第21話 離れる距離


 日暮れにも関わらず、街の賑わいは一向に収まる気配は無い。

 いつもなら人々は勤労を終え、帰路につき家で家族との時間を過ごすのだろうが、今日に限っては誰も大人しく帰ろうとはしなかった。


 依然として通りは人に溢れ、街中に設置された街灯と人々の陽の気配は迫る夜を跳ね返すよう。

 街の酒場はいつにも増して盛り上がり、すでに泥酔した男たちが騒ぎ立てていた。


 酒を飲んだことのないクシェルは酒場に大層興味があるらしく、夕食がてら店に寄ろうと申し出る。そうして酒場に入る直前、一人の兵士が人混みを搔き分けて伝令にやってきた。


「南の裏通り辺りで酔った男たちが揉めているらしく、応援をお願いできますか」


 血相を変え、額に汗を滲ませた兵士はそう耳打ちした。

 こんな時にと思わず舌打ちをする。

 折角の二人の時間なのに、今日くらい荒事は控えて欲しいものだ。とはいえ立場もあって無視も出来ないので言伝のままをクシェルに話すと、事情を理解している彼女は快く頷いた。


「仕方のないことですから、先に待っていますね」


「すぐ戻るよ。――――――あんた、案内を頼めるか」


「ええ、こちらです」


 一分一秒の時間も惜しく、なるべく急ぎ足で現場に向かう。

 連れられたのは全く人気のない路地裏。

 普段人も滅多に寄り付かないような場所で、尚且つ今は祭りの真っただ中。

 わざわざこんな場所で騒ぎなど起きようはずも無く、またそうした痕跡も見当たらなかった。


「何もないじゃないか」


 誤報かと振り返れど、この場所まで案内した兵士の姿は何処かに消えていた。

 どういった企みかと警戒を強めた矢先、不自然に葉の擦れた音を察知する。 

 音の出所を注視すれば茂みの陰に身を隠すよう、何者かが立っていた。


「そこに居るのは誰だ」


 さほど大きくはない、どちらかと言えば小柄に思える影。

 はっきりと人物の判別は出来ないが、まばらな街灯に照らされた体型から女性であると推察した。

 距離を詰めるべく踏み出すと、同調して相手もまた茂みから姿を現す。

 そうして向かい合ったのは、自身がよく知る人物であった。


「……イリス、様?」


「御機嫌よう、ヴォルフ。祭りは楽しめている?」


 想像もしなかった人物の登場に驚くのも束の間、今度はイリスの服装に目が吸い寄せられた。

 現れたイリスは肌が透けるほど薄い懸衣型の巻衣を羽織っただけだったのだ。

 まるで劣情を誘発させるのが狙いだと言わんばかりの身なり、大胆に晒された柔らかな起状に生唾を呑み込む。


 何故このような場所にいるのかと頭を巡らせる間も無く、擦りつけるように密着させてきたイリスの肉体に思考を専有される。


「イ、イリス様……急に何を」


「――――――様なんて要らないわよ、イリスと呼んで」


「それは……」


「ねえ、これから私の部屋に来ない? 傍仕えも侍女も誰もかれも皆祭りに出てしまって、少し人寂しく感じていたの。今なら、二人きり」


 抱擁したイリスは鼓膜の奥深く、脳髄にまでこびりつく甘く惚けた声音で誘う。

 熱く湿気った吐息が耳を掠めた瞬間、脊髄を舐め上げられるような錯覚に陥る。

 だがどういうわけか戸惑いと理性が勝り、意識までは傾倒しなかった。


「も、申し訳ございません。今日はクシェルとの先約があって……今も待たせているので」


「知ってるわよ、見ていましたから。でも、もう十分に過ごしたでしょう?」


 彼女の目のやり場に困る服装も相まって、余計に意識せざるを得なかった。

 ここまで来てようやく、報せに来た兵士はイリスの手引きによるものかと思い至る。


「揶揄うにしては、その、度が過ぎていますよ」


「鈍いのねえ……これが悪戯か何かに思えるのかしら。それとも領主の父が怖い? 勇ましいのに臆病なのね、貴方」


 イリスとは食事をする程度には親密だったが、色情に縺れたことは一度も無い。

 そうした情事に全くの興味が沸かないかと問われれば難しいが、しかしあくまでも主従として、けして男女の関係には踏み込まなかった、踏み込ませなかった。

 その境だけは違えずに関係を保ってきたのに、その境界線を現在イリスは易々と踏み越えようという。


「なんで、こんなこと」


 イリスからの好意には、確かに思うところがあった。

 しかし直接的な行動に出たのは今回が初めてだ。

 何故このタイミングなのか。何が彼女を変えさせたのか。思考がろくに働かない。


「解らないなら、解らせてあげる」


 困惑して身動きが取れなくなっている俺の頬にイリスがそっと掌を添える。対角に合わさった視線が、やがてその距離を詰めていく。


 いや、或いは最初からこの人は変わっていないのか。

 イリスはあの日、初めて会った時と同様、噎せる程に甘く濃密な匂いを放っている。


「このまま、動かないで」


 茜色に蠢く瑪瑙の虹彩。

 官能のままに開けた瞳孔は、危うい熱を孕んでいるようだった。

 街頭の灯りに生まれた二人の影が重なり、互いの唇が微かに触れた。

 閉じた口元が、彼女によって開かれていく……。


「――――――……止めろっ!」


 絡み合う直前、不意に沸き上がる嫌悪感。

 突き動かされ、密着するイリスを引き剝がした。


「何のつもりですか」寸前で拒絶され、イリスは蛇の如き双眸で俺を睨み付ける。


「もしかして、あの娘に気を遣っているの? 馬鹿馬鹿しい、ただの兄妹でしょう。それもあと数年もすれば嫁ぐ年頃、何を構う必要がありますか。それとも何か特別な理由でもあるのかしら? あの娘に……もしくは、貴方に」


「――――……そんなの、関係無いだろ」


「怖い顔ね、そう怒らないで頂戴。でも、どのみち上手くいきっこないわよ。彼女は生まれが違うもの」


「……どういう、意味だよ」


「さあ? 大切な妹と一緒に、父にでも訊ねてみればいいんじゃない?」


 背を向けたイリスがそう吐き棄てる。何か含みを持たせた台詞だったが、イリスはそれきり振り返ることも無く一人暗がりに消えてしまった。


 気持ちの整理も付かぬまま酒場に戻ると店の前でクシェルが立っていた。

 先に店の中に入っていればいいものを、律儀にも外で待ってくれていたのか。

 すでに感触の失せた唇に残った熱らしき何かの余韻を指で拭う。佇むクシェルに呼び掛ければ、表情は一瞬で移ろい、彼女は喜色満面で駆け寄ってくる。


「お疲れ様です。揉め事は大丈夫でしたか?」


「あ、ああ。別に大したことなかったよ」イリスとの件が頭に浮かんだが、話す内容でも無いと思い適当な返事を返す。だがクシェルは何かに勘付いたのか平坦な声調で言葉を紡いだ。


「兄さんは……嘘つきですね」


「え?」


「また、あの人と逢っていたんでしょう」


 イリスとの一件を知る筈も無いクシェルから確信の一言。

 発せられた言葉からは後頭部を背後から殴られたかの衝撃があった。

 一瞬にして緊張の糸が張り詰める。クシェルの纏う雰囲気が一変した。

 どのように看破したのか疑念が渦巻くが、すぐに己の身体に残る芳香に気が付いた。聡いクシェルはそれが如何にして付いたものかを理解しただろう、誤魔化すのは難しいと考える。


「ごめん、隠そうとしたわけじゃないんだ」


「別に、構いませんよ。兄さんが誰と逢瀬をしようと抱き合おうと、どうせ私には関係の無い話ですから。でも、あんな人の匂いなんてつけて戻ってくるなんて……少し、複雑です」


「あんな人って……何でそうイリスを嫌うんだよ」


「何でって、兄さんこそ何であの人を庇うのよ。二人でいるといつも邪魔ばっかり。部屋だって引き離すみたいに別々にされて、今日だって……――――――折角、折角の兄さんと過ごせる時間だったのに」


 最初こそ同じ部屋で寝食を共にした俺たちだが、半年も経たずにそれぞれ個別の部屋を与えられたのだ。兄妹とは言え年頃の男女なのだからと、気を利かせたイリスからの提案だった。


「……兄さんはあの人の事が好きなの?」


「なんでそうなるんだよ、彼女とはそんな関係じゃないし、なるつもりだってないよ」


「だったらなんで抱擁なんて、こんな日に隠れて、わざわざ誤魔化してまで」


「それは悪かったよ。けど、分かるだろ。俺たちはここ街に居場所を貰って、ウァルウィリスやイリスには恩がある。今は仕えることを許されているかもしれないけれど、もし彼女に嫌われたらやっていけない、ここを出ていかされるかも。復讐だって……どうにか信頼も得て、機会が来たら兵士を貸してくれるとも約束されているんだ」


「――――私はそんな復讐、どうだっていい!」


 弾けるように、震え慄くクシェルが怒鳴った。


「お前……お前、何を言うんだ。忘れたのか? 何が起きたのか、何をされたのか」


「忘れてなんかいませんよ。全部、全部覚えています。でも私は、復讐なんて望んでない。戦ってなんて欲しくない。ここでなくたって生きていけるもの。つましく暮らしていけるのなら、私は何もいらない。でも兄さんは、そんなに殺したいのね」


「……夜眠るとき、奴の顔が浮かぶ時がある。ここの生活は満たされていて幸せだよ。幸せだけど、でも、そうやって笑顔を継げば継ぐほど、上手く笑えなくなる気がする。楽しくても嬉しくても、ずっとあの日の光景が瞼に残って、離れないんだよ。奴の顔がちらついて吐きそうになる。奴が生きていると考えるだけで……どうしようも無く堪らない気持ちになる」


 願いなどという言葉では到底表せられない、理性を逸した憤怒の感情。振り返れば歳月に合わせて村での思い出は褪せていたが、あの日の光景だけは色濃く、より鮮明に映し出される。


「そんな生き方、いつか破滅します」


「破滅? まさか……俺は強くなった。もう誰にも負けない。死に物狂いで鍛えてきた……なのにこのまま全部忘れて生きろって言うのか。奴を許して全部忘れて安穏と暮らせって? 冗談だろ、また何時襲ってくるかもしれない、その時には大人しく首を差し出すのかよ!?」


「そうじゃない、そんなこと言ってない。……もう、分からない兄さん何て大嫌いよ!」


「何を分かれっていうんだ! お前のことは変わらず守る、ずっと守ってきたじゃないか。一体何が気に食わない! 復讐だってお前の為でもあるんだぞ!」


「それは私が――――――!」


 喰いかかるように声を上げたクシェルだったが、続く言葉はやはり紡がれずに塞き止まる。

 絞り出された言葉は彼女の抑えきれぬ感情が漏れ出しているかに思えた。


「兄さんはすっかり変わってしまいましたね」


「前は私を、クシェルのことを、そんな目で見なかった」寂しげなクシェルの瞳には、血走った表情の男が映し出されていた。


 何も言えずに硬直した俺を彼女は横切る。

 些細なすれ違いはこれまでにも多々あったが、今回のは今までのとは違っていた。

 焦燥を覚えた俺は咄嗟にクシェルを引き留めようと試みたが、彼女との間に生まれた見えない壁に阻まれる。


 否、阻まれたのではなく阻ませた。

 それは彼女からの拒絶を恐れたが故だった。



 いつだって二人一緒だった。

 寄り添い、縒り合って縺れ、いつしか一体となっていたはずの心が遂に離れてしまったのだと悟る。

 追い掛けたいが、鉛となった足では小さくなる背中に追い付けない。


 近くの椅子を感情のまま蹴り飛ばすも、爪先が痛むばかりで気分は少しも晴れなかった。

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