第4話 《奇跡》


 夕食を囲い、濡れた布で身体を清めた後、俺は父と明日の狩りについて簡単な打ち合わせをしてから自室で床に入った。

 寝るには少し早いが火を明かりとするにも薪がいる。極力は資源の浪費を控える為、陽が沈んだら眠るしかない生活になるのだ。もっとも何か娯楽があるわけでもないし、夜更かしをする理由も特に無い。それに日中労働に勤しんでいるお陰で、眠気には困らなかった。一度横になれば直ぐに睡魔が襲ってくる。


「兄さん、起きていますか?」


 いよいよ眠りにつこうという直前、扉の向こうからクシェルの声。微睡みから覚め、条件反射的に意識が覚醒する。返事をすると扉が僅かに押し開かれ、その隙間からクシェルが申し訳なさそうに顔を覗かせた。


「こんな遅くにごめんなさい。迷惑でしょうか?」


「いいや、寝付けなくてね。丁度話し相手が欲しかった」


「えへへ、なら、よかったです。じゃあ、失礼しますね」


 入室の許可を得たクシェルの表情がはっきりと明るくなる。

 全くの嘘だったが、わざわざ妹が訪ねてきたのだ。邪険に追い払うのは可哀想というもの。


「よいしょ」クシェルは俺のベッドに腰掛け、ごく自然な様子で隣に寝そべった。身体を倒した反動で服が捲れ、クシェルの白いお腹が露わとなる。当然だが傷一つない、触らずとも弾力を感じる柔肌。無防備に曝された臍を毛布で隠してやる。


「こらこら、人前ではしたない。立派な淑女じゃなかったのか?」


「兄さんには、いいんです」


 時折寂しくなるのか、クシェルはこうして俺の部屋を訪れた。

 クシェルは歳の割に明敏で上品な言葉遣いをするかと思えば、その実で甘えたがる気質があったりもする。兄である自分にのみ見せてくれる特別な一面だった。


「兄さん。ここ、怪我をしていますよ」


 指摘された右肩を確認すれば服にじんわりと血が滲んでいた。木材を担いでいる時にでもうっかり切ってしまったか。結構な深さだが、全然気が付かなかった。当人の俺よりも、クシェルの方がずっと痛ましく顔を歪めている。


「酷い怪我です。痛くはありませんか?」


「こんなの唾でもつけておけば治るさ」


「駄目ですよ、ちゃんと手当てをしないと。もし膿んでしまったらどうするのですか」


「いや、そんな大袈裟……」


「いいから、肩を見せてください」


 半ば無理やり服を脱がされ、剝き出しになった傷口にクシェルが両手を添えた。こういう場合では頑として譲らないというか……。

 傷口を覆うクシェルの両手から緑の光が溢れ出る。

 彼女の瞳よりも少し淡い、陽光を透かした木の葉のような瑞々しい色の光。

 部屋中を照らす光量があるが、何故か眩しくはない。暖かく、優しい光。光を当てられた傷口は塞がって、傷跡そのものが消えてゆく。


 クシェルには特別な力があるのだ。それは彼女だけが持つ、癒しの光。

 それはまるで、いつか聞いた《奇跡》にも思えて。


 ――――昔の話だ。

 村の少年たちに、クシェルが虐められた事があった。

 幼いクシェルは母に似て身体が弱く、丈夫になるまでは外に出ることを控えていた。


好きに出歩けるようになったのは彼女が五歳を迎えてから。

それまでは俺だけが遊び相手だった。


 そのせいかクシェルは他人と関わることがあまり得意では無かった。

 上手く自分の意志を出せず、でも、周りに合わせることも出来ない。クシェルはずっと兄である俺にべったりで、外に出られるようになってもそれは変わらなかった。


 正直な所、俺は別に気にしていなかった。

 友達がいなくたって、クシェルには俺がいた。俺はそれで十分だと思っていたし、クシェルも満足しているようだった。

 だからずっと、俺はこのままクシェルの隣に在ればいいと。

 いつかクシェルが自分の意志で離れるまでは、傍に居てあげればいいと、そう考えていた。

 

 そんな日々が続く中、旅商人すら滅多に寄り付かない俺たちの村の近くへと一人の騎士がやってきた。

 何故こんな辺境を訪れたのか、その理由はもう覚えていないが、とにかく当時から外界に興味があった俺はクシェルを置いて父と騎士に会いに行った。

 騎士は色んなことを話してくれた。街の様子や人々の営み、大陸にある国々のこと……想像すら及ばぬ地平の彼方の話。

 しばらく夢中で騎士と話したが、やはりクシェルが心配になった俺は先に村に戻ることにした。何となく、一人で寂しくしていると思ったのだ。よく解らないが騎士に話があると言う父を残して、俺はクシェルの元へ走った。


 その時の光景もまた、俺の目に焼き付いて残っている。

 急いで戻った先に見たのは膝を崩すクシェルと、その子を見下ろす少年の姿。

 少年は何やら強い口調でクシェルへ言葉を浴びせていた。何を言ったか聞き取れはしなかったが、からかい、嘲笑うような印象を持った。

 やがてクシェルは弱った様子で膝を抱えると、しくしくと涙を流し始める。

 少年は泣かせようとまでは思っていなかったのか、瞳を潤ませるクシェルに動揺しているようだった。多分、珍しい女の子を見つけてちょっかいをかけてみたとか、それくらいのつもりだったのだろう。

 何にせよクシェルは泣いていて、その目の前にはクシェルよりずっと大きな少年が立っていて……震えているクシェルを見た時、頭の中で何かが弾けた気がした。

 視界が一瞬真っ白になって、煮え滾るような何かが、胸の中を熱く燃やした。


 考えるよりも先に身体が動いていた。

 相手は一回り大きかったが、俺は力任せに少年を殴り飛ばし、クシェルから引き離した。父と稽古を重ねていたお陰か、肉体は望むように機能した。


 とにかく無我夢中だった。

 なりふり構わず倒れ込んだ少年に馬乗りになって殴り続けた。

 理性とか、そういう全部が吹っ飛んで、激情だけが拳に宿っていた。

 稽古の成果は遺憾なく発揮され、体格で勝る相手を一方的に叩きのめした。多分、殺意にも近い感情だったと思う。とにかく動かなくなるまで殴る気でいた。

 誤算だったのは少年には仲間がいたこと。

 怒りのままに拳を振り下ろしていた俺は、背後から突進してくる少年の仲間に気が付かなかった。

 あえなく吹っ飛ばされた俺は、岩の角に頭を思いっきり打ち付けた。

 身体も小さかったし、体重も軽かったから馬鹿みたいに飛んだ。

 何が起きたか全く理解できなかった。痛みよりも先に衝撃が来て、一瞬で手先の感覚は無くなった。

 少年たちは絶叫して、散り散りに逃げ出した。

 どうやら自分は怪我をしたのだと理解したのは、一向に定まらない視界が赤く染まってからだ。熱いようで、寒いような。瞼なんか、やたら重たくて。何となく、頭が割れているような感じがした。

 痛みを認識した頃には頭の中は靄に包まれて。消えかかる意識の淵で、光を見た。そして光の向こうには泣きじゃくる、くしゃくしゃになったクシェルの顔。

 目の前が霞んで、暗転する。変に心地よかったのを覚えている。


 どのくらい経ったのか、はたまた僅かな時間だったのか。

 次に光を感じた時、俺の頭は小さな膝の上に置かれていた。

 慌てて起き上がり己の頭を擦る。

 確認すれば多少の腫れと、擦り傷程度の血が滲んでいるだけだった。視界を染めた夥しい流血も見当たらない。間違いなく重傷だったのに、どうして。


「クシェルが、やったのか?」


 目尻を真っ赤に腫らした彼女に問うも、明解な答えは得られなかった。

 本人も無我夢中だったのだろう。潤んだ瞳をまんまるに開き、きょとんと首を傾げていた。


 意識を手放す直前に見た光、あれはクシェルから発せられたものではなかったか。にわかには信じ難いが、しかしクシェルの仕業だとしか考えられなかった。クシェルには、傷を癒す特別な力があったのだ。

 騒ぎを聞きつけてやってきた大人たちには質の悪い悪戯だと処理されたが、父と母だけは疑わなかった。ただ「絶対に人前では使ってはいけない」と、そう強く言い聞かされた。


 その一件からというものクシェルはあまり人前に出たがらなくなり、俺は稽古に一層と励むようになった。

 来る日も来る日も、父の剣に打ちのめされ、やる気になった俺に感化されたのか、火の着いた父からうっかり骨を砕かれることも。

 痛いのも辛いのも好きじゃない。それでも、俺は剣を振るい続けた。

 

 もっと、俺に力があったなら。

 もっと、強く在れるなら。もう二度と、クシェルを悲しませない為だけに。


「――――――はい、治りました」


 ほんの十数秒、たったそれだけの時間で右肩の傷は跡形も無く消えていた。何度見ても不思議な現象だ。「ふう」と脱力したクシェルの額は薄っすら汗ばみ、やや息も切れている。


「ああ、ありがとう。でも、無理はしなくていいんだぞ」


「兄さんの為なら、へっちゃらです。クシェルは妹ですから」


 クシェルが宿すこの治癒の力、万能と呼べるまでの代物では無かった。

 人以外には作用しないし、何故かクシェル自身のことも癒せない。クシェルによると力を使うにはかなりの体力を消耗するらしく、傷の大小に関わらず日に何度も使うのは難しいのだとか。ちょっとした切り傷を治して貰った代償に、疲弊して動けないクシェルを背負って運んだことが度々あった。

 そもそも発現した当初は、こうも易々と治癒の力を行使出来なかった。

 何かしらの条件や制限があったのか……今でこそクシェルの思うように扱えるようになったが、疲れるのは昔からずっと変わらない。とにかく、謎に満ちた力。


「さあ、もうそろそろ眠らないと。母上に怒られてしまうよ」


 どうせ自分の部屋には帰らないだろうと、クシェルを寝かしつける。自身も明日は狩りの予定がある。

 そう夜更かしは出来ない。

 冷えてしまわないように毛布を掛けて抱き締めると、彼女は兄の腕の中が絶対の居場所であるように抱擁に応じた。


「ね、兄さん。ちゃんと、クシェルを守ってくださいね」


「ああ」


「ずうっと……約束……です、よ」クシェルは交わした言葉の返事も待たず眠りに落ちた。俺はすやすやと寝息を立てるクシェルの頬に、そっと唇を当てる。


「おやすみ、クシェル。どうかいい夢を」

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