第二章 ~聖アミュガット編~

第26話 束の間の平穏


「クシェルはきっと、将来いいお嫁さんになるわねぇ」


 おもむろに母さんがそんなことを言った。

 丁度それは兄さんと父さんが稽古に出ているタイミングで、まだ陽も昇り切らぬ早朝の事だったと思う。

 私はお腹を空かせて帰ってくるであろう兄さんの為、母さんを手伝って朝餉の準備をしていたのだ。


「お嫁、さんですか?」


 あの頃の私に馴染みのない言葉であった『それ』は、だがしかし妙にむず痒い印象を与えてきたのだ。

 知り得ない言葉にどうして心がざわつくのか。

 大きく傾けた私の頭を、母さんがそっと撫でる。


「そうよ、お嫁さん。お父さん……ラグナルにとってのお母さんみたいに生涯を誓った人の事」

「生涯を誓う人……」


 生涯というのは人の生きている間の時間全部を指すらしい。

 誓いはつまり、それを交わした人物と自分を永劫に繋ぐ契りとなる。

 

 一生涯……途方も無く遠い話だった。

 幼い私には到底想像もできない未来だ。

 自分が生きた時間の何倍もの月日を捧げる相手が、果たして現れるのかと。


「難しいです」

「そうね、クシェルには少し早かったかも」


 例えばだ。

 例えば、兄さんはどうなのだろう。

 生涯を誓うまでもなく、兄さんは私と共に在ってくれた。

 順序こそ違うが、兄さんとならばこの先何十年でも共に過ごしていきたいと思えた。

 そう考えればさして難しい話では無いと感じる。

 馴染みの無いはずの言葉は一瞬で手元にやってきた。

 まるで、元から私の手の中に在ったように。


「いつか貴女を一番にしてくれる人が現れた時、また考えればいいわ」

「クシェルを、一番?」

「そうよ、そして貴女が一番にしたい人を選ぶの。私と、ラグナルみたいに」


「まだ難しいかな」と母さんは呟いたが、私が抱いた感想はまるで逆。


 有り体にいえば拍子抜けしたのだ。

 誓いを満たす為の条件があまりに簡単過ぎるのではないかと。

 クシェルを一番に扱ってくれて、何よりも私が一番好きな人物ひと

 やはり、相手は兄さん以外には在り得なかった。


「兄さんと、ずっと一緒……」


 幼さが見せた幻想であるはずが、どうも漠然とした未来であるとも思えなかった。

 大好きな兄さんと暮らすことは、すでに約束された日々であると信じて止まなかった。


 身体がふわふわして、少しだけ息苦しくなる。

 胸がきゅっとなって、顔が熱くなる。 

 視界に収まる全てが、微かに輝きを増したように錯覚した。


 これは初めての感覚だった。

 主張を強める鼓動はしつこく熱を細部に運ぶ。

 どうしたことか、意思に反した肉体は昂りを隠そうともしない。


 その熱の名前を、私は知らないままでいた。


 





 ■◇※◇第26話-相変わらずの日々-◇※◇■





 ウァルウィリスより貸し与えられた兵舎の一室で、俺はとある人物の遺した手記を読み耽っていた。


 兵舎には多くの兵士が暮らしているが、早朝から昼にかけては皆訓練で出払っているので読み物をするにはいい環境なのだ。


 血と油、汗や泥に削れた羊皮紙を慎重に捲る。

 一頁進む毎に綴られるのは、手記が歩んだ軌跡。

 持ち主の歴史が刻まれた、まさに伝記とも言える一冊。


 俺はここ一週間余りこの手記に夢中となっていた。

 自分で言ってなんだが寸暇も惜しまず読み耽るその姿は、端からすれば何か取り憑かれているようにも見えただろう。

 何せ、食事や睡眠を除く余暇をほぼ費やしているのだから。


 明言しておくがけして学問に目覚めたという話ではない。

 もとより物覚えがいい方ではないし、文字を扱うのも読むのも不得手だ。

 そういうのはクシェルの領分。

 だがこの手記の持ち主があのヴァルリスとあれば話は変わってくる。

 ヴァルリスの死体から手記の発見した以降、俺は部屋に籠っては手記の内容を追い続けていた。


「……」


 ふと感覚を掠めたのは、何者かが接近する足音。

 軽快なリズムで響く音からはやってくる人物の機嫌が窺える。

 害意など微塵も読み取れぬ、柔和な気配。

 確認せずとも正体が分かった。

 その人物は直前で歩調を緩め俺の部屋の前に立ち止まると、僅かに時を置いてから扉を叩く。


「兄さーん、朝ですよ」


 弾み、澄んだクシェルの鈴の音が扉一枚を隔てて浸透した。

 彼女は面倒見がいいというか世話焼きと言うべきか、毎朝決まった時間に俺を起こしにやってくる。


「兄さん? 起きてますか?」


 返事をせずにいると、待ちきれぬ様子のクシェルがいよいよ扉を開けた。

 昔は応答があるまでしつこく待っていたが、最近は無断で侵入してくるのだ。

 勝手に入られて困るものでは無いし隠すようなものも無いのだが……どうにも遠慮が無くなった気がする。


「もう、まだ寝間着のままなんですか。とっくに陽は昇っていますよ」目覚めてから着替えもせず横になったままのだらしのない姿にクシェルは溜息を吐いた。


朝餉あさげの準備が出来ています。今日は皆さん揃っていますから」


「悪い悪い、今から準備するよ」


「そうしてください」 


 あまり待たせると気を悪くさせてしまう。

 吸い付く視線をどうにか自制し、栞紐を挟んで手記を閉じる。また食後に続きを読むとしよう。

 一度ベッドの上に放り投げるも、やはり携帯しておこうかと思い拾い直す。

 身に付けている部屋着にはポケットが無いので一旦はベルトに挟み込むこととした。


「その汚れた読物を最近ずっと読んでいますけど、面白いのですか?」


 読み物に執着する珍しいおれの姿にクシェルが訊ねた。


「んん、面白いというよりは興味を引かれるというか……まあ、それなりにね」


「ふーん? 変な兄さんですね」


 濁すような受け答えにクシェルは怪訝な表情を見せた。

 とはいえ何か追及する訳でもなく、まして俺の読んでいる手記の内容までを訊いたりはしない。

 クシェルは博識で勤勉だが書物にはさほど興味が無いようだ。

 そもそも書物など高価な娯楽品は情報伝達の媒体としての役割などあまり持っておらず、知識や技術は口伝、あるいは相伝されるのが一般的。


 本で知り得ることは他者から得られる。

 それも、経験を上乗せした生きた知識として。

 加えてその内容が偉人や領主、王を讃える為に拵えるものばかりとくれば、これといって目を見張るだけの価値が無いと彼女が判断するのも無理はなかった。


「……あのさ、一応、今から着替えるんだけど」


 着替えるべく襟に手を掛けたが、何故か一向に部屋を出る気のないクシェル。


「なんというか、そのだな、多少、裸になったりもするわけなんだけどさ」


「? はい、大丈夫です。ここで待っています」

「えぇ……」


 こちらとしては最近何かと過敏になってきたクシェルに配慮した発言だったのに、彼女は何を分かり切ったことをと呆れ顔をする始末。

 男女の違いか、自分は着替えを見られると焦って取り乱す割に人の裸を見るのは構わないという。

 別に妹の着替えなど覗く趣味もないが、何だが不公平とも感じる。


「ま、いいか」


 今更隠すものでもなしに、見られて減る様なものでもない。

 気にせず寝間着を脱ぎ捨て、あっという間に上裸になる。露になるのは贅肉の一切を削いだ、抜き身の刀のような筋肉。

 数年前に比較すると身長はもちろんとして随分と体の線も太くなった。

 肉体に刻まれた切傷や矢傷の痕は歴戦を匂わせる。記憶に在る父には及ばないが、少しずつ似て来ているようだ。

 適当な上衣を着ようと腕を上げた際、扉の前に控えたクシェルと視線が交わった。


「おい、なんだよまじまじと」


「は、はい」


 舐め回すという表現ほどでもないが、食い入るように彼女は視線を外さない。

 所詮は兄の身体。

 見慣れたものであり、露ほどの興味も無いのかと思えばそんなこともなく、年頃の娘らしく顔を赤らめたりしていた。


 局部こそは隠れているので問題は無いけれど気にはなるというか、多少の羞恥も湧こうというもの。


「そんな目で見られると、流石にちょっと恥ずかしいぞ?」


「す、すいません。その、すっかり快調したようで安心しました」


「ああ、そういう……」


 視線の理由に納得する。

 ヴァルリスとの激戦にて奴に破壊されたはずの左肩はクシェルの《奇跡》によって治癒されたが、それでも痛ましい痕を残していた。

 クシェルの力を以てしても完治に至らなかったのはこの傷が初めて。治癒数日はまともに動かすことも出来なかった。


「とっくに元気だよ。違和感も無いし。まあ、ちょっとした気怠さこそはあるけれど」


「それは毎日怠けているからですよ」


「はは、厳しいなあ」


「当然です。クシェルは兄さんの妹ですから」


 何処か自慢気に腕を組んだ彼女からは、「ふふん」という鼻息すら聞こえてきそうだ。


「さぁ兄さん。急がないと怒られてしまいます」


「待て待て、引っ張るなよ」


 ごく自然な運びで指を絡めたクシェルが手を引いて走り出した。

 柔く繋がれた掌を固く結べば、彼女は嬉しそうに飛び跳ねるのだった。



 ――――ヴァルリスとの騒動から、すでに一ヵ月が経過していた。



 ◇



「おお、待っていたぞヴォルフ」


 大食堂につくと先に食事を始めていたウァルウィリスはわざわざ席を立って歓迎した。

 祝宴にも使われるテーブルの上には既に食事と美酒が配膳されている。

 広々とした食卓を寂しく囲むのはウァルウィリスとアルガスの二人。

 ウァルウィリスの隣には手をつけた形跡のある皿と料理がそのままになっていた。もしかしたら、先までイリスも居たのかもしれない。


 領主の向かいに座る騎士アルガスが塩漬けした野菜をつまみに一杯やっている。……こいつ、いつ会っても酒を飲んでいるな。

 とはいえきちんと剣は持ってきているし、相変わらず隙は微塵も無いわけなのだが。ちなみに余談となるが、初めて会った審問の時も酒気を帯びていたとか。


「よお小僧、今日は随分と早起きだな?」


「まあね。酒浸りのあんたと違って自分を律するのが苦手なもんで」


 嫌らしい台詞は同じく皮肉で返せばアルガスは分かりやすく眉間に皴を寄せた。瞬間、刺すような気配が彼から漏れたが涼しい顔で受け流す。


「はあ。お前、可愛げがなくなったなあ。ついでに性根も悪いときてる」


「お互い様だろ……——領主様、大変遅くなりました」


 アルガスとのやり取りに区切りをつけ、改めてウァルウィリスに一礼する。


「構わんよ、別に待ってはおらぬからな。あと、その似合わん言葉遣いはもう止せ。気持ちが悪いぞ」


「一応は主従関係ですから」


「今更だろう。一月前、誰に啖呵を切ったのかを忘れたのか? 形だけの敬意など不要だ」


「まあ、そういうことなら」


「とにかく早く座って食事を摂れ、特にヴォルフとは話したいこともあるのだ」


 ウァルウィリスは手招きすると、俺を隣に座るようにと示唆する。

 仕える主人の横で食事を摂るなど他であれば懲罰ものなのだが、彼はあまり気にしないらしい。

 深い信頼があろうと領主の立場で兵士や領民と食卓を囲むこと自体、実はごく珍しい話だった。

 本来は格や品位と呼ぶべきか……権力者こそ周囲の目や評判を気にすべきで、自身の振る舞いには一層の気を配らればならないもの。


 例えば、奴隷などの卑しい存在と口を聞いてはならなかったり、農具を扱ってはいけなかったり。


 高貴な血筋にはそうした縛りや制度らしき悪習が蔓延っているのだが、不思議なものでウァルウィリスはそんな権力者としての常道からは外れた人物であった。

 礼儀作法こそは領主のそれだが、感性や人となりは寧ろ農民に近い気がする。


「兄さん、葡萄酒を飲まれますか?」


「ん? ああ、うん。少しだけ頂こうかな」


 クシェルは自分の食事など後回しで、席に座りもせず俺の世話焼きをする。

 配膳はまだしも、遂には酌まで……これが私の仕事だと言わんばかりの手際だ。

 給仕の真似事などさせたくはないが、彼女が進んで行う以上は止めるのも野暮だろうか。慣れた動きでクシェルは杯に葡萄酒を注ぐと、今度はそれぞれの食事を取り分けてくれた。


「クシェル、兄の面倒もいいが其方も食事を摂れ。折角の料理が冷めてはことだぞ」


「はい、ウァルウィリス様」


 様子を眺めていたウァルウィリスからの言葉でやっと席につくと食事を始める。


「……ヴォルフの食事作法を初めてみた時も驚かされたが、其方はさらに所作が美しいな。何度見ても街娘のものでは無いぞ」


「そんな、大したものではありませんから」


「くくく、兄と違って謙虚で奥ゆかしいのも品がある」

 

 ウァルウィリスと比べても見劣りしないクシェルの秀麗な所作や礼儀作法。

 学問への知識は一流の教育を受けた者と遜色ない水準にあるという。

 加うるは他の追随を許さぬ絶対的な容姿だ。

 振る舞いの全ては彼女の存在が常人から掛け離れたものであると示していた。


 事実、その生まれは高貴な血筋。

 ……素養や資質の話をするならばクシェルこの子は別格だな。


 無遠慮な視線に気付いた彼女は目を合わせるとクスリと笑い、おもむろに俺の口許へと手を伸ばした。

 反射的に避ける間もなく身構える。

 警戒する必要などない筈なのに、クシェルの一挙一動に無駄な注意を払ってしまう。


「兄さん、お口が汚れています。ほら」


 クシェルの細い指先が俺の唇を拭った。


「あ、ああ。ありがとう」


「えへへ、兄さん、子供みたい」


 彼女が見せたそれはまさに幼き頃、母が自分に向けた表情や声質そのものだった。


 どうにもここ最近は彼女に目を奪われていることが多々ある。

 変わらず兄妹としての絆は確かなものだが、しかし何ががズレ始めている、そんな感覚があった。


「そういえばヴォルフ、イリスとはどうなった?」


「え?」


「ここ暫くは食事も共にしていないだろう、今日もお前が来る前にさっさと部屋に戻ってしまった。どうにも避けられているようだが?」


「いや、それは……」


 呼び起こされるのは唇の余韻。

 実はあまり思い出したくない記憶だった。

 あの一件のイリスが迫ってきたおかげでクシェルと喧嘩になり、ヴァルリスに隙を与えてしまった。


「よもや、イリスを穢してはいまいな? 嫁入り前の愛娘だ……事次第では……」


 ウァルウィリスは詳細を知らずして近い答えを出した。

 下手に勘違いさせては面倒になるな。

 動揺せぬよう、なんとか平静を装った。

 殺気にも似た重圧を感じ横を向けば、底冷えするような笑顔を作ったクシェルが居た。

 クシェルは確かイリスをよく思っていなかった。

 ともすればおもしろい会話では無いか。


「まさか、俺はそんな節操の無い男じゃないですよ。とは違って」


「おいおいそりゃ何だ? 俺の事かぁ?」


 ちらり、とそれとなく視線を這わせれば酔いの回っているアルガスが陽気に笑った。


「ならよいが、下手に手を出していたら火炙りにしているところだったぞ」


「じょ、冗談だろ?」


「くく、だと思うか?」


「是非そうあって欲しいよ……」


 こうしたやり取りも今では心地よい。

 どこか近しい感性を持つウァルウィリス、騎士らしくは無いが無類の強さを有する、そして師匠でもあるアルガス、そして唯一の肉親であるクシェルとの四人。

 もはや日常となった、当たり前の風景だった。

 

 ヴァルリスとの戦い以降、俺はすっかりと自堕落な日々を送ってしまっていた。


 あれほど習慣付けていた朝稽古ですら都合によって手抜きをすることもある。

 

 何かこう、大きな縛りから解放された気分だった。

 一先ずの肩の荷が下りたというか、仇を討てた安堵というか。

 故郷こそ失ったが今はここクウェンが自分たちの居場所になった。

 信頼に仲間、豊かな生活を得た。

 代わりに色々なしがらみをつくったが、一番はクシェルが隣に在ること。

 彼女が穏やかに笑って暮らせるのなら、十分だった。


 それが、束の間の平穏だという予感を他所に。


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