第2話 団欒


 ウェルセリアと呼ばれる大陸には、大小様々な王国が存在する。


 俺たちが属するのは大陸北部のナーヴァルトングという大国で、大陸内の王国では最も広大な領地を有していた。


 遥か昔の話、大陸北部はとても人の生きていける環境ではなかった。

 一年を通して気温が低く、気候もけして穏やかとは言い難い。

 ほとんどが溶岩と苔に覆われた土地は渇き痩せていて、日照時間も短いために作物もろくに育たぬ不毛の地。

 海に面しているので漁業こそは盛んであったが、多くの飢えを満たせるだけの豊かさはやはりなかった。

 しかしこの不毛の地は、ここウェルセリアに移り住んだある者達の手によって開墾され、営むに十全な土地にまで生まれ変わった。


 その偉業を為し得たのは、ひとえに移住した者らが持っていたとされる《奇跡》の力によるものだ。

 穏やかな気候に肥えた大地……人智及ばぬ魔境は実り豊かで、けして飢えることのない楽園へ姿を変えた。

 やがて噂を聞き付けた人々が大陸北部へと押し寄せ、いつしか大国へと膨れ上がった。


 村は街へ、街は国家へ。

 様々な民族、文化が流入したが一つの国家として機能出来たのは、当時王国を纏め上げていた初代国王の手腕あってのもの。

 民意によって選ばれた王は治世にて法を敷き、軍を作り、地を耕し、領地を拡げた。それはいつしか大陸内の全ての王国を脅かすほどに膨張し、建国より二百年、《奇跡》は一族に受け継がれ、その血脈を核にナーヴァルトング王国は繁栄を続けていた。


 俺たち家族が暮らす村はそんな《奇跡》及ばぬ辺境。

 王都からずっと北にある場所だ。

 そこでは土地は貧しく、実りは少ない。

 夏は短くて冬は長いので一度雪が降り積もれば山は閉ざされ、春先になるまで溶けることはない。

 夏が終われば直ぐに川面は凍り、海からは魚たちが姿を消してしまう。

 生きてゆくのは簡単ではないが、その土地柄ゆえに、争いとは無縁の日々を送ることが出来ている。

 かつて大陸では隣国同士での王国統一を懸けた血戦が幾度ともなく繰り返され何万という兵士、また無辜の民が犠牲になったという。今でこそ大陸を揺るがすような戦は起きていないらしいが……何にせよそんな血生臭い話は俺たちにとって、あまり関係のないことだった。


 村の中では多少の諍いはあれど、誰かが死ぬような大事にはならない。

 皆、生きる為に手を取り合っている。

 それは全員が助け合わなければ、生きていけないことを知っているからだ。


 ◇


「おかえりなさい」


 村に戻ると、家の前まで母のウェスタが出迎えてくれていた。

 空を混ぜ込んだ白髪に、目を泳がせるほどに滑らかな肢体。気品のある佇まいと容姿から、流麗という言葉が良く似合う女性。忖度なしに、村で一番の美女だろう。


「母さん! ただいま!」クシェルは両手を広げる母に飛び込むと、その胸へと顔を埋める。


「あらクシェル、外は寒かったでしょう?」


「ううん、兄さんがね! ずうっと手を繋いでくれました!」


「そう、それはよかったわねぇ」


 はしゃぐクシェルが花を咲かせた。同調した母も顔を綻ばせる。

 家に着くまでの間、俺はずっとクシェルに捕まっていた。

 手を繋いであげたというより途中で離そうとしても逃がしてくれなかったのだが……おかげで手汗が滲んでいる。

 水を差すのも気が引けるので、あえて口には出さないでおいた。


「ヴォルフは良いお兄ちゃんねぇ」


「大袈裟ですよ、母上」


 手の中に残る感触と温もりが名残惜しい。

 指を折り畳んで握り締め、それらを閉じ込める。


「さあ、皆お腹が空いたでしょう。食事にしましょう」


 父と手や足に付いた汚れを濯いで中に入る。釜に火を入れているからか、室内はずいぶんと暖かい。かじかんだ指先がやんわりとほぐされ、むず痒くなる。


「すぐに料理を並べるから、ラグナル達は座っていてね」


 身を翻した母の腰にまで届く白髪がたおやかに流れた。

 母とクシェルの容姿は瓜二つ。

 背丈こそ違うが、仕草から細部に至るまでが完璧に再現されている。

 はっきりとした相違点は瞳の色くらいか。母は海を透かしたような青色だが、クシェルの瞳は深々とした翡翠色。どちらも言い表せない格調高さがあった。

 村には五十余りの住民が居るが、母やクシェルのような白髪は見ない。目に入れば無意識に追ってしまう、圧倒的な存在感。


「兄さんの分はクシェルが用意しますからね」張り切ったクシェルが平たい力こぶを二つ作る。


 言葉に甘えてしばらく様子を見守るが、意気込みに反してクシェルの足取りはおぼつかない。

 クシェルの短く細い腕では、シチューの入った重たい鍋を持つのは難しいようだ。身体を浮かして左右に揺れる彼女は、今にも転んでしまいそうな雰囲気。懸命に運んでくれてはいるけれど……やはり無理があった。

 万が一に怪我でもしたらと考えると気が気ではない。鍋の中身はどうとでもなるが、クシェルに火傷の痕でも残ったら一大事だ。


「俺も手伝うよ」見かねて手を貸そうと席を立つ。しかしクシェルから「兄さんは座っていて」と手で制されてしまった。

 不安ではあるが、大人しく従い腰を下ろす。

 一応、危なそうなら助けられるように椅子に浅くは腰掛けておく。

 落ち着きなく指を遊ばせる俺に、父は「心配し過ぎだ」と笑って諭した。そんなことはないだろう、クシェルはまだ小さいから、気に掛けてやらなければ。そう返すも、父は笑みを崩さなかった。


 クシェルと母によって朝食が続々と運ばれる。

 食卓に並べられた料理はどれも香ばしく湯気を立たせて、ひとたび鼻腔に触れれば一気に食欲を掻き立てた。


「おまたせしました!」


 配膳を終えたクシェルが俺の右隣に座る。向かいには父、そして母の並び。


「それじゃあ、いただこうか」


 父が杯を掲げたのを皮切りに食事が始まる。

 用意された料理はパンに蒸かした芋、香辛料と炒めた木の実、贅沢にも具沢山のシチュー、そして飲み物には並々のエール。

 何を朝から酒かとも思うだろうが、寒さの厳しい土地では酒から英気を養うことがままある。腹も満たされ、身体も温まるので、何かと重宝されるのだ。だが飲み過ぎは厳禁だ、日中の作業に支障がない程度には抑えなければ。


 ちなみに今日の朝食は格別豪勢になっている。というのも、冬を越して春となったので、食料の心配が無くなったからだ。

 冬の期間は狩りも出来ず、漁に出ても浅瀬に魚が来ないので大した収穫は望めない。農業などは以ての外。どうあっても備蓄に頼るしかない冬の中では、日々の糧は質素にならざるを得ない。だから雪解けの春は一年にそう多くない、贅沢が出来る時期でもあるわけだ。

 何といっても、先ず手に取るのはエール。

 父と乾杯して一気に仰げば、渇いた身体が洗われるよう。

 豪快に飲み干したら口から垂れたエールを袖で拭い、もう一杯。


「はは、いつも間にヴォルフもすっかりいけるクチになったな」


「別に、昔から飲めるだろ」


「何を、最初なんて泡吹いて倒れていたじゃないか」


 いつの話だと、心中で悪態を吐いた。

 そりゃあ初めての時は往生したものだが……。

 

 酒を嗜むのは父と俺の二人だけ。

 母は昔から飲めない体質らしく、クシェルは当然、幼すぎるので飲ませていない。

 かといって年齢的な制限は特にあるわけでは無く、全ては家長である父の裁量に委ねられる。

 どういう基準なのか、俺は物心ついた時には口にしていた記憶があった。

 今のところクシェルには内緒にしているが……きっと「兄さん、狡いです」だなんて言って、自分もあやかろうとするに違いないのだ。現に今も物欲しそうな上目遣いで指を咥えていた。


「クシェル、駄目だぞ。お前はまだ小さいから、もう少しだけ我慢しなさい」


「父さん、いつもそういって。クシェルは大人ですよ。もう立派な淑女なんです」


「んん、そういうのなら、そうだな、せめて母さんくらいにならないとなぁ」


 父の細まった視線の先には豊満な膨らみが二つ。ごわついた布越しにも分かる形の良い胸を流し見る父へ、クシェルは思い切り顔を歪めた。


「……下品な父さんなんて嫌いです」明らかな拒絶と侮蔑を含有したクシェルの台詞に父の表情が凍った。エールを片手にピクリとも動かない。


「ラグナル、確かに品が無いわ」

「父上、よくないよ」


 ここぞとばかりに母と二人で追撃を掛ける。


「……ウェスタはともかく、ヴォルフまでそっち側なのか?」

「当然です、兄さんは私の兄さんなんですから」


 腕を組んだクシェルは何故かしたり顔。いじけた父はつまらなさそうにエールを飲み干した。


「ね、兄さん。今度、クシェルにも内緒で飲ませてくださいね」

「そんなことしたら後で俺が父上に殺されるよ……」


 こそっと耳元で囁いたクシェルに苦笑い。逃げるように硬いパンを無理やり噛み千切った。

 基本的にパンはシチューやスープ、エールに浸して柔らかく食べるのが主流で、スープやシチューの具材とする場合もある。

 そのまま食べることも出来るが、硬く味気ないのであまり美味しくはない。

 クシェルは固いパンをナイフでスライスし、シチューを塗るようにして頬張っていた。ぎこちない仕草が愛らしい。

 シチューの具材はぶつ切りにした兎肉に、乾燥させた数種の野菜。

 骨から取った出汁は深みがある。基本の味付けは塩、香り付けに数種のハーブをまぶしてあるので肉の臭みはなく、さっぱりとした口当たりとなっていた。あまりの美味しさに思わず舌鼓を打つ。


「今日は一段と美味しいね。母上、また料理が上手くなりましたか」

「ありがとう。と、言いたいけれど残念。今日のシェフは私じゃないのよ」

「え? まさか、これ、クシェルが?」

「えへへ、頑張りました」


 腰に手を当て、誇らしげに胸を張ったクシェルは、そう言って鼻を鳴らすのだった。


「――――それで父上、今日も漁に出るの?」


 用意された料理をほとんど平らげ、腹も満ちてきた。朝食を終えて少し腹を休めたら、各々の作業に取り掛からねばならない。

 村では皆、各々が日暮れまで与えられた仕事をこなす。

 例えばそれは薪割りや編み物から耕作や収穫、野草の採集、もしくは狩り。

 あるいは海に出て漁を行うこともそうだ。それぞれが能力に合った役割を果たし、貢献しあう。その割り振りは村のまとめ役である首長が行っており、首長は村の総意で任命される。まあ、大抵は最年長者がなるらしい。現在の首長もそうだ。


 ここでは毎日が同じことの繰り返し。

 命を紡ぐために必要なことを堅実にこなす。

 父や俺の村での主な仕事は漁と狩りだ。

 日中は比較的暖かいので、獣たちは活発さを取り戻している。

 山もすっかり色づいた。水温が上がってきたおかげで、浅瀬ではちらほらと獲物が掛かるようになってきた。

 昨日は父と二人で漁に出たのだが結構な収穫があった。今日も天候は落ち着いているので、連日それなりの収穫が見込めるだろう。


「いいや、今日は漁には出ない」


 父から返ってきたのは意外な返答。

 てっきり今日も、漁に出るとばかり思っていたのだが。


「それじゃあ狩りに?」

「それもいいが、今日のところはいいかな。狩りには明日朝一番に出るとしようか」

「ん、明日か、分かった」


 仕事に出ないと聞くや否や、クシェルが嬉々として身を乗り出した。


「兄さん! 何処にも行かないのならクシェルと過ごしましょう。父さん、いいでしょう?」

「いや、ヴォルフ。首長が納屋を建てるそうだから、そっちを手伝いに行こう」

「だ、そうだよ。クシェル、また明日な」


「ええー」爛々とした瞳が一瞬にして曇る。


「そう気落ちするなよ」伏し目がちに肩を落とすクシェルの頭を無茶苦茶に撫でた。

 無抵抗に揺れる頭、乱れた髪からやんわりと甘い芳香が漏れる。

「帰ってきたらちゃんと構ってやるから、な?」

「もう! 子ども扱いしないでください」くしゃくしゃになった髪を押さえて、クシェルは眉を寄せた。「でも、約束ですからね」


 澄ました態度で俺の手を払ったクシェルであったが、浮ついた声音は満更でもない様子。

 吊り上がった口角も隠しきれていない。


「まあまあ、相変わらずクシェルは甘えん坊ねぇ」

「俺にもあれくらいの態度でいて欲しいよ……」


 仲睦まじい俺たちの様子を両親は微笑ましく見つめていた。

 いつも通りの、代わり映えの無い光景。

 それはきっとこの先、何十年も紡がれるであろうものだ。


 毎日が同じことの繰り返し。

 恵まれた環境ではないが、俺は今の生活に満足していた。

 父がいて、母がいて、クシェルがいて。多忙とまではいかずとも充実に足る日々。


 でも願わくば。

 もしも叶うのなら一度でいいから村を出てみたいとも考える。

 村を出て山を越えて、もっと遠くの、ここでない場所へ。

 自分の属する王国が、この大陸がどんな場所なのかを確かめたい。もっと豊かな土地を、沢山の人を、父から聞いた話ではなく、自分自身の目で。自分の足で、赴きたい。


 羨望と憧憬だけが歳を追うごとに募っていた。

 きっとそれは、叶わない願いだろうけど。

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