第5話 襲撃


 いつの事か。

 俺は石造りの塔の頂上、街を一望できる展望台へと足を運んでいた。

 天に届こうかという高さ。

 地平の果てまで見渡せる。

 手を伸ばしたら、うっかり雲すら掴めてしまうそうだった。


 少し視線を落とせば街並みが拡がっている。

 密集した民家、舗装された通り、街燈、露店に集る人々。和気藹々と、活力に満ちた営みが肌に伝わる。


 見渡していると街の影が一所に集まっているのが分かった。

 打鍾の音が街中に響き渡り、追って大歓声が地響きを起こす。


 何やら催しがあるらしい。

 急ぎ塔を降りて通りに出れば、人垣に行く道を阻まれた。

 人垣を何とか掻き分けて、最前列に割り込む。

 ざっと開けた視界を埋めるのは屋上から撒かれた花びらの舞、そして銀の鎧を纏った騎士の行進だ。

 傷一つない騎士たちの鎧は煌びやかに光沢して、目を眩ませる。

 先頭の馬車はある程度質素に造られており、それが寧ろ一層の気品を醸し出していた。

 無駄な派手さこそないが、一目で選りすぐりの細工師が意匠を凝らしたのだと理解できる、緻密な設計と技術の粋を尽くした馬車。

 さぞ高尚な人物が乗っているのだろう。

 さらにその馬車の真隣には、馬車を守護するように並走する父。


 あんなところで何をしているんだ……?


 鎧なんて着込んで、両脇に剣まで持って。乗馬する父は俺に気付いたのか、手を上げて行進を止める。ピタリと、寸分の狂いなく統率された騎士の練度にも驚かされるが、そんなことより周りの関心を引いてしまっていた。

 何十、何百という視線を受けて竦む俺など気にも留めず、馬を降りた父は「こっちにこい」と手を振った。

 手招きする父に、躊躇いつつも近づく。誰かに背中を押されたのだ。尻目で見れば、母の姿があった。父は俺を両腕で抱き上げると、上に掲げて皆に見せびらかした。

 恥ずかしくて、全身が沸騰するように熱かった。


 ◇


「――――――……んん」


 夢の世界から現実へ戻された俺を一番に迎えたのはクシェルの寝顔だ。

 クシェルを起こさないようにベッドを下り、いつの間にか剝いでいた毛布を掛け直す。もう外は明るく、締め切った窓の隙間からは斜陽が漏れていた。

 そう言えば記憶違いでなければ父と狩りの約束をしたはずだが――――――しまった、完全に寝過ごした。


「夜明け前には出ると言っただろうが」

「ご、ごめん」


 支度をして玄関を飛び出ると、渋い顔をした父が太陽を背に立っていた。謝ったら「まあいい」と許してはくれたが機嫌は悪そうだ。いつもなら分担する荷物を全て手渡される。護身用の長剣二本、弓に矢、その他諸々と結構重たい。

 遅刻した身なので文句は言えまい。溜息を一つ、父の後に続く。


「また、あの夢か?」

「あぁ、うん。まあ、そんなところかな」


 今日見た夢、実はこれが初めてでは無かった。

 頻度はごく稀なのだが、あまり繰り返すものだから細部まで鮮明に覚えてしまっている。初めこそ「不思議な夢だな」くらいの感覚だったのだが、回数を追う度に印象はまるで変わっていた。

 端的に、俺はあの夢を夢だと思えなくなってきていた。

 変な言い方だが、あまりにリアルすぎるのだ。

 夢の中で俺を抱き上げた、在る筈の無い父の手の感触。温もりすら感じたあれは決して想像の産物ではない。過去そんな話を父に相談したこともあったが、鼻で笑われてしまった。

 父は俺が王都や村の外に関心があると知っているから、だから願望が夢に現れたのだとあしらった。もちろん、俺は納得していないのだが。

 でも、もしあれが夢じゃないのなら……。


「静かに、居るぞ」


 物思いに更けていた俺を父の制止の声が引き戻した。

 知らぬ間に狩場に着いたらしい。

 父の指差した方角、繁みの影が不自然に動く。大きくはないが、何か隠れている。目を凝らして注視すれば、ごわついた輪郭が姿を見せる。


「猪か、小さいな」

「射ってみろ。気取られるなよ」

「言われるまでもないよ」


 獣の感覚は人間よりも鋭敏だ。

 荒んだ気配、害意はすぐ気取られる。

 雑念は払い、意識を切り替えなければ。距離は十分、風も無く、視界もいい。

 下手に動かず獲物が身を翻して急所を晒すのを待てばいい。前足からおよそ指三本の位置、そこが心臓だ。

 大きく息を吸って、吐く。

 細部にまで循環する血液に新たな酸素を取り込んで心を、やがて存在すらも自然と同化させる。弦に矢をつがえたら、ゆっくり弓を押しながら弦を引いた。いつでも射れる。

 猪の全貌が繁みから現れた。餌を探しているのか、あちこち地面を忙しなく嗅いでいる。右、左、もう少し、こっちを向いたら……。

 だが、どうしたことか、急所を晒す直前になって猪はピタリと硬直する。何か異変を察知したのか、周囲を見渡すと一目散に逃げだしてしまう。馬鹿な、悟られるはずがない。


「父上、一体何が――――――」

 

 どうして逃げられたのか。父に聞き終える前に五感に不穏な空気を感じ取った。言葉を区切って感覚を集中させる。煙の匂いと……これは、叫び声?


「ヴォルフ、急いで村に戻ろう。どうも嫌な感じがする」


 何か尋常ではない事態が起きている。

 半ば落ちるように山を下り、父と共に村への帰還を急いだ。

 真っ先に脳裏に浮かんだのはクシェルと母の安否。無事であればよいが……空を黒く染める黒煙に、要らぬイメージがちらついてしまう。

 並走する父の横顔は今までになく切迫している。

 クシェルの出産の時ですら、微塵も動じなかった父からは確かな焦燥の色が見て取れた。


「なんだ、これ」急行した先に在ったのは、とても信じ難い光景だった。


 猛火が村人ごと民家を吞み込んで、悲鳴がけたたましく反響している。

 これまで嗅いだことのない人の焼ける臭い。

 無惨にも全身を切り刻まれ、幾人もが地に伏していた。そしてその傍らには斧を手にした、毛皮を羽織った男たち。中には馬に跨っている者も居た。一人二人ではない、村のあちこちで同じような格好の者が暴れ回っている。視界に捉えただけでも、ざっと二十人はいるだろう。


 ――――襲撃だ。


 ふいに蘇ったのは昨日の首長との会話。

 話には聞いていた。戦争の影響で、各地が荒れていると。野党や山賊の類が、村々を荒らし回っていると。

 話には聞いていたが、まさか自分の村が災禍に見舞われるとは思ってもみなかった。

 阿鼻叫喚の地獄絵図。体感したことのない死の気配に極度の緊張が身を襲う。


「おい、大丈夫か」


 父が思案気に俺の顔を覗き込む。手にはすでに剣が握られている。木剣でない、鋼を鍛えた本物の剣。

 鈍光を宿した刀身は災禍を前に、異様なほど冷たく映えた。

 父から滲み出るのはかつてない気迫、あるいは殺気だろうか。目の前にしても、自身の知る父だとは信じられぬ圧迫感がある。

 触れられてもいないのに、何か大きな力で押さえつけられている感覚。静かな怒りが、しかし確かに空間を侵食していた。

 あまりの迫力に息を呑む。怯んだわけでは無かった。

 戦場の気配というのか、そういう物が父から漂っている。稽古ではけして悟らせない、父の隠された側面だ。


「……ここは父さんが引き受ける。お前は母さんと―――クシェルを助けに行け」

「待っ――――――」


 制止を掛ける間もなく、父が渦中へと飛び込んだ。

 言葉は途切れ、伸ばした手は空を切る。

 まさかたった一人であの数を相手取る算段なのか。父の技量はよく知っているが、正気を疑いたくなる。せめてもう少し待ってくれれば、俺も加勢できたのにと。

 父には遠く及ばずとも、しかし稽古の成果は十分に現れている。野党や山賊、ごろつき程度に後れを取る気は微塵もしなかった。

 しかしどうしたことか。

 父の後に続く、その一歩が踏み出せない。

 行き場を失った手を見れば自分が震えていることに気が付いた。出来ていたはずの心構え、抑え込んだはずの恐怖心が身体を委縮させている。

 視線の先では散り散りに逃げる皆を庇いながら戦う父の姿。

 凄まじい剣捌きで縦横無尽に襲い来る賊を切り伏せ、薙ぎ倒していた。稽古での父はやはり、まるで本気では無かったのだ。

 父にとって自分はまだ枷でしかない。

 多少剣が使えようと、戦場に立てるだけの屈強さは無い。だからこそ父は母とクシェルを託して、単身で切り込んだ。

 一歩踏み込めば、そこからはきっと命のやり取りになる。「お前は戦えるか」と、その覚悟を問われている気がした。


「くそっ」


 恐れを断ち切るため、剣の柄で思い切り太腿を殴打する。

 脳に直接響く鈍痛が、竦む足をどうにか奮い立たせてくれた。恐れや惑い、邪魔な思考を払拭してクシェルの姿を心に描く。

 目を閉じて瞼の裏に映ったのは、儚く微笑んだ、天使に見紛うような純白の少女。

 父に託され、守ると約束した妹の笑顔を思い出す。

 退屈にも優しく紡がれる幸福に満ちた日々、あの温もりを誰にも奪われて堪るものか。失うはずはなかった、この世の終わりまで続いたはずの世界。それが今、無法者たちの手で侵されている。

 村は焼かれ、人は殺され……奴らの凶刃はやがてクシェルにも、と。瞼を押し開いた時、すでに震えは止まっていた。


 数多の屍を飛び越え、一直線に家まで駆けた。

 襲われている人と何度も目を合わせた。無抵抗に、あるいは抵抗虚しく簒奪される人々。

 脇目も振らずに走り去る俺の姿はさぞ薄情に映っただろう。「見捨てるのか」と、知った顔の視線が心を抉る。救える命もあったが、立ち止まりはしなかった。

 家を目前にした俺を迎えたのは炎の壁……そして身の丈ほどの大剣を携える大男だ。敵はすでに臨戦態勢にある。

 こんな輩に構っていられるか。速力を落とさずに股下を潜り抜け、そのまま炎の壁を突っ切った。


「見つけた」


 開けた視界に飛び込んだのは、三人の賊と、玄関先で追い詰められている二つの人影。

 母と、そして母に抱きしめられている妹だ。母の腕に守られるクシェルは恐怖に支配されていた。

 あと十数歩の距離に迫ると、接近する俺に気付いたクシェルと目が合った。

 怯えきったクシェルの表情は一転して安堵に染まる。はっきりと感じるクシェルからの信頼が胸を熱くした。

 浅く呼吸を吐き、覚悟を決めた。

 剣を引き抜き背後から一気に強襲する。

 対応する暇は与えない、死角からの完全な不意打ち。肩甲骨と肋骨をすり抜けた切っ先が賊の心臓を貫いた。


「な――――」胸部を刺し穿った切っ先が鮮血を纏う。

 引き抜けば鮮血が溢れ、生々しい悪臭が鼻を突く。

 鉄臭く、粘りつく血の味が喉の奥に広がった。心臓を貫かれた男は呻き声を溢しながら崩れ落ちる。

 残った二人は一瞬の出来事に動揺したのか、呆けた声を上げるだけで動けない。不測の事態によるほんの僅かな硬直、みすみす逃す手はない


「――――んだ、この餓鬼……!」

「遅い」


 ようやく状況を理解した二人が斧を雑に振りかざすが、一手遅い。

 俺はすでに次のモーションに入っている。片方に足払いを掛け、その身のこなしでもう片方の斧を躱す。

 足払いでよろめいた賊の喉元を掻っ切って、もう一人の斧を振って伸びた左腕へと剣を奔らせた。

 思い切りのいい、真っ直ぐな太刀筋。

 これという抵抗はなく切断が果たされる。肘下から腕を断たれた賊の顔面が苦悶に染まった。脂汗が滲み、目尻には涙が浮かんでいるが悲鳴は無い。血走った瞳には怒りが宿っている、戦意を削ぐには腕では足りないか。


「があああああっっ!」


 自棄になった賊は武器も無しに体当たりを仕掛けてきた。豪胆な男だと、敵ながら感嘆する。

 体格差があるので組み付かれるのは危険か。

 身を翻して左側面に回り込むと同時に、膝裏を斬りつける。

 異常に身体が軽く動く。賊の姿勢は落ちるように崩れ、膝立ちの状態を余儀なくされる。こうなってはもう、賊に勝機はない。

 初めて振るったはずの真剣は、驚くほど己の手に馴染んでいた。

 刃渡りも重みも、何もかもが木剣とは違うのに……。

 幾千幾万と目に焼き付けた父の剣技が脳に溢れてくる。どう動けばよいか、どこを斬ればよいかが視える。まるで、自分の身体じゃないみたいだ。


「餓鬼が! 絶対に殺してやるぞ! この女共も一緒だ、犯し尽くして冥府に送ってやる!」


 最後の抵抗か、もはや死に体の賊が吠えた。

 腕と共に武器を失い、自力で立ち上がることも叶わぬ、置き物同然の有り様。

 放っておいても、そう時を置かずに息絶えるだろうが……。


「……はぁ」

「冗談じゃねえぞ、いいか、この阿婆擦れの売女も、この小娘も、服を引ん剝いて国中の村に連れ回してやるからな。くせえジジイ共の相手をさせて、ぼろ布になるまで家畜みてえに飼ってやる。領主に売っぱらうってのも――――――」

「あんた、煩いよ」


 喚く賊の頭を掴み、胸骨の下から剣を滑り込ませる。

 負け犬の戯言など、聞くに堪えない。止めを刺された賊はやがて事切れ、物言わぬ肉塊と成り果てた。

 念のため、地面に転がった賊たちの急所を一回ずつ刺しておいた。戦いでは死を装い、油断を誘うこともあると父から教えられていたからだ。全員の死亡が確認出来たので剣の汚れを賊の服で拭い、鞘に納める。

 初めての実戦も終わってみれば呆気ないものだ。

 現実味がまるでなかった。夢心地というか、酩酊感と酷似した感覚がある。

 手傷こそはないが極度の興奮状態にある身体は燃えるように熱く、呼吸の度に喉は焼けるようだった。


「クシェル、怪我はないか」屍を一瞥して、俺は地面にへたり込む妹へ手を差し出した。何を躊躇ったのか、一瞬だけ手を引っ込め、改めて俺の手を取った。


「きっと来てくれるって、信じていました」

「当たり前だ、約束したろ」


 すすり泣くクシェルはいつもよりずっと小さく感じて。

 両腕にすっぽりと収まってしまう身体を、俺は優しく抱き締めた。


「ヴォルフ、助かりました。もう駄目かとも考えましたが……」

「母上も、無事でよかった」


 本当に運が良かった。

 何事も無く助けられたのは、ほとんど奇跡みたいなものだ。

 最悪の想定は常に頭の隅にあった。あるいは殺されてはいなくとも、母が賊らの下卑た欲望の餌食となる可能性も大いに考えられた。事実、ここに来るまでにそうした場面にも遭遇した。尊厳という尊厳を踏みにじられ凌辱される……想像したくもない。


「とても強くなりましたね、昔のラグナルを思い出します」

「まだまだですよ」


 母の賛辞に万感の思いが込み上げるが、生憎とその余韻に浸る暇はないようだった。未だ村のあちこちから悲鳴は上がっており、窮地を脱したわけではないのだ。


「父上が一人で戦っています。合流して、早くここを離れましょう」

「父さんは大丈夫でしょうか?」

「心配ないよ。父上、半端じゃないからな」


 クシェルを慮っての台詞ではない。

 俺には父が負ける姿なんて想像もつかなかったのだ。

 実戦を踏んだ今だから言える。父は、ラグナルは強い。彼我の力量を推し量ることすら叶わない高みにいる。まともな訓練も積んでいないごろつきが何百人集まろうが、父の脅威足り得ないだろう。もしかしたら、もう賊を全員倒していたりして。


 正直に言って、俺は慢心していたのだ。

 初めての実戦と勝利、家族の無事、そして絶対的な父の存在。

 油断しきっていた。賊の間の手から母と妹を救って、それで、全部が解決したように錯覚した。村の中はまだ、危険で溢れているはずなのに。そう、自分に言い聞かせていたのに。

 なのに、俺は、軽率にも気を緩めてしまったのだ。


「ヴォルフッッ!」

「どうかしました、母……――――――」


 名前を呼んだ母に振り向いた瞬間、両手で押し飛ばされた。

 とはいっても母は力の強い女性ではなく、どちらかと言えば華奢な方だから、ちょっとよろめくだけに収まる。


 それで、そうして。



「――――――……上?」



 態勢を戻して向き直ると母は視界から消えていて……代わりに、血飛沫が舞っていた。

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