第6話 終焉を紡ぐ

 鮮血が、風に吹かれた花弁の如く舞い踊る。何だこれ、誰の血だ。

 ふと視線を落とせばどうしたことか、母がうつ伏せに寝ころんでいた。皴の無い服が、赤く汚れている。綺麗好きな母にしては珍しいな。こんな、汚れた格好をするなんて。背中から矢尻なんて生やしているし。

 ……矢尻?

 どうして母上の背中に、矢が刺さっているんだ?


「いやああああああああああああああああああっっ――――――!」


 呆然としていた俺を我に返したのはクシェルの悲鳴だ。

 母が射られた場所は、本来は俺が立っていた場所だった。

 母は、飛来する矢から俺を庇ったのだ。本当は、俺が守らなきゃいけないのに。


「母上っ、ああ、そんなっ……しっかり、しっかりしてくれ!」


「母さん、お母さん! いや、いやよ。死なないでぇ」

 母の真っ白な肌は赤黒く塗り変えられ、瞳からは光が、表情からは生気が瞬く間に失われていく。


「ヴォル……フ、お願い、クシェル……を」


「大丈夫、大丈夫だよ母上。必ず助かる、助けるから」


 指示するよりも早く、クシェルは射られた母の治癒に入っていた。

 クシェルの掌から膨大な光が注がれているが、流血は止まらない。傷が深すぎるのか……治癒が全く間に合っていない。

 己の死を悟ったのか、母の瞳には諦観が滲んでいる。いつもと変わらぬ、安らいだ表情。青ざめた唇は逃れられぬ死を宣告していた。

 まだ微かに息がある。

 酷く弱々しいが、確かに生きている。挫けそうになる心をどうにか支える為、「大丈夫だよ」と繰り返した。もしかしたら、心臓は外しているかも。ならば助けられる、助けなければ。時間がない。傷を押さえて、血を止めて、それから、それから。


「――――――よもや女子供に後れを取るとは。所詮は賊、やはり期待は出来ん」


 背後で剣を抜く音がした。

 現れたのは俺よりも頭二つほど高い、長身の男。

 漆黒の毛並みを持つ馬を連れた男の身は、深紅の鎧に覆われており、その手には宝玉で柄を飾った剣が握られている。


 こいつが矢を射たのか。視線を交わらせると、男は怪訝な面持ちで俺を見下ろした。


「小僧、何処かで会ったか」


「知るかよ、糞が」


 逃げろと、本能が警鐘を鳴らしている。

 身体は蝋で固めたように重い。

 騎士は構えもせず不用意に近づく――――――俺を侮っているのか?


 舐めやがって、今すぐにでも息の根を止めてやる。腸をぶち裂いて、そこいらの肉塊と同じものに変えてやる。

 男が間合いに入った刹那、喉元目掛けて一閃した。踏み込み、腰の入れ方、鞭のようにしなる腕、繰り出された剣は、これまでで一番冴えていた。

 正確無比に放たれた一撃が、隙だらけの男の命を刈り取るべく疾走する。


「な、に?」


 俺の剣は男の首を切断するはずだった、少なくとも、そのつもりで放った。だが実際には剣は易々と受けられ、手傷はおろか男は微動だにしていない。

 迫る俺の剣に己の剣の腹を添えただけ、たったそれだけだ。そんなことで俺の全力が防がれた。


「美しい剣捌きだ。その歳にして洗練されているな」


 弾かれた感触とは違う。

 勢いを殺された。果たされぬ切断に不快感を抱く間も無く、凄まじい衝撃が襲い来る。

 目障りな羽虫を払うように薙いだ男の剣が、軽々と俺を弾き飛ばす。どうにか受け身を取ったが、ダメージは免れなかった。


 馬鹿げた怪力だ、さながら野生の猛獣。

 内臓を痛めたか、上手く息が出来ない。受けたのは悪手だった、無理な態勢でも避けるべきだった。

 手先が痺れ、足に力が入らない。立つのがやっとだ。

 一合で理解する。この男は俺よりも遥かに強い。

 不味い、どうしても勝ち筋が見えてこない。まるで父を相手にしているように錯覚する。もしかしたら、それ以上の……。


「そうか、もしや貴様、ラグナルの息子か? 道理で懐かしい顔のはず。奴の血を継いでいるとあれば、その剣技も頷けよう」


 想像を超えるダメージに動けずにいる俺へと、男は両手を下げたまま距離を詰める。すぐ構えないと負ける。

 いや、それよりもこいつ今、何ていった?

 父が、ラグナルが何だって?


「惜しむらくはその体躯。まだまだ線が細いな」


 俺に止めを刺そうと、男が剣を振り上げた。

 脳裏に実感すら伴う強烈な死のイメージが舞い込む。視界の端でクシェルが何か叫んでいる。

 一巻の終わりか……死を受け入れ目を細めた瞬間、火花が散った。


「……父上!」


 閉じかけた瞼を持ち上げれば、父と男の剣が鍔迫り合っていた。間一髪、助けに来てくれた。何十人切ったのか、父の髪から返り血が滴る。


「下がっていろ、ヴォルフ!」


 父が爆発的な勢いで男に襲い掛かる。

 降り頻る剣は何もかも破壊しつくす暴力の嵐だ。

 怒涛の連撃に負けじと男も反撃する。よもや父の攻勢を凌ぐ人間が存在するとは。

 それどころか男の手数が多い。詰将棋のように、じわりじわり父が追い込まれる。

 隻腕では捌き切れないのか、受け損なった父の脇が開いた。致命的な隙だ。男がここぞと踏み込む。

 しかしその強襲は、父の鋭い回し蹴りによって阻まれる。巧い。寸でのところで躱されたが当たれば勝負は決まっていたかも。もしや姿勢を崩して敢えて誘ったのか。あんな姿勢から、あんなに強い蹴りを見舞うとは。


 初動を見た限り実力は拮抗、否、やや父の分が悪いように感じる。

 初撃、そして今の一撃、どちらも必中の間合いだった。なのに、男には通じなかった。


「久しいな、ラグナル」


「ヴァルリス……」


「劣ったなぁ。王都に居た頃であれば、最初の一太刀で私を羊皮紙のように裁っていた」


 何処か懐かしむように目を細めた男には、不思議と哀愁すら漂っていた。

 しかし今の攻防、父の太刀筋は辛うじて追えたのに……奴の切っ先は視界の端にすら捕まらない。

 機微も、技の起こりも、男からは何も見えてこない。何なんだこの男。会話からして父とは面識があるらしいのだが。


「ヴォルフ、いいか。馬を奪ったら、クシェルを連れて逃げろ」


 顔を寄せた父が、男の乗ってきた馬を視線で指して囁いた。


「馬鹿……言うなよ。母上だって、助けないと。二人で戦おう、足手纏いにはならないから」


「せめて俺に利き腕があったなら、それもよかったかもなあ」


 その台詞は暗に、あの男には勝てないことを語っていた。確かに俺の見立てでも、奴の方が上手だ。つまり父は、負けると分かって挑みに来た。何故わざわざ死地に赴いたのか――――――それは俺とクシェルを生かす為だ。


 父の決意はとうに固まっている。ならばここで俺が為すべきは一つしかない。


「賢いな。流石は俺とウェスタの子供だ」


「父上、俺は、もっと」


 もっと稽古に励んでいたら。もっと強かったら、大きかったら。父の隣で並んで戦える男であれば。後悔しても遅い。取り戻せない、俺たち家族の日常は、完全に崩れてしまったのだ。ここで別れれば、二度と両親に会えない予感があった。


「とにかく西を目指せ、いいな」


「残念だがラグナル、誰も逃がすつもりはないぞ!」


 静観していた男が攻勢に出た。

 俺と対峙した時とは違い、剣をどっしり構えている。立ち姿はどことなく父に似ていた。

 稲妻と見間違う、幾重にも残像を描いた剣閃が双方の間で迸る。


「悪いが、貴様に息子たちをやる気はない」


「構わんよ、押し通るだけだ……!」


 ふざけた戦いだ、笑いすら込み上げてくる。俺が乗り越えたつもりでいたものとは一線を画す、本物の戦い、そして剣技が披露されている。悔しいが、俺如きでは助力にならない。


「ヴォルフ、往け――――――っ!」


 力強く父が吠えた。

 逡巡を振り切り、俺は背を向ける。


「クシェル、ここを離れよう」


「いやよ、母さんがまだ! 父さんだって!」


「いいから、お前は父上の覚悟を無駄にする気か!」


 泣き喚くクシェルを母から無理やり引き剝がして、馬に乗せる。その様子を見て母は弱々しく頷いた。もう、声すら出せないのか。心の中で俺は何度も、何度も謝った。見捨てたくない。離れたくなんてないんだよ。


「頼む、走ってくれ!」


 乗馬の経験などないが、どうにかするしかない。手綱を握って馬の首元を思い切り叩く。驚いた馬は後ろ脚を跳ねさせて全速力で駆け出した。一度走り出せばこちらのものだ。後は振り落とされないように、しがみついていればいい。


『必ず、クシェルを守り抜け』


 そんな言葉が聞こえた気がした。はっと振り向くと、跪いた父の首に剣が当てられていた。


 まさか、止めろ、止めてくれ。

 慈悲が届くことは無く、父の首が飛んだ。

 声が出ない。叫びたかった。今すぐ戻って、あの男を殺してやりたかった。でも、今はクシェルを生かさないと。

 馬の息が続く限り、ひたすら真っ直ぐ西へ。

 あっという間に村が見えなくなる。悲鳴も後悔も、怒りも悲しみも振り切って。育った土地が徐々に遠ざかる。進む先には小さな丘、傾斜を超えれば見渡す限りの森が続く。もっと遠くへ、もっと。


 森に入って直ぐに馬に乗った賊たちが追って来た。容赦なく矢が放たれ、その内に矢の一本が馬の尻に命中する。

 射られた馬は悲鳴を上げ、身をよじらせて横転する。当然、俺とクシェルは身を投げ出される。

 俺は反射的にクシェルに覆い被さった。

 地面に落ちた時に嫌な音がした。腕や足、頭、そこら中から血が垂れてくる。

 クシェルは頭を打ったのかふらついている。抱いて運んでもいいが、逃げ切れるか……。

 いや、構うな、とにかく走れ。ぐずぐずしていたら追い付かれる。

 よろめくクシェルを抱えて、脱兎の如く駆ける。

 きっと森を抜ければ何かがあるのだ。父の言葉を信じて、がむしゃらに駆けた。激痛も疲労も、無視して足を動かした。止まればどのみち殺される。


「ぁあ、そんな」


 そうして死に物狂いでやっと森を抜けた先には何もなかった。あったのは断崖絶壁の渓谷だ。

 何十メートルもの溝が大地を分け、遥か谷底には緩やかとは言い難い川……ここまでか。


「へへへ、逃げらんねえぜぇ、餓鬼共」俺たちを追い詰めた賊の表情が醜悪に歪んだ。


 すでに退路は断たれた……満身創痍の肉体に、圧倒的な戦力差。

 いくら武器があっても、クシェルを抱え、とても勝てる気がしなかった。最悪、一人二人は道連れにするか……。


 終焉を確信してか、意識は急速に逆行する。

 溢れて重なるのは、在りし日の想い出。厳しくも辛くはなかった稽古の日々。

 他愛のないやり取り、とりとめのないクシェルとの会話。身を寄せ抱き合って眠った冬の夜。

 いつだって温かい料理を振舞ってくれた、誰よりも綺麗な母の背中。


 最も鮮明だったのは初めてクシェルを抱き上げた日の事。


 そしてこれから来るはずだった、もはや訪れぬ夢の日々……。


 結局適当な相手も見つからずに俺は一人身で。でも剣だけは相変わらず続けていて。両親から小言を言われるようになって。クシェルは予想通り飛び切りの美人に育って、村の皆に好かれて、そのうち俺を煙たがるようになって、俺は父みたいな扱いになって、それが寂しいなんて思って。クシェルがいい人を見つけて、結婚もして、もしかしたら、子供が生まれたり、その子供を見て、「どことなく兄さんにも似てます」なんて微笑んで、そうして、それで。


 過去と未来が交錯して、渾然一体となった現実は溶けて、爆ぜる。

 疑いようも無く、事実としての死が迫ってくる。尊敬する父と敬愛する母を殺した剣が、今度は俺たち二人を殺しに来る。


 どうせ死ぬのなら、いっそ。

 抱えたクシェルを下ろした俺は、膝を落として彼女を正面から見つめる。

 今から俺は、この子に残酷なことをしなくてはならない。


「なあ、クシェル」


「はい」


「俺を信じて、きてくれるか?」


「……うん」


 クシェルの手は震えていなかった。

 臆しても、怯んでもいない。果てなく澄んだ翡翠の瞳は、ただ真っ直ぐに俺を捉えている。

 俺の選択を微塵も疑っていない。信頼や信用では語れない、言葉を超えた何かが在った。

 これが最後の抱擁になるのかも。そう思って、今までで一番強く彼女を抱き寄せる。

 それから、俺たちは。


 ――――――深い谷の底へと、身を投げ出した。

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