第7話 逃亡の始まり


 淀んだ意識の淵で、「目を覚ませ」と声が反響する。

 声に誘われて瞼を開いた。

 意識を取り戻した俺は一人、森の川辺にうつ伏せで倒れていた。

 下半身は水に浸かった状態であった。川の水はとても冷たく、流れと共に体温を根こそぎ奪わんとする。急ぎ川から這い出ようと動けば、脳天まで貫く痛みがやってきた。


「っっううぅ……――――――!」


 苦しみ悶え、仰向けに寝返りをうてば、いっそ恨めしいほどに青々とした空が在った。

 何時間、気を失っていたのだろう。

 激流に呑まれ、一瞬で意識を持っていかれた。着水の直前までは朧げに覚えているがそこからの記憶は全くない。

 随分と長く眠ったような倦怠感がある……身体は思うように動かない。

 意識こそは明瞭であるが、肉体が精神の覚醒に上手く同調していないようだ。

 何とか立ち上がるも、とんでもない激痛が走った。

 例えば皮膚や肉を削いで剝き出しになった骨を鈍器で殴れば、こういう痛みになるのだろうか。加えて体感したことのない息苦しさ……まるで喉の奥にパンでも詰め込まれているようだ。

 呼吸を整えようと大きく肺を拡げれば、猛烈な吐き気が訪れる。

 せり上がる不快感を前に、堪らず膝を崩して蹲った。

 川面まで顔を持っていければ良かったが、その余裕は無かった。おかげで顔やら服やらが汚物まみれ。

 相当量の水を呑み込んでいたのか、およそ信じられない量の水を吐き出す。

 吐いてはえずいて、また吐いてを胃が空になっても終わらず繰り返した。

 最悪な気分だ、気力とか生気とか、そういった物をまるまる絞り出した感じがする。酷いのは、吐いている最中も容赦なく襲い来る痛み。

 まるで拷問、生き地獄だ。

 恐る恐る服の下を覗くと左脇腹の辺りに、幅広く青黒い斑紋がある。なるほど、呼吸をすると痛むわけだ。流されている間に岩にでもぶつかったか、肋骨の部分が陥没していた。


「でも、まだ、生きてるのか」


 生き残れたのが不思議でならない。有り得ない高さからの落下だった。そのまま終わるものだと、そういう覚悟を持って身を投げた。

 死ぬ気だったわけじゃないが、助かる可能性は感じてなかった。

 あの瞬間、俺はまだ幼い妹に心中を強いたのだ。

 視線を合わせた時、確かに感じた。クシェルは全てを理解していた。そして、その上で彼女は迷わず応えてくれた。


「そうだ……クシェル……クシェルは!」直前の記憶を遡り、やっと妹の存在に思い当たる。


 周囲に目を配れば、川を下る方向に不自然な光の反射を見つけた。

 見間違うはずもなく、彼女の白髪に陽光が跳ねたものであった。

 痛みに足がもつれ、不格好に横転しながら駆け寄る。


「……そんな、駄目だ」


 彼女は力無く横たわり、顔の半分までが水に浸かった状態だった。

 水位が上がれば今にでも流されてしまう。急いで引き摺り上げ川辺から離れる。いつもなら簡単に持ち上がるクシェルは、水に濡れているせいか非常に重く感じた。

 クシェルの身体は俺と違い、目立った外傷はほとんど見受けられない。ただし右足だけは痛ましい惨状にあった。

 瞳を閉じたままの彼女を引き寄せて、鼓動を確かめる。

 とくとく、とくとく――――――短く拙い、だが確かな脈動がある。


「……おいクシェル、起きろよ、起きてくれ。無事、なんだろう?」


 凍えた手を握り呼び掛けた。当然、クシェルからの応答は無い。

 脈はある、息も。意識のみが彼女の元に無い。身体は冷え切って、氷みたいだ。

 赤みの抜けた頬は、彼女が何か作り物のような無機物感を与えている。もし、このまま目覚め無かったら。


「頼む、お願いだから、なぁ」


 ふざけるな、在り得ない。

 クシェルを犠牲に俺一人生き残る。そんなこと、許されるものか。

 何度も声が枯れるまで名を呼び続ける。一向に目覚める気配は無くて、安らいでさえ見える彼女の表情が倒れた母の姿と重なっていた。


 視界が歪み、声ともならない音が漏れる。頼む、頼むよ。

 不意に揺られるだけの肉体から微かな抵抗。必死の呼び掛けが届いたのか、遂にクシェルの指がぴくりと反応する。

 瞼がうっすらと開き、見慣れたつぶらな瞳が現れた。


「あれ、兄……さん?」

「クシェルッ。俺が分かるか! 何処か痛むところは!」


 目覚めたクシェルは状況をよく吞み込めていないのか、呆けた表情で瞬きを繰り返した。


「兄さん、もしかして……泣いて、いるのですか?」


 まだ夢現といった様子のクシェルの指先が目尻を撫でる。

 馬鹿な、妹の前で兄が泣くものか。

 安堵からかさらに溢れそうになった涙を堪え誤魔化すように抱擁する。そうしたら彼女は「えへへ、苦しいですよ」と、掠れ声でやんわり微笑んだ。覇気はないが、どうやら無事ではあるらしい。


「あの、ちょっとばっちいです」


 何かに気付き眉根を寄せたクシェルが、途端に俺の胸を押し返す。

 俺はそこで自分が汚物まみれなのを思い出す。見た目もだが、特に臭いが酷い。胃液やら血の鉄臭さやらで、自分でも鼻が曲がりそうだ。

 でも、それでも、構うものかとクシェルを捕まえた。もう一時だって離したくない。ただ今はクシェルの温もりに接していたかったのだ。彼女は当然良い顔はしなかったけれど、無理に解くこともしなかった。


 とにかく、無事でいてくれて良かった。

 俺と比べれば比較的怪我の少ないクシェルだが、右足の状態は酷い有り様だった。

 ふくらはぎの外側から脛にかけての肉が裂け、傷の周りは大きく腫れている。

 彼女はあまり痛みを感じていないのかけろりとしているが、見るからに重傷だ。一応、ゆっくりなら歩けるらしいクシェルが「なんとか平気です」と腕を九の字に掲げる。気を遣ってくれたのか、表情は強張っていた。

 怪我の具合もあって一先ず俺たちは適当な洞窟――――と呼ぶには余りに狭く、大人が辛うじて入り込める窪み――――で夜を明かすことに決めた。

 洞窟の中は尻が痛いことを無視すれば居心地は悪くはない。

 押し込まれる窮屈さが、何故か却って安心する。濡れたままでは風邪をひくので、火を起こして服を乾かした。

 残念ながら夜通し火を焚く量の枯れ木は手に入らず、寒い夜を過ごす羽目になったが冷たい夜風に曝されぬだけマシか。

 全身の痛みに感応して怨嗟と憤怒の念が渦巻いた。


 あの男、確かヴァルリスと呼ばれていた。

 奴だけはいずれこの手で殺さなければならない。

 決意を胸に瞼を下ろす。血が滲むほど握った拳へ誓いを立てた。


 必ず、クシェルを守り抜いてみせる。

 そして父と母の無念を、いつか俺の手で必ず晴らしてやる。


 ◇


 一夜明けたが、結局俺は一睡もしなかった。

 月の無い、一際暗い夜であった。夜が更けて空が白むまでの間はずっと、村を襲った連中へと考えを巡らせていた。

 目の奥にこびりついて離れない父の最期。

 どれだけ強く目を擦っても、焼き付いた光景は拭えない。いつか、いつかと呪詛を吐く。

 これからどうするべきか、父の言葉に従うのなら、さらに西を目指すのがいいか……何にせよ先ずは森を抜けなければ。

 クシェルも気を張っていたのだろう。

 少し眠ったと思えば起きて、また眠ってを繰り返していた。目覚める度に「置いていかないで」と涙する彼女を、無力にも慰める事しか出来ない。

 一晩休めば少しは痛みも引くかと期待したが、痛みが酷くなっている感覚すらあった。

 容態が芳しくないのはクシェルも同様。

 彼女の右足は一層腫れ上がり、見るも痛ましい状態に悪化している。

 いよいよ、自力で歩くのも困難になった。追手が掛かる可能性がある以上、立ち止まっている余裕は無い。となれば必然、俺が背負って運ぶことになる。

 クシェルはやはり相当弱っているようだ。

 治癒の力を行使せんと試みても光は発生せず、無論、傷が癒えることも無かった。

 彼女は不甲斐ないと自分を責めたが落胆は無かった。元々、不確かな力なのだ。当てにするには不確定要素が多すぎる。


「に、兄さん、あの、辛くはありませんか?」

「大丈夫だよ、クシェルは軽いからな」


 背中から思案気に声を掛けるクシェルへと、俺は可能な限り明るく振る舞った。

 これ以上彼女には心労を掛けたくなかった。

 彼女は訝しんでも追及はしてこない。ただただ申し訳なさそうに黙然と口を噤む。

 無論、ただの強がりに過ぎなかった。

 虚勢にも満たない不細工な作り笑いに、多分クシェルは勘付いたのだろう。

 何せ普段はちょっとした切り傷すら見逃さない子なのだ。俺の現状くらい、聞かないだけで理解できているはず。

 それでもクシェルが黙って従うのは、彼女が俺を信じているから。そして兄である俺の、意地のようなものだった。


 やれるはずだろう。

 そのために今日まで鍛えてきた。まだ身体は動いてくれる。

 一歩進む毎に筋という筋、骨という骨が痛むけれど、鬱陶しいくらい感覚はしっかりしていた。

 乗り越えろ、歯を食いしばり、少しでも前に。

 上がらない踵を引き摺って進む。

 その間も警戒は怠らない、二度と失態は犯さない。

 五感を研ぎ澄ませ周囲に目を配れ。一時も気を許してはならない。


 ――――――……ぎゅううぅ。


 折角張り詰めた緊張に水を差したのは、何とも間の抜けた可愛らしい唸り声。


「ご、ごめんなさい」

「……」


 てっきり何かの泣き声かと勘違いした音の正体は、まさかのクシェルの腹の音だった。

 言わずとも黙っていればよかったのに、羞恥心が勝ったか。背負っているから顔は見えなかったけれど、耳が極端に紅潮していた。

 しかしまあ気楽なものだ。生死に係る非常時だというのに。

 

 でも、気は紛れたな。

 もしも俺一人助かっていたら。

 クシェルが、彼女に先立たれてしまっていたのなら、俺はきっと進むことを諦めていた。

 だから今はちっぽけな兄の矜持と、なけなしの希望に縋れ。きっと、状況は好転するはずだ。

 何にせよ、先ずは食べられるものを見つけなければ。

 空腹が続けば三日と待たず、まともに動けなくなる。不幸中の幸いか、川が流れているから水だけは潤沢にあるが、水で飢えを凌ぐにも限界がある。

 持って五日か……精神的な部分を考慮するなら、やはり二三日が限度になってくる。もう少し川の流れが緩やかであれば魚でも捕れただろうに、荒々しく飛沫を散らす急流は地上からの侵入者を悉く拒んでいた。川の淵まで行けば流れも落ち着くが、今ここで川に入ろうものなら溺れて仕舞いだ。

 とにかく、食糧の確保さえ済めば精神的にはかなり落ち着ける。

 食事を摂れば傷の治りも早まるだろう。ただでさえ追われる身だ、せめて体力ぐらいは全快させておかないと。

 森の茂みからして、野生動物は多く生息しているはず。

 これだけ陽の光と水に恵まれているのなら実りに期待できる。

 取り敢えずは森も抜けねばならないから、食糧を集めつつ川の流れに沿って下流を進むのが最善か。太陽の位置から見るに川はおおよそ西に向かって流れているようなので丁度いいだろう。

 懸念があるとすれば、敵も同じことを考える――――――という事か。


「いいさ、来るなら来い」


 いつ何時でも対処できるように、今一度気を引き締めねばならない。

 やってやる、すでに三人の命を奪った。

 クシェルを守れるのは、俺しかいないんだから。

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