第10話 纏繞(てんじょう)
次に意識を取り戻した時、全ては終わっていた。
目の前に在るのは死屍累々の光景。
数え切れぬ屍は無造作に地面に転がされ、青々とした木々はその色を血で赤黒く染めている。
そして夥しい死の中心には、異質な光を宿す存在が一つ。
「クシェル……か?」
「……兄さん」
ちょこんっと首を傾げて口元を綻ばせる、クシェルの笑顔に安堵する。
「ああ、よかった」
緊張の糸が切れたのか、俺はその場に崩れるよう膝をつく。
ぴちゃり、と朱殷の滴が飛び散った。
地面には小さな水溜りがあって、ややぬかるんでいた。
周辺には腐った脂や魚の腸のような悪臭が漂っており、自身が膝を浸からせるそれが水溜りなどでは無く、人間の血だと気付くのに時間は掛からなかった。何せ視界の至る所に臓腑が投げ出されていたのだから。
いや、臓腑だけではない。血に汚れてすぐには判らなかったが、腕や足、指や首といった部位が無惨にも切り分けられ、無造作に転がっていた。とても人の所業とは考えられない、それだけの光景が映し出されている。
「一体、どういう……」
理解など出来ようもない。
気を失っていた間に何が起きたというのか。
よく見れば五体がまともな死体は一つもない。ある者は腕を、ある者は足を、ある者は頭を、またある者は耳や眼を。
暴虐の限りを尽くされたであろう死体はそれぞれどこかしら欠損しており、臓腑に関しては等しく掻き出されている。賊の惨状から手を下した存在の激しい殺意を感じ取れた。
濡れた髪から滴る血を手の甲で拭き取った際、拳の中に何か奇妙な弾力があることに気が付く。
嫌な予感がした……恐る恐る、握った拳を開放する。するとその手中には、色を失った眼球が二つ収められていた。
「――――――――――――うぇ」
一瞬で身の毛がよだつ。
せり上がる急激な不快感に口を抑えると、口内に生々しい鉄臭さが充満した。
流石に我慢ならず息を吐くと、血の混じった胃液や白い何かの欠片が吐き出される。
呼吸も忘れて吐き続けたが、喉の奥に滞留した気色悪い感覚が無くならない。腹に入れたなどほとんどないから、それからはえずき、咳き込むばかりになる。
「に、兄さん? 大丈……」
「来るな――――――っ!」
思案気に肩へ手を掛けたクシェルを払い退ける。
クシェルに対してこのように声を荒げたことは今まで一度も無かった。
初めての拒絶に彼女は呆気盗られ、言葉を失う。勢い余って彼女は尻餅をついたが、困惑する俺には気を回す余裕も無かった。
「ぁ、あの、クシェル……は」
「来ないで、くれ」
まさか、そんなはずはなかった。
数多の敵を葬った短剣は、一人の賊の額に突き立てられていた。
今にも泣きだしそうなクシェルの頬はうっすらと腫れ、蹴られた腹部には痣が浮かんでいた。朧げだが、記憶にある通りの傷だ。殴られ、這いつくばって、それでクシェルに賊が跨った――――それからの記憶がない。
殴られたはずの俺の頭には、それらしき傷が無かった。
間違いなく死に至る傷だったはず。脳天を揺さぶる二度の衝撃、鮮明に覚えている。夢幻のわけがない。
「兄さん、クシェルは平気だよ? 兄さんのおかげで、助かったんだよ?」
「俺の、おかげ……」
辛うじて記憶の端に残っているのは、意識を失う直前に見た光。傷が癒えているのなら、あれはクシェルのものだろう。
なら、その後は?
身体に残っているのは、身を焦がすほどの怨嗟。
殺戮の限りを尽くしたであろう後も、その炎の余熱をはっきりと感じる。
いつか、昔にも同じようなことがあった。
クシェルを傷つけられ、あの時も有り余る激情に身を任せた。
怒りが自制を無視して、肉体の主導権を乗っ取る感覚。
もしもその怒りがクシェルに及んでいたら……思い至ると途端に恐ろしくなった。
一度でも考えてしまえば、思考の環から抜け出せなくなる程に。
押し込めていた様々な感情が内から暴れ出す。
クシェルを守るはずが害する瞬間が訪れるかもしれない。
いや違う、そうじゃない。すでに守ることすらも満足に叶っていなかった。
「大丈夫、ですか?」クシェルはどうにか俺と目を合わせようと覗き込んだが、自責の念に潰される前に目を逸らす。
彼女につけられた暴力の痕……腫れた頬は直視するには余る現実だった。また拒絶されるのが怖いのか、彼女はもう手を伸ばそうとはしない。だからといって距離を置くという事も無く、正面に立ち続ける。
「ね、こっちを向いて。クシェルを、見て下さい」
「いい、から……」
「兄さん、ねえったら」
うんざりだ。偉そうに吠えて守れない自分も、容赦ない現実も……何もかもが嫌になる。
これ以上どうしろという。奮い立たせていた精神の限界だった。
どうにかする力があると思っていたんだ。何とかなる、何となしなくちゃ、クシェルの傍で、守ってやらなきゃ。ずっとそう思って、その力があると信じて研鑽を積んできた。だけど、結局はこれか。今回は無事だった、無事だったけれど。
「どうして、目を逸らすの」
死ぬことを恐れてはいなかった。
覚悟は決まっていた、命を賭すことに迷いなど無かった。
誰と戦うことになろうともどんな苦難や逆境に見舞われても、クシェルを守ると己に誓った。
でも次は、クシェルが居なくなっているかもしれない。
喪失に、孤独に堪えられる自信が無い。
そんな時が来たとして、俺は迷わず後を追うのだろう。それでも、心を砕かれるのが怖い。彼女を傷付けるもの全部が怖くて、恐ろしくて、身を竦ませる。きっと、自分自身すら。
「兄さん――――――」
もう、いいから。分かったから。
頼むからさ。もう、呼ばないでくれよ。放っておいてくれよ。
俯いた俺は瞼を下ろし、耳を塞ぐ。何も見たくない、聞きたくない。クシェルの言葉すら、今は苦痛でしかなくて。
「――――――……ヴォルフ」
「……ぇ」
今、誰が名を呼んだのか。
俯いた顔を上げれば、正面から視線を絡めるクシェルの姿。
解する間を与えず、疑問符を含んだ言葉が吐息ごと何かに閉ざされる。
塞いだのは、クシェルの唇。
見えていたが避けられなかった。無防備な俺の唇へと、彼女の唇が緩く嚙み込む。
ぎこちなく合わさった口許は微かに血に濡れていた。
剝かれた皮膚から滲んだ血液が互いの身体に浸透する。熱く、妙な生々しさにあらゆる情緒が溢れたが、結局は形を成さず綻んだ。何も考えられない。肉感の薄い唇は、普段触れる肌とはまるで別物であった。
重なった影が離れる際。
ほんの一瞬、クシェルが俺の下唇を優しく食んだ。
離れてやっと確認できた彼女の表情は困ったようで少し寂しそうな……それでいて、慈愛に満ち満ちたものだった。
熱と感触だけが五感に溢れている。
クシェルの行動に理解を求めるほど、何故かどれも解らなくなった。けれど問い質すことも出来ない。きっと理屈や意味を探すべきではないのだと、溶けきった理性が語り掛ける。
口づけの後、彼女は多くを語らなかった。「大丈夫ですよ」と一言、それだけ。その一言だけを伝えて、後は何か特別なものを捕まえるみたいに。あるいは大切な宝物を隠すように弱った兄の肩を引き寄せた。彼女は小さいから逆にしがみついている態勢になる。でも不思議と、何か大きな物に包まれている気持ちになる。
こんなにも強く、けれど優しく抱き締められたのはいつ振りだろう。
はっきりとは思い出せないけれど、クシェルからは在りし日に嗅いだ……母と同じ匂いが漂っていた。
それは駄目だと、自分を戒める。しかし蜂起した感情は抑まらない。
有り余る激動はついに理性の隙を突いて暴走した。
「――――――あ」
彼女の抱擁に応える形で彼女の胸に顔を埋める。そのために不格好な態勢になったが、構うものか。
「えっと、その」動かない俺に困惑した様子の彼女は何を思ったのか、俺の耳朶を数度揉んで、それから頭を撫で始めた。「どう、でしょうか?」
陶器や壊れ物に触れる時、少しの衝撃も与えぬよう注意するだろう。
うっかり落として割ってしまうかもしれない。固いものにぶつければ砕けてしまうかもしれない。だから慎重に、優しく、柔らかな掌をしっとりと当てる。クシェルのは、そんな触れ方だった。つい、回す腕に力が入る。
「兄さん、あんまり強くすると……苦しいですよ」
「ごめんな、少しでいいんだ、ほんの少し。ちょっとだけ、こうさせてくれ」
「……うん」
ここに在ると感じていたかった。この温もりが、優しさが、涙が、クシェルの存在が、どうか確かなものであってくれと、希わずには居られない。言葉を掛けても、熱を交わしても、強く抱いても。彼女が居なくなってしまう気がして。
聞き苦しい嗚咽、クシェルのものでは無い。
どうやら俺が泣いているらしかった。
何をやっているのだろうな、俺は。守ると誓ったのに、これでは守られてばかりだ。擁護しようも無い醜態を晒している。またもクシェルを危険に晒した挙句、よりにもよって彼女に泣きつくなんて。情けなさから顔を上げられない。クシェルに悟られる前に泣き止まないと。そうしたらなんとか表情を作って、おどけて笑って、彼女の頭を撫でてやろう。そう思っていたのに。どうしてか、頬が乾かない。
どうしようもなかった、どうしようもなく、溢れて止まらない。
何でこんなに涙が出るのか分からない。泣きたくなんてないのに、悲しくなんてないのに。こんなの駄目だって言い聞かせているのに。頭でいくら説得しても、どうにもならないのだ。
クシェルは俺が泣き止むまでずっと、涙が枯れ泣き止んでからもずっと。
何も言わず、胸を貸してくれた。
翌日もその翌日も、追っ手は変わらずやってきた。
一体どれだけの規模の人員が俺たちを狙っているのだろう。
この世にはきっと、慈悲なんてものは存在しない。
どいつもこいつも汚ねえ手でクシェルに触れやがって。
腐ってる。そうだ、あいつらはとっくに腐ってやがるんだ。畑を食い荒らす害獣と同じ。人の生活に図々しく入り込んで、自分勝手に害を撒き散らす。生きていちゃ駄目な連中なんだ。
何の権利があって彼女を穢せるのか。どんな理由があって彼女を虐げることができるのか。
一刻も早く駆除してやらないといけない。俺とクシェルの世界には不要なんだ。さっさと間引かないと。じゃないとこっちまで腐ってしまう。
このままでは、彼女の未来は蝕まれてばかりだから。
それなら、俺が――――――……
あの一見以来。何者かが身を潜め、じっと背後からこちらを窺っている感覚がある。文字通りに擦り切れ、心はすっかり摩耗してしまった。
幾度かの死を越えてようやく気付いた。俺たちが生きる世界が、どれほどの悪意に満ちていたのか。
ずっと他人事だった。争いと……あるいは死すらも何処か遠くに感じていた。
死は身近に在ったはずだが、強く意識して過ごす日は無かった。俺は俺が、いつか死ぬ時まで平穏に生きていられると、高を括っていたのだ。
産まれ堕ちた瞬間から人の道は二つしかない。
生きるか死ぬか、たったそれだけ。
世界ってやつは否応なしに強者だけが生存を許される、至極単純な構造を基に出来ていた。
いつだってそうだ。俺はこれまで父という強者の庇護下で生きていた、生きてこられた。
だけど、もう父は居ない。
帰る家も、育った土地も、優しく迎えてくれる母は、もう居ない。
クシェル以外の何もかもは奪われた。仮に何を得たとしても、これからも奪われる。
思いを馳せていた村の外……ここでは誰も助けちゃくれない。救いの手は何処にも伸びてなくて、助けを求める声は誰にも届かない。この先、このような現実が永久に続くのか。
世に蔓延る理不尽や不条理を、全部ぶち壊してやりたかった。
あの子を、クシェルを害そうとするあらゆる存在を根底から否定してやるんだ。
彼女の慈愛では彼女を守れないから、クシェルの心が俺を繋ぎ止めてくれたから。
だから殺して。
殺して、殺して、殺して。
殺して、殺して、殺して、殺して、殺して。
殺して、殺して、殺して殺して殺して殺して殺して。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して……とにかく殺しまくった。
首を圧し折り、頭蓋を砕き、脳漿をぶちまけて。
眼球をくり抜いて肺を潰して、腸を引き裂いて臓腑を撒き散らし。相対する敵を思いつく限りに、執拗に破壊した。俺たちを追えばどうなるかを思い知らせてやる。
命乞いをする相手も、泣いて媚びる相手も。
何人、何十人でも、息を止め動かなくなるまで。
クシェルの、彼女の生きる世界が、どうか綺麗なものであるように。
「――――――……全員、ぶっ殺してやる」
皮肉にも度重なる襲撃が俺を強くしていた。
極限まで研ぎ澄まされた感覚は、今や衣擦れの音一つ聞き漏らさない。
森に入って何日目になるのだろう。
疲労のせいかクシェルとは感情のやり取りのない形だけの会話が増えた。
何か話を振られても、気の抜けた相槌を打つばかりに終わる。ごく稀にこちらから声を掛けることもあり、その都度に彼女は喜んだが、しかしやはり会話が続くことは無かった。クシェルとの沈黙は、こうも息苦しいものであっただろうか。
手に掛ける人数が増えるにつれ、己の中で何かが緩やかに壊れていく気がする。
襲撃の頻度は少しずつ収まり、やがてめっきりと現れなくなった。だが気の抜けない日々には変わりない。朝を迎える度に衰弱してゆく肉体が焦燥を駆り立てる。
一日が恐ろしく長い。
何処へ向かって進んでいるのか……いつの間にか川から離れてしまった。
ゆっくりとなら歩けるようになったクシェルと、寄り合って進む。
俺たちが森を抜けたのは、春が終わろうという頃だった。
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