第9話 決死


 逆境を糧にして俺たちの絆はより強固なものとなっていた。


 一心同体、俺たちは違わず二人で一つだった。

 俺はクシェルを守り、クシェルは俺を支えている。ある意味で俺たち二人は完成していた。

 密接に縒り合わさる二人は互いが引き裂かれた心、そこに空いた虚を埋める手段であり、理由だった。

 兄妹であるが故の信頼や信用、情愛はとうに過ぎている。

 そんな綺麗で生易しい間柄では断じてない。

 かといって利害による結束でもなく、極限の状況下に繋がれた俺たちの関係は、当事者すら説明できない類のものへと存在を変えていた。


「ずっと、このままならいいのに」クシェルは時折にそう呟く。

 俺は応えなかったが、彼女の指す言葉の真意を幾度となく咀嚼した。


 ずっと、このまま。この場所で。

 俺はどのような返答をすべきか。はたまた彼女はどんな解答を求めているのか。


「確かにこのままでもいいかもな。だけど、何もないよ」そう言っても、きっと同じ台詞を返してくれるのだろう。「でも、ここには……」と恥ずかしげも無く言ってのけたクシェルの姿を鮮明に思い起こす。

 この世にここまで無意味な問答が他にあるだろうか。


 息抜きが効いたのか翌日の足取りは軽快だった。

 クシェルは手持ち無沙汰を潰すため、ずっと鼻歌を口ずさんでいた。

 懐かしい旋律。昔、こんなような歌を母が枕元で唄ってくれていたっけ。

 次第に気分が高揚してくるのか、クシェルが歌に合わせて身体を左右に揺らしだす。

 歩き難いから止してくれと諭しても、彼女は懲りてくれなかった。

 注意するのも億劫になって無視すると「私を構え」と言わんばかりに彼女は組み付く力を強めるのであった。


「兄さん、クシェルは今日もお魚が食べたいです」


「はいはい、それなら今日はクシェルに手伝って貰おうかな」


「ぇえーでもクシェル、上手く捕まえられるかなぁ」


「簡単さ、教えてやるから挑戦してみろよ」


「むう……頑張ってみます」


「それじゃあ、もう少し進んだら……――――」


 何かが視界の端に引っ掛かった。紡がれるはずの音が霧散する。

 弾かれたように視線を正面に戻すと、全身を泥で汚した小太りの男が立っていた。

 一見無害そうに見える、容姿だけは穏やかな男。


 お互いに足を止め、視線を交える。

 男は俺たちを見て怪訝に眉をしかめたが、記憶を探る素振りをとったかと思えば目の色を変え、素早く腰に手を回した。

 

 ――――――こいつ、敵か。

 

 合図するまでも無くクシェルは回した腕を解いた。熱が離れて背中が軽くなる。

 脱力により重心を落とし、生じた緩みをバネに俺は相手の懐まで疾走した。

 爆発的な加速は男の想定を上回ったのか、驚嘆に目を見開いた。

 男の腰には短剣が隠されていた、回した手を蹴りで弾き抜剣を阻止する。

 不利を悟ったか男は仰け反り、息を目一杯に吸い込む。

 まさか叫ぶつもりか。急いで男の口の中に右手を捻じ込み声を封じる。


「皆、こ――――――っっっ!」


 少し遅かった。男が為て遣ったりと目を細めたのが分かった。

 苛立ちが募る、取り敢えずこいつだけは殺さないと。男の足を踏みつけ、口に捻じ込んだ拳をそのまま思い切り突き出す。 

 必然、男は体勢を支えられずに仰向けに倒される。

 そうしてがら空きの顔面目掛け全力の蹴りを叩き込んだ。鮮血と数本の歯が方々に飛び散る。

 顔面を蹴り上げられた男はしばしの痙攣を起こしてやがて動かなくなった。

 一応、頸椎を踏み砕いておく。数度踏みつけると首はあらぬ方向へ折れ曲がる。


「兄さん……?」その光景を見たクシェルは絶句していた。伸ばしかけた右手をもう片方の手で引き戻し、胸にしまい込む。


「クシェル……ここは危ないから、先を急ごう」


 直ぐに新手が来るだろう。

 男の短剣を奪い、クシェルとその場を離脱する。

 静かな森だ。遠方まで報せるには十分過ぎる声量だった。

 声が届く範囲まで敵が迫っている事実に焦燥する。会敵の直前まで警戒は怠っていなかった。

 どれだけ上手く隠そうと、自分たちに向けられる意識、気配を察知する自信があった。相手はおそらく俺たちに気付いていなかった、互いにとって想定外……偶然の遭遇。故に気取らせなかった、否、気付けなかった。

 クシェルを連れて逃げ切るのは無理だ。

 ある程度進んだら、どこに身を隠してやり過ごすしかない。けれど事がそう易々と運ぶとも思えない。

 ここまで追ってきたのなら血眼になって俺たちを探すだろうが、正面切って戦うよりは余程現実的なのも事実。

 どうすべきかと思案を巡らせる最中、遠吠えが風に乗って聞こえる。


「くそったれ」


 奴ら、猟犬を連れているのか。となれば隠れてやり過ごす手は潰された。

 刻々と声が近づいている。どうする、やるしかないか。

 最初から選択肢など無かったのだ。

 見つかった時点で戦うしかなかった。戦って、勝つ。でなければ殺されるだけ。


 それとも、もう一度心中を図るか? 


 ――――――冗談ではない。


 自分の陰に隠れるようクシェルへ言い聞かせる。もはや敵は目前だ。

 頼りない短剣を手に握って振り返る。

 雄叫びが野蛮さを伴って轟いた。

 ぽつぽつとした点が確かな輪郭を宿して迫り来る。村を襲った連中と同じ身なり、朧げに覚えのある顔を見つけた。

 正面から五、六……十人。十一。多い、まだ増える。獲物を捉えた賊らは全速力で向かってくる。今の所あの男の姿は見当たらない。先頭を走るのは黒い猟犬、体高は大人の膝下より高いか低いか、けして小さくはない体躯だ。それにしても子供二人に向けるには過剰な戦力だろうに。余程俺たちを逃したくないらしい。


「くそが」


 暗鬱な気分だ、胸糞悪い。腸が煮えくり返りそうだった。

 俺たちには……彼女には、小さな安寧を享受することも許されないのか。

 クシェルはこのままでもいいと言ったんだ。今のままでも二人でならと、言ってくれたんだ。なのにこいつらは多くを望まない、慎ましい生き方にすら幸福を見い出せる少女を、それでも苦しめるのか。


「餓鬼が! 腰を抜かしたか!」


 いつの間にか賊は目の前に接近していた。

 棒立ちした俺の脳天を狙って賊が斧を垂直に下ろす。

 当たり前だが、殺意ある一撃であった。


「ごちゃごちゃ煩ぇよ」

「あぁ――――――?」


 サイドステップで避け、すり抜けざまに賊の頸動脈を掻っ切る。

 何が起きたのか理解できていない表情……すぐに血の気が失せて顔面蒼白となり、間抜けな面でくたばった。

 先ずは一人目か。

 害を振り撒くしか能のない野蛮人共め、転がった賊に唾を吐きかける。

 先頭に居たはずの猟犬は適切な距離を置いて吠えている。野生の勘とでもいうのか、下手に近寄って来ない。キャンキャン喚いて、それで威嚇のつもりか。

 間を置かず新手が迫る。

 向かってきた賊の胸部へと短剣を投擲。

 手元から離れた短剣は吸い付くように対象の心臓辺りへ突き刺さった。やや狙いがズレた、もしくは胸骨に阻まれたのか、賊は倒れない。

 しかし動きは止まった。急接近して側頭部へ渾身の拳を見舞う。鈍い音と骨を砕く感触がした。倒れた賊から短剣を引き抜くと泉の如く血が溢れ出す。これで、二人目。


「ふざけやがって」怒りで細部を満たす。ありったけの憎悪を刀身に込めろ、障害を打ち払うために。ここまで抑制してきた衝動を解き放て。


「掛かって来いっ……!」


 腹の底から吠える。

 いよいよ進退が窮まった。

 死線を潜る戦いとなるが、生憎と覚悟はとうに決まっている。

 父の動きを思い返す。どう返し、どう躱すか。止めどなく湧くイメージを体現しろ。そして迅速かつ的確に、相手の急所を破壊するのだ。

 姿勢を低く小さく構え、相手の隙を窺う。数で勝る賊らは勝利を疑っておらず、策も連携も関係無しに全員で突っ込んでくる。


 ここからは一瞬の油断も許されない。

 最後に木陰へ身を隠すクシェルと視線を合わせる。彼女は両の手を合わせて祈っていた。やけに落ち着いた雰囲気で頷いて、「気を付けて下さい」なんて、まるで不安なんてないみたいだ。


 出し惜しみはしない。

 持ち得る全機能を総動員して、手早く仕留めろ。

 無理に距離を詰める必要は無い、どうせあっちから仕掛けて来るのだ。

 直前まで引き付けたら相手の動きに合わせて後退、そして間髪入れずに最大速度で急所を穿つ。機微を見抜き、圧倒的な剣速にて初動を攫う。

 いずれも父との稽古で好んで使っていた戦法。

 素早さに翻弄される賊が次々と倒される。当然だ、父ですら俺の剣速にはついてこれなかった。たかが賊風情に攻略されるものか。


 十数人を切り伏せた段階で相手の攻勢に惑いが生まれる。

 敵からすれば疲弊した子供二人を殺すだけの簡単な仕事だったのだろう。けれど現実では俺一人に相当数の仲間を屠られている。動揺しないはずがない。

 臆せば足は竦み、死を予感した肉体の機能は著しく低下する。

 相対する者同士の実力は必ずしも勝敗に直結しないが、心が折れれば半ば勝負は付いたようなもの。

 こいつら、こんな所まで殺しに来た癖に命を懸ける覚悟は無いのか。何処までも馬鹿にした連中だ。


「こいつ……本当に人間か?」


 尻込む賊の誰かが呟いた、敵は戦意を失いつつあるようだ。

 何人切ったのだろう。多分、二十は越えたか。

 今日までの過酷な環境、そして連戦に次ぐ連戦で息は上がり、数える余裕はもう無かった。


「っふー……」汗でずぶ濡れになった髪を掻き上げる。呼吸が重たい、胸をぶち破ろうと心臓が暴れている。今にも破裂しそうだ。もっと消耗を抑え、手際よく捌いていかないと。


「糞餓鬼が、図に乗ってるんじゃねえぞ!」


 考える暇も無く、頭上から次の相手が飛び掛かった。倒れた賊の斧を取って、空中より襲来する相手を撃墜する。

 次第に正面突破は難しいと判断したか……敵も多少なりとも策を講じるようになってくる。

 例えば飛び掛かる時は二人同時に、さらに攻撃の終わりを狙って遠方からは石礫が飛来した。攻める人数が増えようが、いざ対面するのは一人ずつ。戦況を左右する影響はない。


 だが遠距離からの投擲、これが厄介だ。

 こぶし大の石礫でも頭に当たれば致命傷、刀身で弾けば欠けてしまう。逆に身体で受ければ耐えられない威力でもないが、当たり方次第では骨折する可能性もある。故に避けるしかない。

 仕留めようと近づく気配を見せれば、敵は即座に後退して一定の距離を保ってくる。戦況は拮抗か……まだ若干俺に分がある状態だ。石礫は躱せない速度ではないし、敵を捌きながらでも対応は出来る。しかし、徐々に消耗させられているのも事実。長引けば不利になる一方か。

 それならば、と足元に転がる得物に視線を落とす。

 周囲には斧や剣、使い手を失った武器が腐るほどあった。投げ返してやればいい。

 二、三丁は回収しておくか。


 実行に移そうと姿勢を落とした直後、死角から飛び掛かる影が一つ――――――とんでもなく速い。

 本能的に右腕で首元を覆う。

 影が前腕に喰い付き、鋭い痛みが骨の髄を抉る。

 強靭な牙は筋繊維をないものと貫通した。


「ぁづっっ!」


 噛まれた腕が灼熱を帯びる。

 奴ら終には猟犬まで嗾けてきた。引き剝がそうにもビクともしない。

 その体躯からはおよそ想像も付かぬ膂力。一度獲物に喰い付いたら最後、死ぬまで離さないのが肉食獣だ。

 痛みに戦意を削がれそうになるが、怒りで鎮火する心を再燃させる。


「噛み癖の悪い犬っころだな!」


 首根っこを掴み、木の幹に叩き付ける。

 頭蓋を粉砕すると目玉が飛び出す。あえなく絶命したが、それでも噛み付いたまま離れない。喰い込んだ牙を肉ごと引き剝がす。

 出血が多い、かなりの深手を負ってしまった。

 重傷だが、辛うじて動かせる。骨ごと噛み砕かれたかと覚悟したが……どうも人間の骨というのは意外と丈夫なもので、猟犬の牙くらいでは壊されないらしい。


「今だ! 全員で畳みかけろ!」


 負傷した今を好機と踏んだか、減退していた敵の勢いが復調した。

 相手の賊が両手で握った斧を力任せに振るう。すぐさま後方に跳ぼうと回避に移るが、意図しただけの跳躍は望めない。

 酷使された足腰はすでに限界だった。さっきまでの俊敏な動きは取れない。

 まだ、敵の攻撃範囲内にいる。

 嬉々とした殺意が上乗せされた刃には意図が見え透いていた。何処を狙うのか、何処を断ちたいのか、まるわかりだ。

 

 一か八か……。

 

 短剣を即座に左手に移して、首の両断を狙う大振りを上体と腰の回転だけで躱す。

 端から見れば切ったと錯覚する皮一枚分での回避、まさに刹那の見切りだった。


「は……――――――」


 振り切った斧に引っ張られた賊の身体が偏る。がら空きの脇腹を素早く二度刺し、さらに短剣を右手に戻して顎下から突き立てた。呆然と口を開けた相手の眼球がぐるりと裏返る。


「ふー……」


 吐き出した息に恐怖と高揚が入り混じる。首筋に触れれば僅かな流血があった。

 これだ、と確信する。

 最も消耗が少なく、最大の反撃を可能とする手段。

 もともと機微を見抜く観察眼と速度には自信があったが……ここに来てある種、戦いにおける核心と呼べる何かを掴んだ気がする。飛来する礫にも少しずつ慣れてきた、敵の数も減っている。これなら勝てる。


「――――――いやっ! 離してよっっ!」


 勝利の予感も儚く、クシェルの悲鳴が背後より響く。

 いつ背後に回ったのか、賊の一人がクシェルの手首をがっちりと掴んでいた。

 必死に暴れているが非力な少女では振り切れない。クシェルを捕らえた賊の服にはすり潰された草がこびりついている。俺の視界から逃れる為に這いつくばって進んだのだ。


「クシェル、待っていろ!」


 絶えず攻勢に出ていたのは裏に回ってクシェルを捕らえるまでの陽動だったか。救助に向かうべく背を見せれば、ここぞとばかりに勢いを増した賊に阻まれる。


「このっ、止めてったら!」


 がぶり、クシェルが賊の前腕に噛み付いた。歯が肉に喰い込み、賊の目尻に皴が刻まれる。

 しかし所詮は子供の力、たかが知れていた。噛み付いた肉を喰い破れるわけもなく、与えたのはせいぜい薄皮を捲った程度の掠り傷。賊はまさかクシェルに反撃されるとは毛ほどにも思ってなかったのだろう。忌々しそうに彼女を見下ろすと拳を固く握った。


「止めろ!」と叫ぶ制止の声も空しく、クシェルは殴られ、続けざまに蹴り飛ばされる。軽い少女の身体が、冗談みたいに吹っ飛んだ。地面を転がり、蹴られた腹を抱えてクシェルが呻く。やりやがった。あの野郎、本当にやりやがった。


「てめえっ……殺してやる!」


 己を囲んでいた賊らを一瞬で屠り、クシェルに手を出した相手へと突進する。

 怒りで頭がどうにかなりそうだ。激る血を全身へと漲らせ、その圧力に骨が軋むほどの力を拳に込める。握る短剣の柄が悲鳴を上げた。


「あああああああああっっ!」


 向かう速度をそのままに、相手の顔面に拳をぶち込んだ。

 勢い任せの殴打、両者共に地面に倒れ込む。

 鼻がひしゃげ、血をどばどばと垂れ流す相手へと組み付いて、ひたすら拳を浴びせた。手を止めたのは顔の形が解らなくなってからだ。それでも、怒りは収まらない。立ち上がり、灼熱の息を吐き出す。視界の中央にはよろめきながらも立ち上がろうとするクシェルがいる。そしてその脇にはクシェルを捕らえんと画策する害獣が二匹……。


「殺してやる」


 都合よく足元に有った手斧を片方に投げ、同時にもう片方を仕留めるべく距離を詰める。投げた斧に一人が倒れるより速く、残った一人の懐に潜り込む。判断の余地を与えぬ、電光石火の接近。

 切っ先を相手の首元に向け、穿とうと踏み込む寸前に横槍が入る――――――石礫だ。


「ぁあ、鬱陶しいなぁっ!」


 しつこく飛んでくる石礫をいなす。

 見向きもせずに対処した俺に相手は動揺していた。

 感覚が異常なまでに冴えている。直接確認をしなくても相手の視線や息遣いから、どこを狙われているかが何となく察知できた。

 再び短剣を奔らせようと試みた時、敵の首元は太い前腕に隠されていた。こちらはすでに攻撃の姿勢に入ってしまっている。今更狙いを変える余裕はない。

 ならば、腕ごとぶった切ってやる。


 乾坤一擲、見舞うのは腰の捻りを乗せた横薙ぎ。

 荒々しい風切り音。肉を押し潰して骨を断つ感触が指から伝った。

 放った一撃は確かに腕を落とすだけの殺傷力を秘めていたが、対象の命に届かない。それもそのはずだ、二本ある腕の骨の一本、橈骨はどうにか切れたが、対になる尺骨に断絶を阻まれていた。


「な、に」


 何十という賊を殺した短剣はもう鈍らとなっていた。

 血と油が浸み込んだ刀身の刃先は所々が欠け、潰れてしまっている。

 前腕の断絶を狙った刃だったが、逆に中途半端に深く食い込んだせいで抜けなくなった。賊の表情がぐにゃりと歪む。


「馬鹿が! しくじったな!」


「しまっ……」退避よりも早く、石で頭を殴られる。


 視界に白く火花が散った。一瞬にして意識が遠のく。

 平衡感覚が奪われ、制御の利かない手足はただの飾り物になる。

 重たい頭を支えられず地面に倒れたが、痛みは無い。起き上がろうと膝に力を込めるが、再度頭を殴られる。全身から力が抜けた。思考と共にぐしゃりと身が崩れる。


「けっ、この糞餓鬼、まぁばかすかと殺してくれやがって」


「っ! 兄さん、兄さん! そんな、駄目だよ……!」


 朱に彩られた、暗い視界の端。必死に声を掛ける妹が居た。

 ほとんど形を失った視界で、クシェルの瞳だけが鮮やかに映る。


「――――――さん! ―――――――……っ!」


 クシェルはふらつきながらも駆け寄り、必死の表情で声を上げていた。

 もはや何を言っているか聞き取れない。

 どんどん声が遠くなる。

 まさか、これで終わりなのか。

 クシェルを残して、このまま……。


「起きて、起きてよ! 立って、兄さん……立ってください!」


 みるみると血色を失っていく肉体。

 泣き縋るクシェルにはどうすることもできない。

 砕けた頭から氾濫する血は、押し留めようとも収まらない。

 名を呼び、乞い続けるだけだ。小さな手ではまるで塞がらない傷口から、容赦なく生気が逃げてゆく。細く開いた瞼も、少しずつ狭まって。


「だめ、行かないでぇ……」


「全く、落ち着きのねえ子供だなぁ」


 泣きじゃくるクシェルを煩わしく思ったのか、男はクシェルの胸倉を引っ張り無理矢理に立ち上がらせる。

 無防備な少女はされるがまま振り回され、勢い余って再び尻餅をついた。

 その拍子に掴まれていた服が裂けて傷の無い柔肌が露わになる。


「ぃ……や……」


「大人しくしていろよ? じゃないと今度は間違ってその綺麗な手足をもいじまう」


 加虐心をそそったのか、クシェルの怯え様をいたく喜んだ男は切っ先を彼女の柔肌に押し当てると、大腿から鼠径部、臍、胸元、脇下へと這わせ、白い肌に赤い線を入れる。


「おい、一応は丁重に扱えと言われてんだ……傷物にはすんじゃねえぞ」


「なあに、ちょっとばかし悪戯するだけださ。バレやしねぇよ」


「俺ぁ知らねえぞ」


「へへへ、おい見ろよ。震えちまってやがる」


 品性を著しく欠いた、邪悪な笑みが浮かんだ。


「安心しな、いい子にしてりゃ殺しはしねえよ。まあ、兄貴の方は直ぐにくたばっちまうだろうがな」


 切っ先をあてがった男はクシェルを寝かせるように促して組み伏せると、彼女の両頬を乱暴に掴んだ。

 涸れぬ雫は明確な拒絶を示していたが、身を竦めるクシェルは歯を鳴らすばかり。

 むしろ暴れた所で却って男を喜ばせるだけだろう。クシェルの瞳から徐々に諦観が帯び始める。


「ぃ……さん」

 

 それでもなおクシェルは倒れた兄に呼び掛けていた。

 きっと、救ってくれるはず。理屈ではなく、もっと己の根底にあるものが彼女を信じさせる。


「ははっ、健気なもんだな。まだ兄貴を呼んでやがる! つい同情しちまうよ、なあ?」


 微かでも反応を示すと男は息を荒げ目を血走らせた。これほど冷酷で、醜悪に顔を歪める人間がいるとは信じられなかった。


「相変わらず趣味が悪い。何度も言うが、やり過ぎるなよ。俺はまだ殺されたくはないからな」


「わぁってるよ、ちょっと可愛がってやるだけだろうが。つまんねえ野郎だぜ」


 自分が今どのような状況下にあるか、クシェルでは理解に至らない。

 卑しく、下賤な声で昂る男は何を求めているのか。

 どんな仕打ちを与えるのか彼女には知る由もない。でもきっと男が満足するまで弄り、嬲られる。それだけは確かだった。


「にぃ……さん」
















 視界は黒く潰れ、感覚の一切が鎖された。もう生きているのか死んでいるのか。闇に呑まれる意識の淵で、「助けて」とクシェルの祈りが降り注ぐ。




 光が、見えた。

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