしているが病か何かか、微動だにしない。

 二人共すっかり弱っているように見えた。あまりに目に付く場所に居るものだから気になって、老人とつい目を合わせてしまう。


「そこの御仁、哀れな我らに恵みを下さらんか」視線を交えた老人がか細い声で叫んだ。見かけよりもはっきりとした声調だった。


「ヴォルフ、気付かない振りをしろ」ミゲルドが耳打ちする。黙って頷き、無関心を装って足を速めた。

 しかし骨と皮だけの老人は虚弱な風貌に相反して強かに迫ってくる。必死の形相だ、見捨てていいのかと僅かな良心が責め立てる。


「おっとぉ、ちっとしつこいんじゃねえか?」


 間に割って入った《鷹》が老人の接近を阻んだ。

 手を伸ばし、これ以上近づくなと告げる。老人は思わぬ障害に舌打ちしたかと思えば、悲愴な表情を作って今度は《鷹》に縋り付いた。


「おお、ほんの少しでいいのです。今日を生きる糧を貰えれば……儂は老い、孫は事故で働けず弱ってしまいました。このままでは共々餓死してしまう」


「かか、その割にあんたは血色がいい。爪も肌も、髪の痛み方も。なにせあんたは目が死んでねえ……なあ爺さん、あまりおちょくるんじゃねえよ。


《鷹》は老人の魂胆を見抜いていた。


「相手はきちんと選んだ方がいい。そうだろう?」


「……けっ、てめえこっちの人間かよ。媚びるんじゃなかったぜ」


 老人は別人のように態度を変える。

 唾を吐き棄てると横たわっていた子供を起こして路地裏へと消えていった。 


「ああやって弱者を装って金品をせびる物乞いは多い。この辺り……第四区ぐらいまでは衛兵や商人がやって来るからな。奴らが自己満足の為に施すから、ここいらの糞共はすっかり怠けちまった」


 言外に警告された気分だ。

 これが貧民区スラムかと、思い知らされた。

 光ある所に影が生まれるように肥える者も居れば飢える者もまた存在するということか。

 

「何故こんなにも領民が飢えるんだ、少なくともクウェンでは……」


「クウェンでは貧民区スラムなど無かった、か? そりゃあそうさ、あそこは豊かで、富にも溢れてる。でもな、アミュガットは違う。作物は育ちにくけりゃ動物も少ない。山も海もねえし、川だって多くねえ」


 そう言えばクウェンは緑で溢れていた、しかしアミュガットに来る時に見たのはあの岩石地帯……無主地を越えたあたりから森なども滅多に見かけていない。


「昔は少ない民族が居るだけだった。だがいつの間にか人間が集まって……人間が集まれば富も集まるだろ、そうすりゃ周りから狙われる。狙われるからには城塞がいる、選ばれた奴らはその中で安寧を享受するさ、領内が潤っている間はな。

 だが領民全部を喰わせるだけの実りはここじゃ獲れねえから、別んとこで補う必要があった」


「侵略……いや、略奪か」


「その通り、かつては豊かだったみたいだぜ。この土地の民族は強かった、戦いでかなり数を減らしたが、それでも脅威だった。だから真っ先に戦地に送られたりしたんだがな。元々奴らは地続きの土地は根こそぎ荒らし回っていたから、利用されたとも思わなかったろうが。

 唯一の救いは、奴らが略奪した土地に定住しない事だ。奪うだけ奪うが、必ずこの精霊の地、アミュガットに戻ってくる……それが不味かった」


「何か問題があったのか?」


「ああ、方々に喧嘩を売ってたからな、四方から狙われたよ。今じゃ数は激減、精霊の信仰も薄れちまった。この城塞都市に暮らす奴らはほとんど余所者さ。戦う人手が減って、奪った富も少しずつ失われた。

 力を削がれ縋るように共和国に属したが、お陰でもう何処からも奪えなくなった。どころか教会なんてものが出来て、馬鹿な奴らが少ない銀を献上しやがるからどんどん貧しくなっていくって訳さ。その上、神とやらと精霊で内輪揉めだ。どうにもなんねえだろ、人間の拠り所であるはずのもんが、生活を奪ってるんだぜ?」


「ふん、馬鹿らしい、全ては教会の所為だろう」


 話を聞いていたミゲルドは最後にそう締めくくった。

 今の話の中では教会の非など見当たらず、強いて言えば衰退の一途を辿った原因の一つは精霊信仰を掲げる民族にあるようだったのだが……彼は徹底して教会を嫌っているな。

 しかし興味深いのは《鷹》がどちらにも属していない様だという事だった。

 神にしても精霊にしても、こんなに信仰が根付いた土地に住んでいながらこうも無関心な人間が育ち得るのとは。 


「————……着いたぜ、ここだ」


 いよいよ第三区へと辿り着くと丁度区画の境に店が構えられていた。

 何があるのかと意気込んだが、《鷹》に連れてこられたのはこれまた予想を裏切る場所であった。


「ここ、酒場かよ」


「俺の行きつけでね、古い友人がやっている。ここに来る時は毎回飲みに来るようにしてるのさ」


「野暮用って、まさか飲みの事じゃないよな?」


「ん、ああ? なんだ、むしろ他に何だと思ったんだよ」


 おいおい、こいつマジで言ってやがるよ。

 色々あるだろと突っ込みたくなるが、もしかすると冗談なのかも。ふざけているに違いないと確認を取る。

 

「ちょっと待て、何か話があったりするんじゃないのか」


「話? 特には無いが……」


「まじか」


 大方予想していたらしいミゲルドは「だからどうせ大した用ではないといったんだ」と呆れていた。俺はてっきり何か領主バルガス絡みの話になると踏んでいたんだがな……こいつ、本当に密書にあった《鷹》で間違いないんだよな?

 勝手な予想をしていただけと言われればそれまでなのだが、どうにも釈然としない。


「どうだい、あんちゃんも一杯ひっかけていくか?」


 すでに飲む気分の《鷹》が杯を仰ぐ仕草をする。

 酒場で密会かとも勘ぐったがそういう雰囲気でもなかった。


「はぁ下らない。もう俺は帰る」


「なんだぁ? 付き合いが悪いな。折角ここまで来たってのに」


「こっちの台詞だよ」


 思わず溜息が出てしまった。

 これ以上居ても有益な情報は手に入りそうにない。

 結局は無駄足、とまでは言うまいが、しかしスカを喰らったな。

 大人しく去ろうとすると《鷹》は「そうだ」と指を鳴らした。


「じゃあ、一個だけ答えておいてやる」


「……なんだよ?」


「お前さんとの戦い、ありゃあ偶然だ。だが今日会ったのは偶然じゃない。誰の仕業かは、言わなくてもいいよな」


「目的は何だったんだ、あんたは何を聞いて————いや、何を謂われてる?」


「今日の所は用は終わってんだ。近い内にまた会うことになるだろうさ、お互いに生きていればな」


 何故ここまで来て真意を話さない、いや、話せないのか。

 問答など意味がないな、手荒に聞き出すのも一つの手ではあるが、


「ヴォルフ、また改めた方がいい」


 考えを読んだミゲルドに先手を打たれる。

 成程、護衛役であると同時に、彼は監視役でもあるようだ。

 俺が騒ぎを起こさないように制御するのも仕事の内か。

 まあ、本気で争う気など元より無い。敵の有利で戦ってやるほどに馬鹿ではないからな。


「それじゃあな《鷹》。今日は世話になったよ」


「ああ」


 視線を外した《鷹》は二度と振り向かなかった。

 バルガスによって仕組まれたであろう《鷹》との邂逅、結局何が目的だったのだろうか。

『今日の所は用は終わっている』と、そう言った。

 この貧民区スラムに俺を連れてくる事が目的の一つであったとでも言うつもりか、バルガスも今朝街を回るようにと言っていたし。


 俺に惨状を知らしめ、教会への不信や義憤でも募らせたいのだろうか?

 むしろバルガス本人の信用が揺らいでいるのだが……。

 しかしだとしたら、粗末な試みではないか。


 俺が最初から精霊にも神にも関心が無いことをバルガスは知っている。

 考えても当分答えは出そうに無かった。



 ◇



 貧民区スラムを出る直前で子供を見掛けた。

 抱える程の水桶を懸命に運ぶ少年と、彼に続く薪を持った少女。

 雰囲気から、すぐに兄妹であると気付いた。

 立ち止まりその様子を観察する。

 二人には薄汚れた場所には似つかわしくない透明な輝きが宿っていた。

 寄り合って歩きながらも何処か兄を支えるような妹と、けして疲労や弱音を覗かせない兄。


 二人の身体は細く小さい。

 まともな食事もなく力もでないだろうに……折れそうな手足に、それでも逞しくある生命力は、きっと二人一緒だからこそのものか。

 あのような逆境を前にしても、兄妹は優しい笑みに溢れているのだ。


 自然と笑みが溢れていた。

 あのような光景に心当たりがある、今はもう、少し遠くに離れていってしまったけれど。


「――てめぇら! いつまでかかってやがる!!」


 幻想ゆめを覚ましたのは男の罵声であった。

 どこからともなく出現した上背のある、小肥りの男。見た目は勿論として肉親という気配でもない、しかし振る舞いからどうやら彼が兄妹の主人であると推察出来た。


「ヴォルフ気にするな。行こう」


「ちょっと、待て」


 ミゲルドはこの先の展開を読んでいるのだろう、前に立って視界を遮ろうとした。

 俺が押し退けて傍観を続けると、彼はもう何も言わなかった。


「能無しが、叩き直してやろうか!」


 男は腰に差していた棍棒で少年を殴りつけた。

 抱えていた水桶が地面に転がり、汲んでいた水が零れると男はさらに激怒した。

 続けて二度三度と鈍い音が聞こえ少年の膝は崩れる。少女の方は兄に駆け寄ったが、兄への折檻を邪魔されたと感じたのか男は標的を移した。

 

 再び力任せに振るわれる棍棒は、しかし少女に当たることは無かった。

 少年が身を挺して庇ったのだ。

 地面に倒れ込んだ少年の頭や腹を、憤った男は幾度も叩いた。

 木の棍棒とはいえ大の大人が振り回せば立派な凶器、女子供を痛めつけるには十分な威力を発揮した。

 痛みに呼吸すらままならず、身動きの取れない少年に男が罵声を浴びせる。


「誰のおかげで飢えずに済んでるか言ってみろ! 金にもならねえ餓鬼が二人、この掃き溜めで五体満足で居られるのは誰のおかげだ!? ぁあっ!?」


 少年は意識が朦朧とするのか何も発さなかった。

 顔は腫れ上がり、鼻や口元から出血がある。


「何寝てやがる? さっさと運ばねえか! このごく潰し共が、兄妹揃って豚の餌にしてやるぞ!!」


 兄の脇で妹は何も出来ずに泣きじゃくっている。

 男はまだ満足しないらしい。少年に唾を吐き掛けると、今度は少女の髪を掴んで脅しをかけていた。


「けっ、泣き喚けば済むと思ってやがる、これだから餓鬼は嫌いなんだ。いいかぁ、黙らねえとな、兄貴がもっとひどい目に遭うぞ?」


 現実の理不尽や不条理、醜悪の全てが詰まっていた。

 これが現実、これが世界の在り方なのだと。


「————……っは」


 忘れていた息を吐くと、煮えた腸が裏返るような感覚に見舞われた。

 途方もない怒りが込み上げる。

 喉元がひりついて背筋が粟立つのが解った。

 憤りは瞬く間に思考を振り払い、濁流が理性を呑み込んだ。

 震えて抱き合う兄妹……自身もまた震えていた。かたかたと歯が鳴る。風景の輪郭が緩やかに失われていく。焦点は男を定め、肉体の暴発を委ねているようだった。

 いつしか拳を強く握っていた。

 今、すぐにでも。


「ヴォルフ、何をするつもりだ」俺の様子から事態を予測したミゲルドが尋ねた。彼も回答など解っているのか、腕を広げて制止を試みた。


「何って」


 そんなの決まっている。

 あの下衆をぶちのめして、兄妹を助けてやるんだよ。

 簡単な話だ、難しく考える必要なんてない。ろくでもない場所から助けてやる、ただそれだけ。


「……施すだけでは変わらないぞ」


「ならこのまま見過ごせって言うのかよ。まだ小さい子供だぞ」


「ここでは日常のことだ。あんな子供は大勢いる、お前はその全員に同じ施しをするのか。助けたとして、その後はどうするつもりだ」


「どうするって……」


「ヴォルフ、お前は正しいと思う。だが、正しさを振り撒ける程の権力ちからは無い。一時を感情のままに振舞っても、変えられない」


 違う。

 正しさを為すだけの力ある。

 ミゲルドは間違っている、間違っている筈だ。

 感情で何が悪いのか。ここで拳を振るえなくて何のための力なのかと、心の淵から叫んでいた。

 今この瞬間にさえ自責の念に潰されそうなのだ。


「そんなことをしても、救われるのはあの子たちではないだろう」


「……」


 悔しいが図星を突かれた気がした。

 彼の言葉を否定できなかった、俺はあの子らに自分を重ねていたから。

 現実は恐ろしく、ひたすらに己の運命を憎んだ日々を今も鮮明に覚えていた。

 

「さあ、戻ろう」


「……あぁ」


 罵声と暴力をひたすら与えた男は満足げに近くの家に戻っていった。

 しばらくすると少年は起き上がり妹を慰める。

 少年は兄としての意地か、涙を一滴も流さなかった。泣いてばかりに膝をつく妹を励まして立ち上がらせ、水桶を持ち上げる。もう一度汲み直すつもりだろう。


「ヴォルフ」


「分かってる、分かってるよ……分かってるから」


 いつか知った至極単純な世界の構造。

 半端な情などかけてはいけない。ただ一つを選んで、生きていく。

 生き抜くには、自らの手で掴み取るしかないのだ。

 俺とクシェルだって、そうやって日々を越えてきたんじゃないか。



 結局何も出来ないまま、兄妹は路地の奥に歩いて行った。

 









 ◇第35話 神不在の貧民区スラム《Ⅱ》へ続く――――――


 

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