第8話 二人だけの


 森での生活が始まって早一週間が過ぎた。

 どうなるかと不安ばかりであったが、四度目の朝を迎える頃にもなると俺たち二人は今の環境にすっかり慣れていた。

 というのも目下の問題にあった食糧問題が早々に解決したからだ。

 もとより日頃から狩りをしていた自分にとって、食料を得るのはそう難しい話でもなかった。予想通り野生動物は多く、豊かな環境にまるまると肥えていた。天敵が少ないのか、警戒心は薄く動きも鈍重で、二日目の夕食には兎の肉にありつけた。

 もちろん、毎日上手く獲物が捕まるわけじゃない。

 だからそういう日は山菜や木の実を探して、それを食す。寧ろ、今はそっちが主な栄養源だ。

 狩猟採集の知識、剣技を含むその他諸々の技術――――――つまりは人間が自然の中で生きるために有る全ての術。父から授かったそれらが、俺たちを生かしている。


 驚いたのはクシェルの順応力。

 家で過ごすことが多かったクシェルにとって、こうした生活は不慣れであったはず。加えて村での一件、クシェルの心労は察するに余りある。

 ……でも彼女は日中、俺の背にいる間は明るく努め、辛そうな様子などおくびにも出さない。思っていた以上にクシェルの芯は強いのか。


「兄さん、焼けました」


 明け方、川で洗顔をしていると眠気眼のクシェルが呼びに来た。

 どうやら食事の準備が出来たようだ。

 濡らした手で髪をかき上げ、拭くものが無いので適当に顔の水気を切ってクシェルへと駆け寄る。


「濡れたままでは身体を冷やしますよ」クシェルは自分の服の袖で俺の顔を拭い、「これでさっぱりしましたね」とはにかんだ。


 代わりに彼女の袖がびしょびしょだ。むしろそっちの方が冷えてしまいそうなものだが、彼女は気にも留めていない様子。


「ささ、早くいただきましょう」


「はいはい」


 手招かれるまま焚き火の前に腰を下ろすと、皿代わりの葉に乗せた料理を手渡される。

 今日の朝食は殻を剥いた木の実を炒めたものか。

 ほのかに甘く、芳しい香りが漂っている。

 口に入れると香りに反して独特のえぐみがあった。

 味はお世辞にも美味いとは言えないが、贅沢は言うまい。我慢してもう一つ、口に放り込む。


「ぅう、この味、あんまり得意じゃありません……」


 真横で涙目のクシェルがえずいていた。

 けして不味いと言わないのが彼女の上品な所。


「兄さん、よく平気ですね」


「まあ、こんなもんだよ」


 食べられない訳ではないが、味気はない。

 塩も香辛料も無く、火を通しただけの素朴な味だ。

 日頃どれだけ上等な食事が振舞われていたか、身に沁みる思いだ。


 ちなみに木の実はクシェルが見つけてくれた。

 足を悪くしているから安静に待たせるべきかと考えたが、「クシェルも役に立ちたいです」と言って聞かなかったので仕方なく背負って採集している。一人の方がずっと身軽に動けるが、クシェルを連れているといいこともある。


 彼女は目がいいのか、俺よりも食材を見つけるのが上手い。

 母からの知恵か、食べられるもの、食べられないものもちゃんと理解しているみたいだった。

 伊達に母の料理を手伝っていたわけではないな。

 感心して褒めるとクシェルは足をバタつかせて喜んだ。

 一所に留まるのは避けたいので、腹を満たしたらすぐに出発する。

 必要以上に長居しないのは痕跡を残さない為だ。

 焚火の跡を足で崩して、地面は軽く均しておく。


 基本的には昼までは川沿いを進み、身を隠せる寝床を探す。この森は茂みが深いから、一旦の隠れ蓑は容易に見つけられた。寝床さえ確保したら周囲の索敵を含んだ散策をして、その日の食糧を二人で摂りに行く。

 クシェルを背負っている分歩みは遅く疲労も溜まったが、満身創痍の肉体にとってそれは誤差に等しかった。

 逆に背に感じるクシェルの鼓動、陽性の気配、励ましの言葉こそが限界を迎えたはずの肉体を支えていた。


 森は広大で、果たして何処まで歩けば抜けられるのか見当もつかない。

 川が続く限り、森の周縁部には向かっているのだろうが見通しが立たない状況というのは、やはり相当な心労だった。

 依然としてクシェルの治癒も機能しないままだ。

 クシェルの右足は日を追って悪くなっている、早く適切な治療を受けさせてやらないと……。


 あっという間に一日が終わる。

 日暮れに合わせて夕食を取ったら、後は明け方まで泥のように眠った。

 身体は痛みに慣れたのか、横になれば直ぐに意識は泥沼の底へ沈む。

 寒さを凌ぐ為に俺たちは身を一つにして夜を越した。人肌に触れていると孤独でないことを強く認識できる。


 クシェルはあの惨劇を思い出すのか、毎夜うなされていた。「兄さん、兄さん」と連日頬を濡らす彼女の手は、何かを求めるように宙を彷徨う。

 伸ばした手は何処にも届かず、やがてその手は彼女自身へと向けられ、削るように腕を掻き毟った。

 異変を察知して起きた時にはクシェルの腕は掻傷で真っ赤に腫れている。

 それでも彼女は自傷を止めない、まるで誰かに強いられるように。

 いけないと腕を抑えれば今度は俺の身体に爪が立つ。皮膚が裂け、樹木の表皮を捲った時に似た触感がひりひりと伝わる。非力なクシェルからは信じられぬ力だった。


 彼女が落ち着くまで、じっと耐える。

 抉られた肉は彼女が抱える痛みそのものだ。なら俺が受け止めてやらないと。


 無理をしているのは最初から解っていた。

 特にクシェルは母に懐いていた。

 平気なはずがない。クシェルの不自然な笑顔に気付く度に、心臓が握り潰されるかの思いだった。

 そして一人夢の中で哀しみに悶える彼女に掛ける台詞は決まってこうだ。


「大丈夫だよ」「怖くないよ」「ここに居るよ、平気だよ」


 のうのうと、安い言葉を無責任にのたまう自分に吐き気がした。

 俺がクシェルに出来るのは芸も無く掻き抱くだけ。

 これで一体、彼女の何を守っているというのか。

 痛みを隠して健気に振舞うのは、俺を安心させるためではないのか。

 この子はもっと、本当はもっと綺麗な表情で笑えるのに。

 穢した奴らが許せない。

 夜が深くなるにつれて抑え難い感情が湧き出してくる。

 一度考えてしまえば、もう自分では止まれなかった。

 理性らしきものが憎悪に溶かされていく。

 それは燭台の蝋みたいに、一度火が点れば消えることは無い。

 どうやって殺してやろうか、こんなことばかり考える。


『兄さん、ちゃんとクシェルを守ってね』


 彼女の寝言か幻聴か。

 落ち着きを取り戻したクシェルがそんなことを呟いた気がした。

 届いた音は打ち寄せる波となって、猛る憎悪は熱ごと攫われる。


「……ぁあ、くそ」戒めに己の頭を叩く。


 間違えるな。まず考えるべきはクシェルを守ること。これだけで十分だろう。


 森に入って何日経ったか。

 確か初日は新月の夜だった。昨夜は満月が出ていたから、少なくとも二週間は経過していた。

 幸いにも未だ追っ手の気配は無く、しばらく安定した日が続いている。


 それとも俺たちを諦めてくれたのだろうか?

 所詮は子供二人、それも十分にあり得る話だ。

 だがあの男――――――ヴァルリスという騎士は違う気がする。

 少なくとも奴は略奪が目的では無かった。

 父をよく知り、そして手に掛けるだけの力量を持った男がわざわざ辺境に現れたのは他に理由があるはず……。

 細かな傷は癒え、怪我の当初に比べれば痛みも薄れてきた。

 左脇腹の傷はまだまだ痛むけれど無視できる範疇だ。万全には程遠いが、これなら問題なく戦える。

 クシェルの右足は相変わらずだ。

 腫れは引かず、傷口も中々癒えてこない。

 放っておくと膿んでしまうので数日おきに洗って創傷部に濡らした布を巻いているが、良くなっている感じはしない。

 処置をする俺の不安が伝わるのか、クシェルは「全然平気です」と力こぶを見せた。


 不安だ、どうしようもなく。

 だが彼女の言葉を信じるしかない。

 ここまで一日と休まずに歩を進めていたが、森の中は風景の変化が乏しく進んでいる実感は全くない。

 改めて自然の大きさというものを実感するが、雄大な自然に傾けるだけの感性は生憎と残っていない。日に照らされた葉の青々とした鮮やかなさも、水の打つ音すらも煩わしく心を乱してくる。


 どこまでも徒労だった。

 明日も同じ日が続くと思うと挫けそうになる。

 いっそ一人なら、何もかも捨て去って楽になれたかもと、少しだけ弱気になる。

 環境に多少の変化が訪れたのはさらに数日が経ってからだ。

 木々の間隔は疎らになり、川はいつしか膝下まで届かない位の浅瀬になっていた。

 流れもそう速くはない。


「これなら入れそうだ」と俺が呟くと、その台詞を聞いた途端「本当ですか!」とクシェルの声音が一気に弾んだ。


 振り返れば爛々と目を輝かせている、どうやら水浴びがしたいらしい。俺は魚が獲れるかもと期待して言ったのだが。指示されるままクシェルを水辺に降ろすと、たちまちに川に入っていく。


「水浴びなんて……気温も低い、風邪をひくぞ」


「えぇー、でも、冷たくて気持ちいいですよ。身体も綺麗にできますし」


 クシェルは俺のぼやきなど意にも介さない。

 時間が許す限りは進みたいのが本音。正直な話、もう一刻だって森に居たくない。さっさと進んで、さっさと抜け出したい。

 毎日欠かさず身体は拭いている。服も綺麗……とは言うまいが、最低限の汚れは洗っている。不潔ではないつもりだ、だからわざわざ川にまで入って清めずともいいだろう。そう考えていたが、ここでクシェルがとんでもない発言をかます。


「でも兄さん、ちょっと臭いますよ」これが決定打となった。最終的に折れるのはいつだって俺の方なのだ……。


「絶――――――っ対に、見ちゃ駄目ですよ」


「分かったよ」


「絶対ですからね」


「分かってるって」


「絶対の絶対ですよ」


「ああ、もう」


 しつこいな、とまでは流石に出なかった。多分、言ったらクシェルは怒るだろう。

 クシェルの上擦った調子の声音には抑えきれない興奮が内包されていた。気持ちは分からなくもない。時間を取って水浴びなんてずっとしていなかったから。

 二人で一緒に、というのもあれなので交代で別々に身体を清めることにした。

 裸を見られても俺は別に気にしないが、珍しくクシェルに本気で拒絶されてしまった。

 昔はよく身体を拭いてやっていたのに……遂に兄離れか、彼女も年頃になってきた。


「とりあえず俺は向こうで休んでいるからな」


「待ってください」木陰で休もうと背を向けるや否やでクシェルに袖を掴まれる。「あの、あんまり離れるのも、駄目です」


「えぇ? でも見られたくもないんだろ」


「それは……はい。なのでそのまま待っていてください」


「注文が多い妹だなぁ」


 致し方無く、背を向けたまま適当な石に座り込む。

 クシェルは俺が腰を下ろすのを確認してから服を脱ぎ始めた。


「振り向いたら怒りますからね」と念を押すクシェルだが、あんまり言われると逆に振り返りたくもなる。

 ただじゃ済まなさそうなので思うだけでやらないが。


 途中で歩みを止めたのはこの日が初めてだ。それもほぼ丸一日を潰してしまった。

 あくまで身体を清めるだけの話が最終的には水を掛け合うじゃれ合いに発展……最早ただの川遊びだった。


「――――――それで、満足はしたか?」


「えへへ、気持ちよかったです。あ、いえ、その、兄さんがどうしても入りたいって言うからですね、クシェルは仕方なくですね……」


「何言ってんだお前」


 水が跳ねた、掛けたの掛けられただのと、よく分からない内に二人ともびしょ濡れの状態になっていた。

 どっちが先かはクシェルにとって重要でないことだった。

 結局は夕刻になって気温が下がり、互いに凍える羽目になるという始末。

 なので今は二人仲良く、焚火の前で暖を取っている。

 ちなみに期待通りに川魚が獲れたので、遊んでいても夕食に困ることは無い。味気ないが、いい塩梅に脂がのって美味しそうだ。

 乗り気でなかったのは最初だけ。終わってみれば互いに良い気分転換となった。やたらと消耗したが悪い気分ではない。

 今日まで暇なく、一時も気を許さず張り詰めてきた。

 針の穴を縫って進んできたが、息抜きが必要だったようだ。自覚は無かったが、きっと自身が感じる以上に切迫していたのだろう。

 ひょっとすると川に入るよう勧めたのは、クシェルなりの気遣いだったのかもしれない。

 いやまさかな、流石に深読みだろう。


 その日の夜、クシェルはいつに増して上機嫌だった。

 冷たい地面に並んで、満天の空を眺める。

 森の夜は恐ろしく暗く、一歩間違えて踏み入れば闇に呑まれてしまう。代わりに見上げた星々は煌びやか。


 絢爛な空模様はまさに圧巻の一言だ。

 如何なる言葉を飾ろうと、この美しさには届きはしないだろう。

 純然たる大自然の環を前に、自己の存在とは斯くも矮小な事か。

 沈黙の中、息遣いのみが大気を伝う。

 隣り合うクシェルの鼓動さえも、今にも聞こえてきそうだ。微かに触れた指から感じる熱……阻む物は何もない。

 まるで、世界に二人きりしか居ない気分だった。


「なんだか贅沢な感じがします」


「何だよ、急に。可笑しなことをいう奴だな」


「えへへ、そうですか?」


「何にもないよ、森ばかりだ」


「でも、ここには兄さんがいますから」


 クシェルの咲いた表情に視界が埋め尽くされる。彼女が惜しげなく晒す情感は常に面映ゆく、そして何より尊かった。

 どことなく機械的に笑うことが増えていた彼女の懐かしい笑顔。

 果てなく澄んだ透明な振動が鼓膜に潜って脳中へ浸る。

 いい返答が浮かばない。

 詰まる呼吸で窒息しそうになる。

 過剰なまでの純粋さから紡がれる言の葉……悔やまれるのは、応える術を俺が持ち合わせていないこと。


 ――――――ここには兄さんがいますから。


 鼓膜の奥では彼女の放った台詞が意図せずに反芻していた。

 泣き出してしまいそうだ。

 溢れる熱の正体は、限りのある語彙ではとても形容出来ない。

 だがあえて言葉に変えてしまうのは、何故か勿体無い気がする。とにかく、不毛であった。


 でも確かに。もしかしたら本当に必要な物なんて、いくつもないのかも。

 クシェルの横顔を見て、そんなことを思う。


 その晩、彼女はうなされなかった。

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